Act.153:芽生えた意識
一月五日。
山田楽器店の営業は三日から始まっていたが、奏のピアノレッスンはこの日から始まった。
もっとも、八日から始まるレコーディングに併せて、午後三時以降にはピアノレッスンを入れずに早退させてもらうことにしていた。
そして、一月末をもって退職をすることも店長に伝えていて、既に決まっている後任のピアノ講師に少しずつレッスンを引き継いでいくようにしていた。
奏がそんな勤務状態になる前に、もう一度、ピアノを弾くシーンを撮りたいという椎名のたっての希望で、今日の午後六時からのレッスン時間を二コマ使って、再度、撮影をするようにしていた。
奏がレッスン室で待っていると、以前と同じホワイトスクリーンのメンバーがレッスン室にやって来た。
「奏さん、何度もすみません」
椎名が頭を下げた。
「いえいえ。でも、前回とどこを変えるの?」
「ちょっとしたことなんですけど、指輪をしてもらいたいんです」
「指輪?」
奏は左手の中指にいつもシンプルな指輪をはめていて、前回もそのまま撮影していた。
自分の指輪を見つめた奏に、「もっと派手な指輪をはめてもらいたいんです」と言った椎名は、バッグの中から大きなリングケースを三つ取り出した。
蓋を開けると、中には馬鹿でかい宝石が付いた指輪が入っていた。
「これはイミテーションなんですけど、こういった派手な指輪をしている女性がピアノを弾いているシーンにしたいんです。場末のバーのホステスが店の開店前に遊びでピアノを弾いているというイメージですね」
「そのイメージはよく分からないけど、とりあえず、その指輪をして、同じようにピアノを弾けば良い訳ね?」
「そういうことです」
「昨日、電話で指輪のサイズを訊かれて、もしかして、今回のギャラを指輪でくれるのかと期待しちゃったわよ」
「俺達にそんな金がある訳ないじゃないですか」
「ふふふ、それもそうか」
「じゃあ、指輪をはめてもらえますか。赤いやつは左手の中指、ダイヤぽいのは左手薬指、真珠ぽいのは右手の薬指にお願いします」
奏は、自分の指輪をはずすと、三つの少し大袈裟な大きさの指輪をそれぞれの指にはめた。
「ピアノを弾く邪魔になりませんか?」
「ちょっと、指に違和感があるけど、邪魔にまではならないと思う」
「弾いてみてください」
奏は、「星に願いを」ジャズアレンジバージョンを弾き始めた。
「どうですか?」
「大丈夫よ」
奏は、弾くのを止め、自分の指をマジマジと見つめた。
「でも、さすがにこれはすごいわね」
「奏さんには似合いませんね」
「そう?」
「奏さんは、ケバケバしいファッションより、やっぱり可愛げのあるファッションの方がお似合いですよ」
「でも、玲音に言わすと、そろそろ無理があるんじゃないかって」
「そんなことないですって。玲音だって冗談で言ってるんですよ」
「そ、そうかな。とりあえず、ありがとう」
いつまでも夢見る乙女ではいられないと分かっているが、奏自身は、今でも清楚でメルヘンチックなファッションが好きだった。
そんなファッションの方が似合っていると言われて、素直に嬉しかった。
「じゃあ、そろそろ始めましょうか?」
奏としては、以前に撮影した時と違うのは、指輪を付けただけで、また、単にピアノを演奏するだけであったので、前回同様、特に緊張することなく、淡々と撮影に臨むことができた。
椎名は、自分が望んでいた映像が撮れたようで、満足げな顔をしていた。
三テイク撮影したところで、椎名が「休憩しましょう」と奏に言った。
奏は、ピアノ椅子からレッスン時にはいつも座っているパイプ椅子に座り直した。
「藤井先生、お茶、どうぞ!」
レフ板を持っていた吉田が、持参してきた小さなクーラーボックスからペットボトルのお茶を取り出し、奏に差し出した。
「ありがとう」
奏が笑顔で吉田に礼を言うと、吉田も嬉しそうに微笑んだ。
「吉田は奏さんのファンになったらしいですよ」
その様子を見ていた椎名が冷やかすように言った。
奏が驚いて吉田を見ると、吉田は顔を赤くしながら照れていた。
「あ、あの、クレッシェンド・ガーリー・スタイル、絶対、応援します!」
「あ、ありがとう。何か照れちゃうな」
「奏さんは年下の男性から慕われる属性を持っているんじゃないですか?」
「それは今まで言われたことないけど……。でも、そういえば、ヒモ男どもは、みんな、年下だったわね」
「まあ、ヒモ男というか、結婚詐欺みたいなことをする男は、結婚に焦っている女性をターゲットにするのですから、基本的に女性が年上の場合が多いんでしょうね」
「そうもそうか」
「でも、俺、いつも思っているんですけど、結婚って、そんなに重要なことなんでしょうか?」
「バンドを始める前の私にとっては、最重要課題だったわね。両親からの刷り込みで、結婚をして一人前みたいな考えを持っていたからなあ」
「その考え方は、よく分からないですね」
「椎名さんも結婚願望はなさそうね」
「そうですね。もちろん、好きな人に側にいてほしいという気持ちはありますけど、それは結婚をしているか、していないかとは関係ないですよね?」
