Act.150:旅だったペンタ
年が明けて正月二日。朝。
いつもどおりの時間に目が覚めた詩織が、ハムスターのペンタに餌をあげようと、リビングに行き、ゲージを見ると、ペンタは、おがくずの中に頭を突っ込み、可愛いお尻を突き出して眠っているようであった。
しかし、まったく身動きしていないことに気づいた詩織がすぐにゲージの扉を開いて、ペンタの体をつんつんとつついたが反応はなかった。
すぐにペンタをゲージから出し、両手の上に載せ、目の前で「ペンタ? ペンタ?」と呼び掛けたが、やはり、ペンタは動かなかった。
昨日まで元気にゲージの中を走り回っていたペンタの死を、詩織はすぐに受け入れることができなかった。
詩織は、父親が起きてリビングにやってくるまで、ペンタの体を両手で包み込んで、一人、リビングで立ち尽くし、泣いていた。
「三年間も生きたんだから、寿命だったんだろう。きっと、詩織が、無事、高校を卒業できるだろうと分かって、ペンタも安心して旅立って行ったんだよ」
バンドを結成するまでの、人とのつながりを絶っていた頃の詩織にとって、唯一の同居人であり、話し相手であったペンタは、父親が言ったように、自分の役割はもう終わったと悟って旅立ったのかもしれない。
父親がちょうど帰ってきている間に旅立ったのも、ペンタが気遣ってくれたのかもしれない。詩織一人の時なら、きっと、一日中、打ちひしがれていて、ペンタをちゃんと天国に送ってあげることもできなかっただろう。
父親が、ペット葬儀業者と連絡を取るなど、一切を取り仕切ってくれた。ペンタを見送る間、詩織は涙が止まらなかった。
ペンタを見送った後、ちょうど昼時ということで、詩織と父親はペット斎場の近くにあったファミレスに入った。
食欲がわかなかった詩織は、サラダだけを頼んだが、そのサラダもあまり進まなかった。
「明日には、僕も福岡に戻るけど、詩織、大丈夫かい?」
詩織のあまりの落ち込みぶりに、父親も少し不安になったようだ。
「う、うん。来週からは学校もバンドも始まるから、落ち込んでなんかいられないよ。でも、今日は、……駄目かな」
「分かったよ。無理に笑顔にしても仕方がないもんね」
「うん」
詩織の性格を知っている父親だからこそ、詩織が、ずっと、ペットロス状態でいることはないと分かっているのだろう。
次の日。正月三日。
午前中には、父親は福岡に戻るため、自宅マンションを出た。
詩織は、回し車の音もせず、シーンと静まりかえったリビングで、主がいないゲージをぼんやりと見つめていた。
携帯に電話が掛かってきた。瞳からだった。
詩織が電話に出ると、「あけましておめでとう、詩織!」という瞳の明るい声が響いた。
「お、おめでとうございます」
瞳とは、年賀状も年賀メールも交換していたが、父親が今日の午前中までいると伝えていたので、この日のこの時間帯に電話を掛けてきたのだろう。
しかし、瞳も詩織の声の調子で、いつもの詩織ではないと、すぐに分かったようだ。
「どうしたの? 何かあった?」
心配そうな瞳の声で、心が暖かく包まれたように思えた詩織の目から、また、涙が溢れてきた。
「ペンタが、……昨日、天国に」
絞り出すように言った詩織に、瞳は「ごめん。そんな時に」と謝った。
「ううん! 違うんです! 瞳さんの声を聞いて、私は、もう一人なんかじゃないって、安心したというか、ペンタがいなくても、きっと大丈夫なんだって、そう思うと、また、涙が出て来て……」
「ねえ、詩織! これから、詩織の家に行って良い?」
一時間ほど後、詩織は、自分の家に初めて来る瞳を迎えるため、江木田駅の改札の前で待っていた。
下りの電車が到着すると、トートバッグを提げた瞳がホームから上がってきた。
いつものツインテールではなく、ワンレングスにしてモフモフのベレー帽をかぶった瞳は少し大人びて見えた。
詩織に気づいた瞳は、改札を抜けると小走りに詩織に近づいて来ると、そのまま詩織に抱きついた。
「ひ、瞳さん?」
「良かった。詩織が思ったほど、やつれてなくて」
「……瞳さん」
詩織は、優しく瞳の体を引き離すと、「瞳さんの声を聞いて、顔を見て、あっという間に、元気が出てきました!」と瞳に言った。
安心した表情を浮かべた瞳を案内して、詩織は初めて瞳を自宅に案内した。
詩織の部屋に入った瞳は、部屋に飾られているぬいぐるみやファンシーな家具を見て、「詩織らしい」と微笑んだ。
ちなみに瞳の部屋は、モノクロ系ファッションに併せた壁紙や家具で、洗練されたお洒落な雰囲気で統一されていた。
「あっ、お茶も出さずにごめんなさい」
瞳の家に行くと、すぐに瞳はお茶の準備をすることを思い出した詩織は、キッチンに向かおうとした。
「詩織! お茶なら持ってきたよ」
「えっ?」
瞳がトートバッグの中から小さな水筒を取りだした。
「前に、詩織がうちに来た時に出した紅茶、詩織、美味しいって言ってたでしょ? お兄ちゃんがそれを憶えていて、詩織に持って行ってあげたらって言ったんだ」
「響さんが?」
「うん。本当はお兄ちゃんも詩織の家に来たかったみたいなんだけど、詩織が精神的に弱っているのにつけ込んで自宅に上がり込むのは、自分の美学に反するだなんて言って、遠慮したんだ。でも、このお茶を持って行ってあげなって」
