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Act.158:乗り換えの告白

 一月八日。

 いよいよレコーディングが始まった。

 毎日午後四時に開始され、その日の夜十二時過ぎまでスタジオにこもり、最終的なアレンジを決めつつ、録音をしていくのだ。

 ドラム、ベース、キーボード、ギター、コーラスと録音していき、ミックスした音源で、最後にボーカルを録音していく。

 できあがった音源をレコーディングスタッフがミキシングして、最良と考える音質とバランスに仕上げていく。

 そして、できあがったマスター音源をメンバーやスタッフ全員で聴き、気に入らない部分があれば、その部分だけの再編集をする。

 また、そうしていると、細かいアレンジの変更のアイデアもメンバーからどんどんと出された。そう言ったことを並行処理していき、着々とファーストアルバムは完成に近づいていた。



 時間は少しさかのぼり、レコーディング初日の夜。

 午前一時過ぎに自宅に戻った詩織しおりは、ひびきに電話をしていた。

 響に対する自分の気持ちが分かったあの日以来、響にも直接、電話ができるようになっていた。

 もちろん、ひとみとも今までどおり、つきあっていたが、瞳は、今、受験の真っ盛りであり、詩織の方から電話をすることは控えるようにしていた。

「詩織さん、レコーディング、お疲れ様でした。いかがでしたか?」

「面白かったです! 以前は、プロデューサーに言われるままに録音をしていましたけど、今度は、メンバー同士で話し合いながら、自分達が納得できるまで何度でも録り直しをするようになって、それはそれで大変ですけど、その作業がすごく楽しいです!」

「詩織さんらしい感想ですね」

「そ、そうですか?」

「ええ」

「響さんの方はいかがですか?」

「今日も快調でしたよ。十二、三ページは書けたと思います」

「そんなにですか?」

「ええ。僕の頭の中には既に第四巻の粗筋もほぼできています」

「私も早く続きを読みたいです!」

「詩織さんの期待に応えられるように頑張りますよ」

「あ、あの、無理な催促をしたわけではありませんので」

「ええ、適度にがんばりますね。それはそうと、今日、椎名しいなさんがうちに来ていました」

「椎名さんが?」

「はい。僕に敗北宣言を言いに来たそうです」

「敗北宣言?」

「椎名さんは、詩織さんを助けた時の僕を見て、ご自身で敵わないと判断したそうなんです。だから、その敗北宣言だそうです」

 以前は、週に三回のアルバイトで顔を合わせていた椎名だったが、昨年末にカサブランカのバイトを辞めてから、椎名とは会うことはなくなり、メンバーとともにインペリアルホテルに駆け付けてくれた時以来、会っていなかった。

 だから、椎名の気持ちには応えられなくなったことは、椎名には、まだ、詩織の口から直接、伝えていなかった。

「私、、椎名さんにも告白されていました。でも、椎名さんには、まだ響さんのことは何も言ってないんです。私からもちゃんと椎名さんに返事をしておくべきですよね?」

「いえ。椎名さんは、それはされたくないそうですよ。彼の言葉を借りると『振られた女に謝られることほど、かっこ悪いことはない』だそうですよ」

 椎名らしい強がりの気がしたが、椎名が響にそう言ったということは、詩織にもそのまま伝わることを想定しているはずだ。

「響さん。私、どうしたら良いでしょうか?」

「特に何もすることはないと思います。今は、椎名さんが会いたくないと言っているのに、無理に会う必要はないでしょう。たまたま、出会えれば、その時には、今までどおり話をすれば良いと思います」

