Act.157:溢れ出た想い
詩織がサーキュレーションのメンバー達に襲われた日の翌日。
詩織は、瞳とともに、退院する響を迎えに病院に行った。
詩織を守るため、詩織にかぶさるように強く詩織を抱きしめた響は、サーキュレーションのメンバー達から背中や腰、足を蹴られまくった。その時に右足の骨にひびが入るほどの大怪我をしたため、骨を固定する器具を埋め込む手術を受けたのだ。
ノックをして病室に入ると、響は、病院が用意したであろうパジャマのような服を着て、病室のベッドに座り、モノラルのイヤホンでラジオを聴いていた。
「お兄ちゃん! 詩織も一緒だよ!」
響は、手元にあったラジオのスイッチを手探りで切り、瞳の声がした方に笑顔を見せた。
「詩織さんまで? すみません、レコーディング前の忙しい時に」
「レコーディングより響さんのお体のことが心配で……。それに、ちゃんとお礼も言ってなかったですし」
「お礼なんていらないです。詩織さんが来てくれただけで、僕は嬉しいです」
「響さん……」
詩織と響の様子を見ていた瞳は、「じゃあ、私、事務局に行って、退院の手続きをしてくるね。けっこう、時間が掛かるみたいだし、今日、意外と暖かいから、散歩でも行ってきたら?」と響に言った。
「足の痛み具合も確かめたら良いよ。病院の玄関の横に綺麗な花壇があったよ。この季節に咲き誇るって、何の花なのかなあ」と、一方的に話した瞳は、「じゃあ、お兄ちゃんをお願いね」と詩織に言い残して、病室から出て行った。
響と病室で二人きりになってしまったが、以前と違い、そのことで、詩織は緊張することはなかった。
「響さん、足は? 痛みはありませんか?」
「ええ、ひびが入っただけで、すぐに治るそうですよ。それより詩織さんは大丈夫ですか?」
「私は怪我もしてませんし、心にもそんなに傷は負っていません。むしろ、今、小説の執筆で忙しい響さんに怪我をさせてしまって……」
「詩織さんが怪我をさせた訳ではないですから気にしないでください。むしろ、僕は嬉しかったんです。また、夢が一つ叶いましたから」
「夢……ですか?」
「ええ。ヒロインを暴漢から守ることです。自分の小説の中のヒーローのように格好良くはなかったでしょうけど」
「そんなことありません! 響さんはとても格好良かったです!」
「そう言っていただけると、僕も嬉しいです」
「でも、もし、響さんの命にもしものことがあったらと思い返すと、怖くてたまりません」
「僕の命は、詩織さんがいてのものです」
「えっ?」
「僕は、あの時、もし、詩織さんがこの世界からいなくなってしまったらどうしようと思いました。だって、詩織さんの声を聴くことができない世界は、僕にはもう想像できないんです」
「……!」
「『君を抱いているのは誰?』の不振で僕が打ちひしがれている時に、詩織さんのお陰で、また、小説を書く意欲を取り戻すことができましたが、それ以来、詩織さんの存在、そして詩織さんの声、詩織さんの歌は、僕が生きていくための、小説を書いていくためのエネルギーなんです」
響は穏やかな笑顔を詩織の方に向けた。
「しかし、デビューを間近にした詩織さんの存在は、もう、僕だけのものではありません。詩織さんの歌声は、多くの人に感動と勇気を与えるでしょう。でも、そのエネルギーの少しだけで良いですから、今までどおり、僕に分けてください。お願いします」
「響さん……」
「すみません。詩織さんが前にいると、自分が、一方的でわがままな嫌な奴になっていく気がします。でも、どうしても自分の気持ちを詩織さんに伝えたいという気持ちがそうさせているということで、許してやってください」
少し頭を下げた響に、詩織は「あ、あの、お散歩に行ってみますか? 今日は本当にお天気が良くて、冬なのにポカポカですよ」と言った。
詩織の心に、響に対する、何か特別な感情がわき上がっていた。
それが何かを確かめるための時間が欲しかった。少しの時間で良かった。
