Act.152:のどかさに潜む波乱
正月二日にペンタを看取って落ち込んでいた詩織も、翌三日に瞳に会い、元気を取り戻していた。
三学期が始まるのは一月七日からで、翌日からはデビューアルバムのレコーディングが始まることになっている。その日からは、午前中は学校に行き、午後は夜遅くまでスタジオに缶詰となる毎日となり、この冬休みの間はまさに、束の間の休息ということになる。
しかし、詩織は、一月四日の今日も朝寝坊をすることなく、学校に行っている時と同じ時間帯に起きると、無意識にギターを手に取っていた。
ヘッドフォンを付けて、夢中でギターを弾いていたが、ふと、テーブルの上に置いていたスマホの着信ランプが点滅しているのに気づいた。
椎名からで、「今、オーナーが来ている」という伝言が入っていた。
昨年の四月からずっと続けていたレンタルDVD屋カサブランカのアルバイトも、昨年末をもって辞めていたが、その最後の勤務日に、詩織はオーナーに挨拶をしたかったのだが、オーナーがカサブランカに来なかったことから、挨拶できずじまいだった。
だから、オーナーがカサブランカに来れば連絡してほしいと椎名に頼んでいたのだ。
パーカーにスタジアムジャンパーという、いつものボーイッシュな服に着替えてから、詩織は自宅からカサブランカに歩いて向かった。
正月三が日も終わり、スーパーなども普通に営業していて、普段の日と何も変わらない街の風景になっていたが、ときおり、破魔矢などを提げた家族連れとすれ違ったりして、わずかではあるが正月気分になった詩織であった。
カサブランカに入ると、正式に「店長」になっている椎名がカウンターに怠そうに立っていて、若い男性アルバイト一人がDVDの整理をしていた。
椎名は、立てた親指で背中越しにスタッフルームを指差した。
詩織は、椎名に微笑みを返して、スタッフルームに入ると、入り口に背中を向けて、事務机に座り、電卓を叩いていたオーナーに向かって、「あの~」と控え目に声を掛けた。
すぐに振り向いたオーナーは、詩織の顔を見て、微笑んだ。
「ああ、桐野さん。あけましておめでとう」
「おめでとうございます! それで、昨年は本当にお世話になりました!」
「いやいや、こちらこそ、ありがとう」
「お仕事の邪魔をしてすみません」
「伝票のチェックをしていただけだよ。今日は、挨拶をしに、わざわざ来てくれたのかい?」
「家も近いですし、それに、初めてのアルバイトで、最初はいろいろとご迷惑を掛けたと思いますので、どうしてもお礼を言いたくて」
「そのお礼なら椎名君に言った方が良いと思うよ」
「もちろん、椎名さんにも言いました。でも、採用していただいたのは、オーナーですから」
「桐野さんは可愛い人だから、集客アップにつながれば良いなという戦略的判断だよ」
面白そうに笑うオーナーが、真剣にそう考えていたとは思えなかった。
「でも、椎名君から話を聞いて、納得だよ。僕もアイドルには詳しくなかったんで、孫に訊いたら、桐野さん、すごいアイドルだったんだね。孫も、桐野さんが務めている間に、ここに来たかったって悔やんでいたよ」
「そ、そうなんですか」
「ははは。もっとも、孫は女の子で、ジャニーズ系のアイドルに夢中になっているんだけどね」
初めてのアルバイトを曲がりなりにでもちゃんとすることができたのは、もちろん、一緒にバイトをした相棒が椎名だったということもあるが、オーナーの飾らない人柄がそのまま店の雰囲気に現れていて、働きやすかったということも大きな理由だと思う詩織であった。
「桐野さんのバンド、孫と一緒に応援するよ」
「ありがとうございます!」
父親が買ってきてくれた福岡の銘菓をオーナーに手渡すと、詩織はスタッフルームを出て、椎名とカウンター越しに向かい合った。
「椎名さん、連絡、ありがとうございました」
「忘れてなかっただけでも偉いだろ?」
「ふふふ、そうですね。それはそうと、椎名さんとは、また、PV録りでご一緒できますね」
「ああ。俺も楽しみにしている」
「私もです!」
「一足先にレコーディングが始まるんだっけ?」
「八日からです」
「そうか。頑張れよ」
「はい! 頑張ります!」
「俺も頑張るから」
「はい?」
「何だ? 俺が頑張るって言ったことが、そんなに珍しいか?」
「自分で突っ込んでいるじゃないですか」
椎名とはほぼ一週間ぶりに会った詩織であったが、バイトで週に三日は会っていた頃と同じように、冗談が言いあえていた。
