Act.012:感動は一瞬で満たされる
詩織は、キューティーリンク時代には押しも押されもせぬトップアイドルであり、普通の中学生では考えられないほどの収入があったが、そのお金はすべて母親が管理をしていた。そして、母親は、そのお金とともに、自分と父親の前から消えて行方不明になっていたし、自分の手元に残っていたわずかなお金はギターとエフェクターの購入資金になり消えてしまっていた。そういう意味からも、今の詩織は只の女子高生なのだ。
そして、父親にはこれ以上負担を掛けたくなかった。とすれば、自らがお金を稼ぐしかない。
――アルバイト!
詩織の頭の中にその言葉が浮かんだ。
詩織は、当然のことながら、これまでアルバイトをしたことがなかった。だから、経験のないことをするという漠然とした不安もあるが、何よりも女の子がするアルバイトといえば、レストランやファストフード店などの接客業ではないかと思われ、そうすると不特定多数の人と接することになり、昔の詩織のことに気づく人もいるかもしれないという不安もあった。
「元超人気アイドル、バイトをするまで落ちぶれていた!」などという心ない記事が書かれるかもしれない。そうすれば、また、マスコミから追い掛けられることとなり、詩織にとっても、学校にとっても、バンドにとっても良いはずがなかった。
しかし、いつまでも逃げてはいられない。座して夢が実現できるはずはないのだ。
アルバイトをしよう!
詩織はそう決めた。
しかし、詩織には、アルバイトについての知識が圧倒的に欠落していた。
かといって、学校の友達や教頭の土田に訊くわけにはいかない。むしろ、アルバイトも禁止されているのではないだろうか? バンド活動も前例がないという理由で禁止されているお嬢様学校では、アルバイトをする生徒などいるはずもなく、訊けば必ず「駄目」と言われるはずだ。
「玲音さん」
「うん?」
「私、アルバイトでも何でもして、自分の分のお金はちゃんと負担します!」
「何でもはしない方が良いよ」
「あっ……」
アイドルの枕営業の話が思い出されてしまって、詩織は一人照れてしまった。
「でも、私、今までアルバイトをしたことがなくて」
「へえ~、そうなんだ。まあ、お嬢様学校に通ってるくらいだもんね」
「あ、あの、学校はそうなんですけど、私はお嬢様なんかじゃありませんから、誤解しないでください」
「誤解はしてないよ。本当のお嬢様ならロックなんてしないでしょ?」
「それもそうですね」
玲音の切り返しに、詩織も苦笑いするしかなかった。
そして、詩織は、玲音がコンビニでバイトをしているということを思いだし、バイトについての助言をしてもらおうと考えた。
「玲音さん、私に向いているバイトって何かありますか?」
「何か希望はあるの?」
「できれば接客業は避けたいんですけど?」
「じゃあ、力仕事?」
「それは、もっと無理だと思います」
「そうだなあ。……飲食店の洗い物担当とかあるけど、手荒れが酷いって聞くからなあ。普通は、どうしても接客にはなっちゃうね。女性の場合、特に」
「ですよね。でも、接客業でも、あまり多くの人と接しなくても良いのってないでしょうか?」
「どうして?」
「あ、あの、初めての人と話をするのが少し苦手で」
まさか、昔の自分に気づかれたくないからとは言えず、咄嗟に言い訳したが、引退してからは、人づき合いをできるだけ避けていて、前よりも人見知りになっていることは確かだった。
「でも、あまり客が来ない接客業って、お先真っ暗だぜ。バイト代も満足に払ってくれないかもしれないよ」
「そ、それもそうですね。玲音さんがアルバイトされているコンビニは、もうアルバイトの募集はされていないのでしょうか?」
玲音と同じ所なら、困った時も玲音が助けてくれそうな期待が頭をよぎった。
「募集はしてたと思うけど、お勧めしないよ」
「えっ、どうしてですか?」
「アタシは、平日の昼間に働いているから、学校がある詩織ちゃんとは一緒にできないし、詩織ちゃんが働ける平日の夜とか土日の方が忙しいと思うから、めっちゃ疲れると思うよ。それに、言うほどバイト代も高くないし」
「そうなんですか?」
「うん、アタシも琉歌に頼りっぱなしじゃ申し訳ないからバイトしてるけど、バンドをやる支障にならないように、時給は低いけど、あえて平日の昼間にしてるんだ」
「そうだったんですね」
これは、いちから職種や勤務条件をネットか何かで調べて探すしかないと思っていると、琉歌が玲音の肩をぽんぽんと叩きながら言った。
「お姉ちゃん、カサブランカがバイト募集してなかったっけ~?」
「ああ、そうだ! 確か、そうだった!」
「カサブランカ?」
「江木田駅の北口すぐにあるレンタルDVD屋なんだけどさ」
「お二人のお知り合いのお店なんですか?」
「うん。そこは海外アーティストのライブDVDもけっこう充実していて、よく利用するんだよ」
「他には映画のDVDがいっぱいあるんだよね~。でも、けっこう、マニアックな品揃えの知る人ぞ知るって感じの店だから、他の店よりは客は少ないかも~」
「でも、それだと、玲音さんが言われたみたいに、明日には無くなっている可能性もあるのでは?」
バイトを始めたは良いが、次の日には店が無くなっていたら洒落にもならない。
「まあ、普通はそうだけど、そこのオーナーは、賃貸マンションの経営もしている人で、カサブランカは映画好きのオーナーの趣味でやってるような店なんだよ。だから、客が少なくてもモウマンタイだよ」