詩織は、ガウンを着た響に自分の左腕を掴んでもらい、病室を出て、廊下をゆっくりと歩いた。
「響さん、足はどうですか?」
少し右足を引きずるようにして歩く響に訊いた。
「ええ。自分で自分の右足を庇ってしまっているだけでしょう。少し違和感はありますが、痛みはないです」
「じゃあ、病院の玄関まで行ってみましょうか?」
「そうですね。行ってみましょう」
エレベーターで一階に降りて、玄関に向かった。待合室には多くの外来患者がいて、金髪が目立つ響と、それをサポートするように歩いている詩織に注目をしていたが、詩織はその人達の視線が気になることはなかった。
玄関を出ると、外来用駐車場までの間が庭園のように整備されていて、瞳が言っていたように、冬なのに可憐な花が咲き誇っていた。
「本当に暖かいですね。このガウンを着て、ちょうどくらいです」
響も気持ち良さそうに背伸びをした。
「桜小路先生」
背後から呼び掛けた者がいた。
詩織と響が振り向くと、そこには、写真週刊誌フレッシュの記者、早川がいた。
「フレッシュの早川さんですか?」
「おやおや、桜小路先生に声を憶えていただけるとは光栄ですなあ」
大袈裟に喜んでみせる早川に、響は「僕に何かご用ですか?」と尋ねた。
「もちろんです。それにしても、災難でしたねえ」
「どこで聴き込んでくるのか分かりませんが、僕がどうして、ここにいるのか、もう、ご存じのようですね?」
「サーキュレーションの連中の不祥事が事務所から発表されたものですからね。インペリアルホテルに呼び出した、同じ事務所の女性を襲ったが未遂に終わり、その女性を救いに来た男性に怪我を負わせたということで、警察も捜査に入ったそうですよ」
対応が早いのは、今さら隠し通せるものではない事実を発表することが遅くなれば遅くなるほど、事務所としてのダメージが大きいと榊原が判断したからだろう。
「それだけの情報で僕達だと?」
「インペリアルホテルから一番近い病院であるここに来てみれば、先生がおシオさんと一緒にいらっしゃったということですよ」
「さすがですね」
「しかし、目が見えないにもかかわらず、おシオさんを助けに行くことは大変勇気がいることだと思いますが?」
「詩織さんは大切な友人ですから無我夢中でした」
「なるほど。友人ですか?」
「そうです」
「おシオさんはどうなんですか? 桜小路先生は大切な友人なんですか?」
早川が何を言わせたいのかは容易に分かった。
詩織は、響と一緒に病室から歩いて来ている間に、自分の気持ちを確かめていた。
バンドをやりたいという夢に向かって、がむしゃらに走って来ていて、その支障になりそうなことは考えることを止めていた。椎名のこともそうだし、響のこともそうだ。
だから、詩織の中で、椎名と響のどちらがどうだという比較すらしたこともなかったし、二人の想いを天秤に掛けるようなことも嫌だった。
椎名は、昔の自分のことがばれることを献身的に防いでくれた。また、冗談も言い合える仲にまでなっていた。椎名の詩織を想う気持ちに感動すら覚えていた。
しかし、虐め、両親の自殺、そして目の障害というさまざまな苦難を乗り越えてきた響は、やっとの思いで手に入れた名声と財産はもとより、命すらも顧みることなく、詩織の元に飛び込んで来てくれた。すべては、詩織を守りたいという一心からだ。
そんな響に詩織の心は震えた。
目が見えない響は、ある意味、詩織よりも弱い人間だ。そんな響が、相手の数も体格も武器を持っているのかどうかも、何もかも分からないままに、詩織を助けようと飛び込んできてくれたのだ。
詩織の中に、響に対する特別な感情が溢れてきた。
一つのものを見つめだすと、それしか見えなくなる。そんな詩織の性格もあって、今、詩織には響しか見えてなかった。そして、詩織の心は響への想いで満たされてしまった。
今、詩織がいたい場所は、間違いなく、響の隣だった!