「それはそうだと思う。でも、結婚をしているということは、大きな安心を得られるんじゃないかな」
「結婚をしていないと不安なんですか? 結婚をしないと、二人の仲が壊れるかもしれないというのなら、それは二人の結びつきが弱いだけなんじゃないでしょうか?」
「結びつきの強弱というより、私は価値観の違いだと思うな。結婚は、恋愛中の時だけじゃなくて、その後の生活という点でも協力しあって助け合うということも含めての誓いでしょ? それも相手のことを思いやる一つの愛の形だと思うな」
「なるほど。結婚にそういう価値観を見いだすことも有りで、そういうカップルにとっては、結婚は大きな意味があるということですね?」
「うん。人それぞれだと思うよ」
椎名も納得したようにうなずいた。
「それにしても、結婚に焦っていた人の言葉とは思えませんね」
「自分でもそう思う」
冷静に結婚の話ができている自分に、奏も苦笑するしかなかった。
その後も何テイクが撮影をしたが、どれも良い感じに撮れたようで、椎名は満足げに「OKです!」と宣言した。
「お疲れ様でした!」
椎名とスタッフが声を揃えて、頭を下げながら、奏に言った。
「皆さんもお疲れ様でした」
奏も笑顔でスタッフをいたわった。
「じゃあ、みんな、お疲れ」
予約していたレッスン二枠分の一時間が過ぎるまで、まだ十五分ほどあったが、椎名以外のスタッフは後始末をすると、さっさとレッスン室から出て行った。
「あいつら、この後、バイトがあるんですよ。今日の撮影もバイト前の空き時間を、急遽、充てたんです」
「椎名さんは大丈夫なの?」
「ええ。一応、店長なので、自分で自由にシフトが組めるようになりましたからね」
「職権乱用じゃないの?」
「そんなところはありますけど」
穏やかに笑った後、椎名がリングケースをバッグの中から取りだした。
「じゃあ、奏さん。指輪を返していただけますか?」
「ああ、そうだったわね。付けた時には、何これと思ったけど、演奏してて、すっかりと付けてるのを忘れていたわ」
奏は、順番に指輪をはずしていったが、最後、右手の薬指にはめている大きな真珠のイミテーションが付けられている指輪がはずれなかった。
「あれっ、はずれない」
奏が押したり引いたりしても、指輪は抜けなかった。
「奏さん、良いですか?」
奏は、椎名が差し出した左の手のひらの上に自分の右手を乗せた。
二人の身長差そのままに、奏の手は椎名の手に包まれているかのようであった。
椎名は、奏の右手を軽く握り、右手で奏の薬指にはめている指輪を回しながら、ゆっくりと前後に揺らした。
「痛くないですか?」
「大丈夫。指がむくんじゃったのかな?」
「ずっと、ピアノを弾いてましたものね」
「うん」
「じゃあ、今度は指輪が抜けるようになるまじないでも掛けましょうか?」
以前のように、突然、キスされるのかと思った奏は身構えてしまったが、椎名は、奏の右手を両手で包み込んで、こするようにし始めた。
「むくみなら血行を良くすれば治るかと思ったんですよ」
「ああ、そういうことね」
「それとも前回と同じまじないが良かったですか?」
「そういう冗談は止めて」
「冗談じゃないですよ」
「えっ?」
椎名は、奏の手をこすりながら話を続けた。
「最初のPV撮りの時の、あのまじないは、奏さんの気を紛らすためにしたことなんですが、今、考えると、PVの撮影を早く終わらせたいとか、PV撮影が時間内に終わらないことを心配していたのではなくて、普段の表情ができなくて、焦って、さらに緊張するという悪循環に陥っていた奏さんの困った顔を見て、助けてあげたいという気持ちが、俺の中に出て来ていたことは確かなんです」
「……」
「つまり、けっして、事務的にまじないを掛けたのではなく、俺の感情がそうしたかったからなんです。あっ、抜けそうです」
椎名がゆっくりと指輪を回しながら、指輪を取った。
奏は右手薬指に付いた指輪の跡をさすりながら、椎名の顔を見た。
「……どうして、今、その話を?」
「この撮影を通じて、奏さんと個人的に話をする機会も増えたので、奏さんに対する俺の認識も変わってきているんです」
「私に対する椎名さんの認識って?」
「今の俺は、間違いなく、桐野が好きです。しかし、こうやって、奏さんと話をしているときに心地良さを感じていることも事実です」
「詩織ちゃんに一途じゃなかったの?」
「そのつもりです。でも、この前、奏さんには叱られましたけど、自分の心の中では、桜小路響には、結局、敵わないという諦めの感情がなくならないんです」
「……」
奏が押し黙っていると、レッスン室の小さなテーブルの上に置いていた、奏のトートバッグの中で携帯が震えている音が聞こえた。
「奏さんの携帯じゃないんですか?」
「うん。レッスン中はバイブの音も聞こえないように、バッグごとロッカーに入れておくんだけど、生徒が椎名さんだから油断してたわ」
「どうぞ。至急の用件かもしれませんよ」
「うん、ごめんなさい」
奏は、椅子から立ち上がり、トートバッグの中をまさぐり、スマホを取り出した。
「瞳さん?」
奏は、意外な発信先を思わず呟いた。