響らしい、優しい心遣いが、詩織も嬉しかった。
リビングの応接セットでお茶を飲みながら、瞳と話をしていると、詩織は本当に元気になってきた。
バンドメンバーと出会い、瞳と出会ったことで、ペンタは安心して天国に行ったという父親の言葉どおり、詩織がいつまでもペンタの死を悲しんでいることは、きっと、ペンタ自身が望んでいないことなんだろうなと、自分に言い聞かせることができた。
「瞳さん」
「うん?」
「私、もう、いつもの私に戻っていると思います」
「うん、私もそう思う」
詩織と瞳は見つめ合って微笑みを交わした。
「そういえば、瞳さん。髪型、変えられたんですね?」
「う、うん。実は、ツインテールは、お兄ちゃんの好きだったアニメのヒロインの髪型だったんだ。同じ髪型をしてると、お兄ちゃんも喜んでくれるかなって思って、ずっとツインテールにしてたんだけど、そろそろ高校も卒業するわけだし、いつまでも子どもみたいな髪型にしててもなあって思って、休みの日には、いろいろと髪型を変えてるんだ」
瞳は、「桜小路響の妹」からも卒業しようとしているのだろう。
「卒業かあ。……瞳さんと一緒に学校に行けるのも、あと少しになっちゃいましたね」
「そうだね」
「瞳さん! 卒業してからも、ときどきは会ってくださいね」
「もちろんだよ! 詩織はバンド活動が本格化するから、忙しくなるだろうけど、一人の時に寂しかったら、いつでも詩織のところに来るからね」
「ありがとうございます。瞳さんは四月から大学生ですよね」
「気が早いよ。受験に合格してからだよ」
「そ、そうでしたね。受験勉強で大変な時期なのに、来てくれて、ありがとうございます」
自分は受験をしない詩織は、今、受験生にとって大切な時期だということを思いだした。
「受験の方は、もう、『人事を尽くして天命を待つ』って心境で、今さら、しゃかりきになってもしょうがないって思ってるし」
「受験日は、いつなんですか?」
「とりあえず、共通テストが十四日で、第一志望の大学入試は、二月十八日」
「第一志望は、響さんと同じ大学の?」
「うん。まあ、アルテミス女子大の編入認定試験にはもう受かっているから、気楽といえば気楽なんだけどね」
「やっぱり、文学部に行かれるんですよね?」
「いや、それがさ」
瞳が少し言いづらそうな顔をした。
「福祉学部にしようかと思っているんだ」
「福祉学部ですか?」
「うん。介護士の資格を取ろうかなって思って」
「じゃあ、小説家になることは?」
「もちろん、これからも挑戦はするつもり。でも、お兄ちゃんの朗読推敲を手伝っていると、やっぱり、私にはお兄ちゃんみたいな才能はないのかなって思い知らされることも再々あってさ」
「……」
「それに文学部に行かないと小説は書けないってことじゃないでしょ?」
「それは、そうですけど……、でも、福祉学部に行こうと思ったきっかけって何かあったんですか?」
「お兄ちゃんが行っていた大学は、昔から福祉活動やボランティア活動が盛んでさ。最初は杖を突きながら一人で通学していたお兄ちゃんも、ボランティアサークルの人が、毎朝、付き添ってくれて、一緒に通学してくれるようになったの。その人は、今でもお兄ちゃんの親友なんだ」
「そんな方がいらっしゃったんですね」
「うん。今でも、たまに、うちに来てくれて、お兄ちゃんと学生時代の思い出話とかしているんだけど、その話を聞いていると、私も障害を抱えた人のお手伝いができるようになりたいなって思うようになってさ」
「何か、瞳さんらしいです」
「そ、そうかな」
弱い者には慈悲深く、世話好きな瞳の性格からいうと、まさにうってつけだと思った。
「じ、実はさ。梅もそこを受けるって言っててさ」
「梅田さんも?」
「うん。あいつ、もともと、お兄ちゃんのファンだったんだけど、詩織のバースディパーティ以降、よく、うちに来てくれて、お兄ちゃんの執筆の手伝いをしてくれるようになったんだ」
「そうなんですか?」
「うん。家も近いしね。それで、あいつも障害を持ったお兄ちゃんと接するようになって、何か福祉関係に目覚めたみたいで、本当は経営学科とかに行くつもりだったみたいだけど、私と同じ福祉学科に行くって言い出してさ」
瞳と光の仲は、詩織が思っていたより進展しているようだ。
そして、瞳が福祉学科を希望するようになったのは、本当は、光が先に言い出したからではないだろうかと思った詩織であった。
「梅は、将来、アルテミス女学院を、障害を抱えた生徒であろうと、健常者と一緒に学校生活を送ることができる、そんな学校にしたいんだって」
アルテミス女学院は、「お嬢様学校」という看板を掲げている私立の学校で、礼儀作法やマナー、クラシック音楽や日舞といった、お嬢様ならではの必須科目があり、詩織も三年間の学生生活を送る中で、障害を抱えた生徒は見たことがなかった。光の考えていることは、確かに大変革になるだろう。
「それが、梅田さんが見つけた『やりたいこと』なんですね?」
「そうみたい」
照れながらも、嬉しそうに笑う瞳は、きっと、「小説家桜小路響の妹」という呪縛から、既に解き放たれているのだろう。
詩織は、瞳と光の合格を心から祈った。