詩織は早川の顔を真っ直ぐに見つめた。
「年上の先生を友人とするのは申し訳ないです。でも」
詩織は、自分の腕を掴んでいる響を見た。
「すごく大切な人です」
「大切な人……ですか?」
もどかしいような、ワクワクしているような早川の表情に、詩織もおかしくなってしまい、満面の笑みを見せた。
「早川さんの思っているとおりです! 響さんは私の大好きな人です!」
「詩織さん?」
響も詩織の言葉に戸惑っているようだった。
「それは、その言葉とおりに受け取らせていただいても結構ですか?」
「はい。それが今の私の正直な気持ちです!」
「記事にさせていただいてもよろしいですか?」
「結構です」
「桜小路先生はいかがですか?」
「以前は承諾もなく記事にされたのに、今回はどうしたんですか?」
「いやいや、私が訊きたいのは、おシオさんの発言に対する先生のお気持ちですよ」
「ああ、なるほど。それであれば、僕もはっきりと言えます。桐野詩織さんは、僕にとって、いや、妹の瞳にとっても大切な人です。そして、僕も詩織さんが大好きです」
「了解しました。タイトルは『やはり交際していた! 華麗なる転身を成功させた二人!』とでもしましょうか?」
詩織と響の合意を求めているというよりは、独り言のように言った早川は、「では」と二人に頭を下げてから、踵を返して、二、三歩歩んでから、立ち止まり振り返った。
「ああ、でも、おシオさんも今は恋愛禁止のアイドルではありませんし、結局、自分達の記事の後追いにすぎませんからねえ。むしろ、私が記事にするよりも、お二人が揃って記者会見でも開かれて発表した方がインパクトあると思いませんか?」
「そうですか?」
「ええ。それにおシオさんがデビューした後だと更に良いですね。だから、記事にするのは、少し時期を見ますよ。では、改めて、失礼」
早川が去って行く後ろ姿を見つめながら、詩織は、自分の腕を掴んでいる響が愛おしくてたまらなくなった。
ふと、辺りを見渡すと、意識していた訳ではなかったが、大きな木の陰になっていて、病院からも駐車場からも死角のようになっていた。
詩織は、自分の左腕から響の手をはずして、響の正面に向いた。
「どうしたんですか、詩織さん?」
「響さん」
詩織は、少し上にある響の瞳を見つめた。
「あ、あの、目を閉じていてくれませんか?」
「僕の場合、変わらないですよ?」
「響さんの瞳と目が合うと、そ、その、恥ずかしいので」
「はい?」
「い、良いから、目を閉じてください!」
「こうですか?」
「それで、少し下向きになってください」
響が、まぶたを閉じて、顎を引いた。
詩織は、響に近づき、その顔を近くで見つめた。
女性ファンを夢中にさせている、美しい顔がそこにあった。
しかし、詩織が愛おしくてたまらないのは、響の外見的な姿ではなかった。障害にも負けずに強く生きてきて、そして、詩織を救ってくれた、響のたくましく勇気ある気持ちだった。
詩織は、響の首に両手を回すと、背伸びをした。
唇と唇が合わさった。
唇はすぐに離れた。
「詩織さん?」
「やっと分かりました。私、響さんが大好きです。本当は響さんの隣にずっといたい。今はそんな気持ちです。でも、明後日からレコーディングが始まります。バンドを成功させるという夢も諦めたくありません。だから、離れていても、響さんとつながっていられるようにって、思いました」
「……はい! 間違いありません! お互いの体は離れていても、僕の心は、いつも詩織さんの隣にいます! だから、詩織さんは自分の夢に向かって、全力で走ってください!」
「響さん……」
詩織は、もう一度、背伸びをした。