「……はい。そうですね」

「あっ、どうやら、出版社の担当者が来たようです。もっと、詩織さんと話をしていたかったですけど、残念です」

「これから執筆ですか?」

 詩織が時計を見ると、午前一時を三十分ほど過ぎていた。

 大ヒット作品の続編を「書いて」くれるのだから、響が口述をしたいと言えば、担当者も喜んで来るだろう。

「ええ、もう頭からアイデアがこぼれそうなんです」

「ふふふ。でも、ご無理なさらないでくださいね」

「詩織さんも、明日からもレコーディング、頑張ってください」

「はい!」

 響は、詩織の声が心地良いと言ってくれていたが、詩織もいつも穏やかに話す響の声を聞くと、心が落ちつき、疲れが吹き飛んでしまった。



 詩織と同じくレコーディングを終えて、自宅に戻ったかなでの携帯に椎名から電話が掛かってきた。

「奏さん、もう寝てました?」

「そんな心配をする人が電話をしてくる時間じゃないと思うけど?」

 とっくに日付が変わって、午前二時になろうとしていた。

「どうしても奏さんと話をしたくて」

「何かあったの?」

「今日、桜小路響の自宅に行ってきました」

「敗北宣言を桜小路先生にもちゃんと言ったってことね?」

「そうです」

「先生は何て?」

「分かりましたと言っただけです。でも、もう、桜小路響と桐野の間には、確固たる信頼関係が築かれていると感じました」

「詩織ちゃんには?」

「桐野とは、あれ以来、会っていません」

「私も、詩織ちゃんの口から直に聞いた訳じゃないけど、たぶん、桜小路先生の強い想いに詩織ちゃんの気持ちも決まったような気がするな」

「そうですか」

 今日からレコーディングが始まって、半日、詩織ともずっと一緒にいたが、レコーディングに専念していて、プライベートなことを訊く雰囲気ではなかった。

 しかし、詩織の表情からは、響への想いは、もう、揺るぎないものになっているような気がした。

「椎名さんも気持ちを切り替えて、新しい恋を見つけないとね」

「ええ。だから、奏さんに電話をしたんです」

「えっ?」

「以前、撮影の後に言ったこと、憶えていますか?」

「え、ええ」

「奏さんと話していると、本当に心地良いんです。だから、奏さんとおつきあいさせてもらいたいなと」

「ちょっと待って!」

 奏は思わず大きな声を上げた。

「詩織ちゃんとのことは、ちゃんと桜小路先生と話をして、区切りを付けたことは良いけど、じゃあ、『今度は私と』って、簡単に乗り換えられても、私も『はい、そうですか』って言えないよ」

「乗り換えなんかじゃないですよ」

「確かに、少し前から、椎名さんは、私にも好意を持っているとは言ってくれていたけど、本命が駄目だったから、補欠でも良いかって感じが、どうしてもしちゃうんだ。私にも、小さいけど、一応、プライドというものがあるんだよ」

「……すみません、奏さん。自分では、そんなつもりではなかったんですけど」

「私こそ、ごめんね。椎名さんのことが嫌いだとか、そういう訳ではなくて、何と言うか、私達、こうやって話せるようになったのも最近でしょ? もうちょっと、時間が欲しいんだ」

「そうですね。……すみません。桐野のことを諦めることは、思っていた以上にダメージがあって、奏さんにその傷を癒やしてもらいたいって、自分勝手な欲望のままに電話をしてしまいました」

「そうやって頼ってくれるのは嬉しいよ」

「ありがとうございます。……やっぱり、奏さんは優しいですね」

「とりあえず、私も今はレコーディングに専念したいんだ。だから」

「分かりました。でも、明後日には、メンバー向けにPVのプレゼンがあるので、その後に話をする時間があれば、させてください。それまで、奏さんのことを、じっくりと考えてみます」

「ええ。今、椎名さんが自分で言ったとおり、詩織ちゃんのことを諦めたことで、人恋しくなっているだけかもしれないし、もっと、冷静に考えた方が良いと思う」

「そうですね。でも、これだけは答えてくれませんか?」

「何?」

「俺、奏さんの彼氏になれる可能性がありますか?」

「ええ。だって、私、ヒモ男専門だもん」

「あははは、やっぱり、奏さんだ」



 椎名との電話を切って、奏は椎名のことを考えてみた。

 奏好みのイケメンで、初めて椎名を見た時、胸がときめいた。

 しかし、その後、椎名は詩織に夢中になっていて、奏も、椎名を詩織の彼氏候補としてしか意識してなかった。

 今、椎名の方からつきあいたいと申出があり、奏が承諾すると椎名と恋人同士になれる。以前の奏だったら、この千載一遇のチャンスを逃すまいと、すぐに承知をしただろう。

 しかし、正月に実家に戻った時も、今まで「結婚はまだか?」、「良い人はいるの?」と口やかましく言っていた母親が、娘が芸能人になると分かった途端にその話はしなくなり、むしろ、自分が好きな演歌歌手と良い仲になるかもしれないから結婚してなくて良かったなどと妄言を吐くまでになっていた。

 奏自身はバンドを始めた頃から、既に結婚に焦ることはなくなっていたが、母親の変節で、自分をがんじがらめに縛り付けていた重しがなくなったことを実感した。

 だから、結婚のことは二の次にして、本当に自分が側にいてほしいと想う男性を見つければ良いという気持ちになっていた。

 では、その男性として、椎名はどうだろう?

 容姿は申し分なく、隣にはべらしておくと奏の自尊心も満足させられるだろう。

 少しひねくれたところがある性格は、ひょっとしたら、自分に似ているところがあるのかもしれない。

 玲音と同じ年齢の椎名は、奏の四歳下になるが、歳の差婚が話題になっている昨今、それくらいの年下男性であることは、まったく、問題ではない。

 椎名とつきあい始めることには何も問題はない。

 それをためらっているのは、奏自身が言った「小さなブライド」のせいなのだろうか?

 

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