Act.151:御飯を三人前
「かっこ。ギル。アスタリクス。どうして。コンマ。あなたは。クエスチョンマーク。かっこ閉じる。改行。かっこ。すべては君をアンタロスの呪いから救い出すためだ。かっこ閉じる。改行。かっこ。ア。コンマ。アンタロス。クエスチョンマーク。スペース。私がアンタロスの呪いに。クエスチョンマーク。スペース。どういうことなの。クエスチョンマーク。かっこ閉じる」
響はそこまで一気に話すと、右手を上げた。録音を止める際の合図だ。
響と、リビングの応接テーブルを挟んだソファに座っている光が、テーブルの上のIC録音機の録音停止ボタンを押した。
「梅田君、さっきのテイクを再生してくれますか?」
「分かりました」
光が再生ボタンを押すと、響の声が再生された。聴き終えた響は、「おっけいです」と満足げにうなずいた。
「では、少し休憩しましょう」
「じゃあ、俺、お茶、入れてきます」
「何から何までありがとう」
瞳が学校に行っている間は、家政婦が来てくれて、掃除や食事の用意といった、響の身の回りの世話をしてくれるが、正月三日という今日、瞳は家にいるはずだったのだが、急遽、詩織の家に行ってくると出掛けたため、今日は執筆できないと諦めていたところに、光がやって来たのだ。
光が言うには、瞳から自分の代わりに響の執筆の手伝いをするように「命令」されたらしい。
もっとも、詩織のバースディパーティ以降、もともと、響のファンだった光は、響に会いに、この家にもよく来るようになったが、そんなに来るのなら、響の仕事を手伝えと、これも瞳から「命令」されて、響の執筆の手伝いをするようになっていた。
もちろん、瞳に「命令」されたからではなく、自分が望んでのことだ。
リビングとつながっているキッチンに行った光は、瞳から教わったとおりに紅茶を入れたティーカップを持ってくると、響の左手の前、二十センチの場所に置いた。
響がゆっくりと左手でティーカップを持つと、まずはその香りを嗅いだ。
そして、一口、飲むと、笑顔を光に返した。
「うん、今日も瞳が入れてくれるお茶と同じ味です」
「桜小路から、この味を再現しろって、叩き込まれたので」
「梅田君」
「はい」
「さっき、言った『桜小路』というのは、僕のことですか?」
響が悪戯っ子ぽく微笑みながら光に訊いた。
「そ、そんな! 先生を呼び捨てになんてできないっすよ」
「ははは、ごめんごめん。瞳のことだよね?」
「はい」
「でも、瞳も僕も同じ『桜小路』なので、少なくとも瞳のことは区別して、名前ででも呼んでくれた方が誤解しないですみますよ」
「な、名前ですか?」
「うん。何なら、『瞳』と呼び捨ててもらっても良いと思うけど」
「そ、そうしたら、俺、命の危機を感じるんですけど」
「はははは、そうですか? じゃあ、『瞳さん』にしますか?」
「あ、あの、桜小路と、じゃなくて、瞳さんと相談して決めます」
「分かった。それで梅田君」
響が座ったまま、姿勢を正した。
「瞳と、これからも仲良くしてやってください」
「い、いや、あいつとは仲良しなのかなあ~」
「瞳は、僕にも梅田君のことをよく話してくれるんですよ。本当に馬鹿だとか、子どもだとか」
「あんにゃろ~! あっ、すみません」
「はははは。でもね、本当に楽しそうに話すんですよ。瞳が男性のことをあんなに楽しそうに話すのは初めてだったから、僕も嬉しくてね」
「そ、そうなんすか」
「ただいま!」
響が執筆を再開すると、間もなく、瞳が帰って来た。
「おかえり。詩織さんはどうだった?」
「うん、思っていたより元気だったよ。お兄ちゃんにもお礼を言っておいてって」
「僕は何もしてないけどね」
「心遣いだけでも嬉しかったって」
「そう。少しでも詩織さんの力になれて良かったよ」
「うん」
瞳はそう言うと、光に少し照れたような顔を見せた。
「梅、ありがとうね」
「いや。将来、書店に並ぶ先生の本の執筆の手伝いをしたって思うと、俺も嬉しくてさ」
「う、うん。じゃあ、あとは私がやるよ」
「この後の展開がどうなるか、俺も気になって仕方ないから、俺にやらせてくれ」
