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Act.159:永遠の愛という幻

 かなで椎名しいなから電話で告白をされた翌日。

 今日も奏は午後三時まで山田楽器に勤務して、その後、レコーディングに参加することになっていた。

 午前中のレッスンが終わった奏は、馬場亜ばばあに行ってみた。

 時間は正午前で、店内は、まだ、余裕があった。

「いらっしゃい」

 馬場ばばの飄々とした微笑みに、何となく安心感を覚えながら、奏は馬場の真正面のカウンター席に着いた。

「レコーディングが始まっているんじゃなかったのかい?」

「夕方からです。その前にここで美味しい御飯をいただいて、パワーを蓄えようと思って」

「それだけかい?」

「はい?」

「アタシに何か話があるんじゃないのかい?」

「……どうして分かったんですか?」

藤井ふじいさん、分かりやすいもんねえ」

「……ちょっと、ご相談したいことがあって」

「良いよ。じゃあ、ちょいちょいと定食を作るから、待ってておくれ」

 いつもの手際の良さで、あっという間に、奏の前にカレイの煮付け定食が出された。

「いつも美味しそうです」

「暖かいうちに食べな」

「はい」

 奏がカレイの身をひとくち口に入れると、出汁が良く染みていて、御飯と良く合う味付けだった。

 何口か食べた後、奏は箸を置いて、馬場を見つめた。

「最近、椎名さんは、ここに来てないですか?」

「昨日、来たよ」

「昨日……。何か、私のことを言ってませんでしたか?」

「ふふふふ、気になるかい?」

「は、はい」

「言っていたよ。憧れの女子高生は、所詮、憧れに過ぎなかったってさ。そして、ふと、周りを見渡すと、一緒にいて心が安らぐ人がいたことに気づいたってこともね」

「……」

「ひょっとして、もう椎名から告白されたのかい?」

「はい」

「返事は?」

「まだです」

「まだ?」

「少し時間をくれと答えてます」

「時間? どうして?」

 馬場は、奏の言っていることが分からないというような表情をした。

「時間が経つことで、何が変わるってんだい?」

「そ、それは……、今まで、自分の友人の女の子に夢中になっていた人が、今度は、私とつきあいたいって言われても、何と言うか、気持ちの切り替えがすぐにできないんです」

「気持ちの切り替え?」

「椎名さんが好きだった子の代わりなんじゃないかって、どうしても思ってしまうんです」

「なるほど。私を一番に考えてくれる人じゃなきゃ嫌だという訳かい?」

「そうかもしれないです」

「じゃあ、訊くけど、椎名は、まだ、その、誰だっけ? 詩織しおりちゃんだっけ? 詩織ちゃんに未練を抱いているのかねえ? それとも詩織ちゃんの気持ちが変わって、やっぱり、椎名のことが好きだったと言われると、椎名は、あっさりと藤井さんを捨てて、詩織ちゃんの元に走るのかねえ?」

「……」

「椎名のことが信じられないのかい?」

「……」

「椎名は、いつの頃からか、叶わぬ恋の相手だと自覚し始めていたらしいけど、ずっと詩織ちゃんのことを想って、応援もしていた。でも恋敵には敵わないと分かると、あっさりと身を引いた。その後も、詩織ちゃんをずっと想い続けている方が、まるでストーカーみたいで怖いよ」

「そ、それはそうですね」

「失恋した相手のことは、きっぱりと諦めて、新たな恋に踏み出そうとすることが、そんなに酷いことかい?」

「そ、そういう訳ではないです」

「だろ? それに、椎名からプロポーズされている訳でもないんだよね?」

「は、はい」

「つきあい始めないと、その人がもっと仲良くなれる人か、とりあえず友人という間柄で留めておく人なのかも、確かめられないんじゃないのかい?」

「……」

「藤井さんが、自分とつきあうことができる男は、事前審査を通った奴じゃないと駄目だっていうのなら話は別だけどさ」

「そ、そんなことは……」

「ない」と言い掛けて、奏は「本当にそうなのだろうか?」と自問した。

 バンドを始める前までは、三十路が近づいて来て、結婚に焦っていたが、詩織との出会いで、そんな気持ちはどこかに行ってしまっていた。

 と思っていた。しかし、違った。

 結婚に焦るようになる前の自分に戻っていただけだった。

 中学、高校、大学と、奏は意外とモテた。

 小柄で童顔で「可愛い」と言われて、何人かの男性ともつきあった。その頃がモテ期だったが、その時に、ずっと、つきあえるような男性ができなかったのは、ひとえに奏自身のせいだった。

 その頃、奏は友人から「シンデレラ・コンプレックス」ではないかと指摘されたことがある。

 ――いつかは、白馬に乗った王子様が自分の前に現れるはず!