「実は、以前、奏さんにピアノを弾いてもらった、ホワイトスクリーンとしての処女作品の編集が、今、大詰めなんだが、俺も今までにないくらい、手応えを感じている」
心なしか、椎名の表情も普段より明るい気がした。
「手応えを感じれば感じるほど、もっともっと良くしたいという欲望が止めどなく溢れてきてな。実は、奏さんの演奏シーンも変えたいところが出てきて、明日の夜、再撮影をすることにしているんだ。レコーディングが始まってしまうと、奏さんも時間が取れないだろうし、急遽、予定を入れさせてもらったんだ」
「椎名さんの納得できる作品に仕上がると良いですね。私も応援してます!」
カサブランカを出た詩織は、そのまま、玲音と琉歌の家まで歩いて行った。
あらかじめ連絡をしていた詩織が、琉歌の部屋に入ると、玲音もいた。
「あけましておめでとうございます!」
「おめでとう!」
「おめでとう~!」
ラインなどではもう済ませていたが、直に会っての新年の挨拶を交わすと、琉歌は、パソコンの前に詩織を案内した。
「今、純ちゃんと遊んでいたんだ~」
詩織が画面を見ると、琉歌のアバター「ルカ」と魔法使いのような風貌のアバターが並んで立っていた。
琉歌がパソコンを操作すると、ゲーム画面が最小化され、楢崎の顔がアップで画面に映し出された。
しかし、楢崎は、隣のパソコンを見ているのか、まっすぐにこちらを見ずに、 缶コーヒーを美味しそうに飲んでいた。
「純ちゃん~、おシオちゃんが来たよ~」
琉歌が画面の楢崎に話し掛けると、楢崎は、焦ったように正面を向いた。
「こ、こんにちは! というより、あけましておめでとうございます!」
汗をかきながら、楢崎が頭を下げた。
「ここにあるカメラでお互いを映しているんだよ~」
琉歌がディスプレイの上部に付けている小さなカメラを指差した。
「じゃあ、楢崎さんにも私達が見えているんですね?」
「そ~いうこと~」
詩織は、画面の楢崎にお辞儀をした。
「あけましておめでとうございます!」
「そ、その節はどうも」
「純ちゃんはね、おシオちゃんが桜井瑞希だと気づかなかったんだって~。ボクが教えるとびっくりしちゃってさ~」
「本当にびっくりしました!」
「でも、楢崎さんとお会いした時は、それどころではなかったですもんね」
「そ、そうですね」
詩織が楢崎と初めて会った時は、琉歌がトラウマを発動させて、病院に運び込まれていた時だった。
今日、せっかくカサブランカまで行くのだから、近くにある玲音と琉歌の家にも寄ろうと、詩織が玲音に連絡を入れたところ、玲音は自分の部屋ではなく、琉歌の部屋で待っていると言った。
それは、イブ・ライブを無事に済ませた後も、琉歌が落ちついていることを、詩織に分かってもらいたかったからだろう。
「でもね~、純ちゃんは二次元萌えだから、キューティーリンクもそんなに詳しくはなかったみたいだけどね~」
「確かに、今でも二次元萌えですけど、琉歌さんは特別です! あっ、いえ。すみません! 勝手なことを言って」
嬉しそうに微笑む琉歌の表情からは、トラウマの残骸はまったく見えなかった。
同じ日の夜。
都内のとあるホテルの一室。
サーキュレーションのリーダーでボーカルの飯山は、ベッドに横たわり、煙草をふかしていた。
煙草を持つ手とは反対の腕の中には若い女性が腕枕をされて、甘えるように、頬を飯山の胸にすりつけていた。
「何だか、夢みたい」
「夢じゃないさ。田中っちは可愛いもんな。事務に置いてるなんてもったいないぜ。本当は、こっち側にいるべきなんじゃねえの?」
「そ、そんなことないよ」
「うちにもアイドル部門があれば、きっと、スカウトされたに決まってるよ」
「お世辞でも嬉しい」
飯山は、サイドテーブルに置かれていた灰皿で煙草をもみ消すと、田中の方に向き直り、その顔を正面から見た。
「なあ、田中っち」
「何、飯山君?」
「このことは、二人だけの秘密な」
「うん。そうだよね。社員は所属アーティストとこんな関係になっちゃいけないんだから、ばれちゃったら、飯山君、困るだろうし、私だってクビになっちゃう」
「田中っちが心配することじゃないよ。誘ったのは俺だし。それにそもそもさ、社長自ら所属アーティストに手を出しているんだぜ」
「それもそうだね」
飯山は、田中の顎に優しく手を添えて、自分の顔に向けた。
「なあ、田中っち」
「何?」
「田中っちにお願いしたいことがあるんだ」
「どんなこと?」
「簡単なことだよ」