光の子どもっぽい理由に、瞳も少し吹き出した。
「瞳」
「何、お兄ちゃん?」
「今、何時だい?」
「えっと、そろそろ、五時かな?」
「梅田君は、時間は良いのかい?」
「桜小路が桐野に会って来るって言ってたから、遅くなるかもしれないって、家には言ってます」
「梅田君」
「はい?」
「詩織さんに会ったのは、僕じゃなくて、瞳ですよ」
「あっ、えっと……、言い分けないと駄目ですか?」
「そうだね」
「何のこと、言ってるの?」
汗をかいている光が見えている訳ではないが、何だか面白がっているように見える響に瞳が訊いた。
「いや、僕も瞳も『桜小路』だから、梅田君がどっちのことを言っているのか分かるように、名前で呼び分けてくれるようにお願いしたんだよ」
「お兄ちゃんのことは、『先生』って呼んでいるじゃない? 『桜小路』って呼び捨てにする時は、私のことだよ。そうだよね、梅?」
「そ、そうだけど」
「でも、自分も呼び捨てにされているみたいで気分が良くないなあ」
もちろん、響がそう思っているはずもないことは、響の笑いをかみ殺した顔を見れば分かった。
「『瞳さん』、『瞳ちゃん』、『瞳』のどれが良い?」
「もう! お兄ちゃん! 冷やかさないでよ!」
「冷やかしてなんかいないよ。もし、二人が僕の小説の登場人物なら、もう、お互いに名前で呼び合っている頃だよ」
「……」
「はははは、ごめんごめん。僕が強制すべきことでもなかったね。自然な流れに任そうか?」
響は、光の方を向いた。
「じゃあ、梅田君。今日、もうちょっとお世話になっても良いかな? 今、どんどんとアイデアが湧いてきてるんだ」
「もちろんっす! 俺も楽しみです!」
「じゃあ、お願いします。瞳は晩御飯を作ってもらっても良いかな? 三人前だよ」
「う、うん」
結局、七時頃まで、光は響の執筆の手伝いをした。
「長時間、すまなかったね。アルバイト代を出すようにしますよ」
「ほんと、いらないっす! 俺も好きでやってるんで」
「じゃあ、そろそろ晩御飯にしましょうか? もう、できる頃ですよ」
「分かるんですか?」
「目が見えない分、他の感覚が研ぎ澄まされるようになってね。鼻も利くようになったんですよ。ちなみに、今日のメインは肉じゃがで、そうだな、あと、五分くらいで、瞳が『できた』と言うはずですね」
リビングと部屋続きの対面式キッチンで作業をしていた瞳が、響の予想どおり、五分後には、顔を上げて、リビングのソファに座っている響と光に「できたよ!」と言った。
「じゃあ、食べようか。梅田君も」
「あっ、はい」
「手前味噌だけど、瞳の料理は、けっこう美味しいんだよ」
「桐野のバースディパーティで食べました」
「そうだったね」
これも響の予想どおり、肉じゃがをメインとする家庭的な晩御飯のメニューだった。
「じゃあ、梅。お兄ちゃんと一緒に食卓に座ってて」
「俺も手伝うよ」
光は、そう言うと、瞳が皿に盛った料理を食卓に並べていった。
「あ、ありがとう」
「い、いや、俺も腹減ってて、早く食べたいからさ」
「そうだろうと思った」
先に食卓に座って、二人の会話を微笑ましく聞いていた響も「僕も腹ぺこだよ。早く食べよう」と二人を急かした。
瞳と光が席に着いたことが、椅子を引く音で分かった響が「いただきます」と言って、決められた場所に置かれた箸とお茶碗をスムーズに手に取った。瞳と光もそれを見て、二人揃って「いただきます」と言い、食べ始めた。
「今日の肉じゃがは、よくできているね。いつもより美味しい気がするよ」
「そ、そうかな」
「うん。どうだい、梅田君?」
響が訊くまでもなく、既に光は御飯と肉じゃがを口一杯に頬張っていた。
「う、美味いっす!」
「ああ、もう! 御飯がポロポロ落ちてる! 御飯も肉じゃがも、まだ、あるし、誰もあんたの分を取ったりしないから、もっと、ゆっくり食べなさいよ!」
と言いながらも、嬉しさを隠しきれていない瞳の様子が、まるで見えるように分かった響は、穏やかな笑顔で、瞳と光の言い争いを聞いていた。