「そうなんですか」
「何なら今日の帰りに一緒に寄ってみるかい? それとも、もうちょっと考えてみる?」
詩織は一瞬迷ったが、玲音や琉歌が推薦してくれる店なら変な店ではないだろうと思った。
「玲音さんがよろしければ、ぜひ、行って、話をさせていただきたいです」
「分かった。オーナーがいないと仕切り直しになるけど、とりあえず、行ってみよう!」
「はい!」
今までの二年間、人の目から隠れるように生活してきた詩織であったが、玲音らと会って、どんどんと目の前に道が開かれていった。ここで物怖じしていると、二度と巡って来ないような機会を逃してしまう気がしてならなかった。
いつまでも怯えて生きるのは嫌だ。
詩織自身は、いつも前向きで積極的に考えることができる女の子だ。偽りの鎧を脱ぎ捨ててから、ありのままの自分でいることが許されるだけの時間は経っているはずだと、詩織は自分に言い聞かせた。
打合せが終わると、三人はコーヒーショップを出て、山田楽器店に向かった。
今日、三人の自宅の最寄り駅である江木田駅ではなく、池袋で落ち合ったのは、玲音と琉歌がいつも利用している山田楽器店で買いたい物があったからだった。
山田楽器店は、ビル一つがまるまる楽器店という池袋で最大規模の楽器店だった。それだけに品揃えも豊富で、詩織もよく利用していた。
一階は各種イベント用のフロアで、ギターやベースなどの売り場は二階、ドラムやその関連商品の売り場は地下一階にあった。
「じゃあ、アタシ達、ひとっ走り行って買ってくるから、詩織ちゃん、どこかで待っててくれる?」
「分かりました。じゃあ、あそこで待ってます」
詩織が指差したのは入口近くにあるイベントコーナーで、普段は、新商品の発表試奏会や新人ミュージシャンのキャンペーンライブなどが行われているが、今日は、キーボードメーカーのキャンペーンをやっているようであった。
玲音と琉歌がそれぞれの売り場に去って行くと、詩織はイベントコーナーに近づいた。
真新しいキーボードが五台、真ん中の丸く小さなステージを取り囲むように置かれていた。商品に貼られているポップを見ると、どうやら新製品のようで、立てられている看板によると、明日と明後日、新商品発表キャンペーンをするようだ。
ステージの上にも一台のキーボードが置かれていて、その周りに、スカートスーツを着こなした女性が一人と、山田楽器店の制服である店名入りの赤いジャンパーを着ている男性が二人立っていて、何か打合せをしていた。
女性がキーボードの前に座った。明るい茶色に染めたウェービーボブの髪型をした小柄で可愛い女性だった。
女性は、楽譜らしい紙をキーボードの前に立てた楽譜立てにセットすると、おもむろにキーボードを弾き出した。曲は、高校の音楽の授業でも課題曲にもなっている有名なクラシック曲で、詩織も何度か聴いたことがある曲だったが、詩織は、今、目の前から直に飛び込んでくる音になぜか感動してしまった。それは、まるで生ピアノにしか聞こえない音色ももちろんであるが、その音色による魅力を最大限に引き出している女性のテクニックや感性によるところも大きいのではないかと思った。
もっとも、これまで、ずっとギターばかりを弾いてきて、バンドの経験自体もない詩織は、ギター以外の楽器の善し悪しとか、そのプレイヤーの力量というものについては、よく分からなかった。だから、目の前の女性がどれだけ上手いのかは正直に言って分からなかったが、そのキーボードの音が詩織の心を震わせたことは確かであった。
詩織が、これまでずっと妄想してきた自分の脳内バンドには、必ずキーボードメンバーがいた。ストレートなロックだけやるのであれば、ギター、ベース、ドラムの三ピースだけでも十分だったが、自分の言葉でメッセージを伝えたいと思っていた詩織の欲求に、キーボードで彩られた音が加わるだけで、その伝える強さは何倍にもなると思っていた。
それに、詩織が伝えたいメッセージは怒りや激しい想いだけではない。楽しさ、愛おしさ、寂しさ、いろんな感情をメッセージとして伝えたかった。ギターでは出せない微妙な感情の起伏をキーボードでなら表すことができると思っていた。
女性は、途中で演奏を止めると、別の曲を演奏しだした。
詩織が大好きなホットチェリーのバラード曲だった。インストルメンタル用にアレンジされているが、音の一つ一つが詩織の心に棘を刺していくように留まっていった。
明日からのキャンペーンで演奏される曲の試し弾きにすぎないのだろうが、詩織の感動を満たすには十分であった。こぼれることはなかったが、自分の目に涙が溜まっていくことが分かった。
女性は、キーボードのタッチを確かめるように、その後もキーボードの音源を変えて、別の曲を三曲ほど途中まで演奏をした。どれも、詩織が好きな「音」だった。
演奏が終わると、赤いジャンパーを着た男性二人が女性の側に近づき、お辞儀をした。そして、立ち上がった女性とともに笑いながらステージを降りて、詩織の前を通り過ぎようとした。
詩織は、溢れていた感動が自然と拍手になって出て来た。
まさか、こんなことで拍手されるとは思っていなかったはずの女性もポカンとした顔を見せて立ち止まった。
「すごく感動しました! もっと聴いていたかったです!」
「ど、どうも、ありがとうございます」
女性は、一瞬、戸惑ったような顔をしたが、すぐに笑顔になった。