 今、隣にいる男よりも、もっとイケメンで、もっと優しくて、もっと頭も良くて、将来は高収入が約束されているような男が、きっと、自分を待っている!

 そんな虫の良い妄想を見続けて、気づくと、奏の周りには、男は誰も残っていなかった。

 奏は、自分では意識をしてなかったが、成功への道をひた走るバンドのメンバーになったことで、また、自分が王子様の相手にふさわしいプリンセス、すわなち「高い女」だと思うようになっていたのではないだろうか?

 椎名は、確かにまれに見るイケメンだが、自分の夢に向かって走り出したばかりの学生で、必ず、王子様になれるかどうかは分からない。

 そのことが、椎名に対する気持ちを決めかねている理由ではなかったのか? 「プライド」と自分で名付けた、単なるおごりではなかったのか?

「馬場さん……」

 焦点が定まらないまま、奏が呟いた。

「何だい?」

「私、……すごく酷い女ですよね」

「……」

「良い気になりすぎていました」

「じゃあ、どうする?」

「椎名さんとおつきあいをしてみます」

「それが良いよ。椎名は、不器用だけど、誠実な奴なのは間違いないよ」

「……そうですね」

「それに、椎名は、いつも女をはべらしているような奴でもない。それは、椎名が軽い気持ちで恋人になりたいだなんて言えるような奴じゃないってことだよ」

「……はい」

 奏が馬場を見ると、優しく微笑んでいた。

「ほら、また、箸が止まっているよ」

「あっ、すみません」

 再び、食事を始めた奏に、馬場が「食べながらで良いから聞いてなよ」と言ってから話し始めた。

「アタシはさ、実は結婚をしたことはないんだよ。でも、男とは何人もつきあって、父親がそれぞれ違う子どもが三人いるんだ。もう、みんな、ぞれぞれ家庭を持っているけどね」

「そ、そうなんですか?」

「子どもの父親は、一人は抗争で刺されて死んで、一人は刑務所から出てから音信不通になり、もう一人は他の女と逃げた。でも、それぞれの男とつきあっていた頃は、本気で好きになっていた」

「……」

「人生、何が起こるか分からないよ。幸せの絶頂にいたと思ったら、次の日には不幸のぞん底に突き落とされることだってあるんだ。将来もずっと二人で幸せに暮らせるとは限らない。永遠の愛を貫き通すことは、本人達が望んだって叶えられないことの方が多いんだ」

「……」

「イケメンだって、いつかは太ったり、禿げたりするんだよ。そいつが一流企業に就職したところで、今のご時世、定年まで会社が安泰とは限らない。自分と相手が将来どうなるのか、今、いろいろと考えたところで、分かるはずもないんだよ。自分のことを好きだと言ってくれる相手がいて、その人のことが嫌いじゃないのなら、飛び込んで行くしかないんじゃないのかい? 今、その人が好きなのかどうかだけを考えれば良いんじゃないのかい?」



 馬場亜を出てから、奏はレコーディングスタジオに入った。

 馬場に相談したことで、何となく心の平穏を取り戻しているのが分かった。

 キーボードパートの録音が一段落して、スタジオの休憩スペースにあるソファに座り、奏がひと息吐いていると、竹内たけうちがやって来て、奏の隣に座った。

「奏さん。今日は良い感じに演奏できていますね」

「えっ? き、昨日は、あまり良くなかったですか?」

「レコーディングスタッフには気づかれなかったようですけど、私は、これまで、ずっと、クレッシェンド・ガーリー・スタイルの演奏を聴いていますからね」

 いつもどおり冷静な話し方だが、奏には暖かさを感じさせた。

「……竹内さん」

「何でしょう?」

「以前、松下まつした専務さんとのことをお訊きしましたけど、私、今まさに、そういう状況に陥っているんです」

「お相手は、明日、PVの打ち合わせをする椎名さんですか?」

「はい……、って、どうして分かるんですか?」

「私と松下と同じ状況ということは、これまで奏さんの友人の彼氏又は彼氏候補だった人から告白をされているということですよね? その友人というのをバンドメンバーに置き換えると、おシオさんしか思い浮かばなかったものですから」

 詩織がひびきと椎名の両方から告白されていたのは、詩織のバースディパーティで、榊原さかきばらが直に聞いていることだ。そして、サーキュレーションの一件以来、詩織と響が相思相愛の関係になっていることは、詩織は大っぴらにはしてなかったが、メンバーや榊原、竹内には、もう、バレバレであった。

「でも、先ほどの演奏を聴く限りは、ご自身の中で結論めいたことは出ているんじゃないんですか?」

「……そうですね」


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