Act.149:親子に戻る
午前中、響の家を訪れていた詩織は、昼前にはそこを出て、福岡から帰ってくる父親を迎えに羽田空港に行った。
これまで、昔の自分のことがばれたらどうしようかと怯えていて、人がたくさん集まる所には極力出て行かないようにしていたが、既にデビューも決まったこの時期、そんな気持ちは消えてしまっていて、純粋に父親と早く会いたいという気持ちで、詩織は到着ゲートを見つめていた。
福岡便が到着し、多くの乗客が到着ゲートから出て来た。
父親は、いつもと同じラフな格好で出て来たが、その背中にはソフトギターケースを背負っていた。
「お帰りなさい、お父さん!」
思わず走り寄った詩織に、父親が懐かしくも優しい笑顔を見せた。
「ただいま」
「そのギター、どうしたの?」
「実は、また、始めたんだ」
「そうなの?」
「単身生活で、帰るとすぐに晩酌をして、いつの間にか眠っていたんだけど、このままじゃ、ぐうたらになってしまうなって思って、また、ギターを始めたんだ。それで、せっかくだから、詩織にギターを教わろうと思ってね」
「お父さんに教えるなんて」
詩織の最初で最後のギターの師匠は父親だった。父親以外の人にギターを教わったことはなく、アイドルを引退してからは、ずっと独学でギターの練習をしていた。
「四月には東京に戻れるはずだから、土田にも連絡をして、また、一緒にやろうという話になっているんだよ」
「教頭先生と?」
「ああ、土田も詩織が学校でやったライブを見て、また、バンドをやりたくなったみたいだよ」
「そうなんだ。じゃあ、あの頃のメンバーと一緒にするの?」
「元のメンバーの全員とは連絡がついた訳じゃないけど、何とかなりそうかな」
そう言った父親の顔は、飛行機の旅の疲れも見せないで楽しそうであった。
詩織と父親は、一旦、渋谷に寄り、エンジェルフォール本社を訪ね、榊原と竹内に挨拶をしてから、自宅に戻った。
帰り道にあるコンビニでビールとつまみを買った父親は、帰り着くと、早速に晩酌を始めた。
「事務所の社長さんにも挨拶できて、何となく肩の荷が下りたよ」
「うん。はい、お父さん」
詩織が缶ビール持ち、ビールを父親のグラスに注いだ。
「ありがとう。もう少しすると、詩織と杯を交わすこともできるのかな?」
「お父さんはそうしたいの?」
「子どもと一緒に酒を飲むのって、けっこう、憧れていたんだよ。でも、女の子だから、大酒飲みになるのも嫌だなって思っていてね」
「スタジオリハの後、奏さんの家に集まって、ミーティング兼飲み会を今も毎回してて、みんながお酒を飲んでいるのを見てると、美味しそうに飲むなあって、ちょっと羨ましいかも」
「詩織は、まだ、ひとくちもお酒を口にしてはいないのかい?」
「お父さんの娘はそんな不良じゃないです」
「はははは、そうだったね」
父親が手に持っていたグラスをテーブルに置くと、穏やかな表情のまま、詩織を見た。
「明日、母さんに会ってくるよ」
「えっ?」
「ちょっと、話をしてくる」
「何の話?」
「今後のことだよ」
「今後のこと? もしかして、お父さん、お母さんと再婚するの?」
「もし、そうだったら、詩織は反対するかい?」
「……ううん。お父さんとお母さんがそういう気持ちになっているのなら反対はしない」
「良いのかい?」
「うん。私、もう十八歳だよ。大人と同じだよ。それにお仕事も始めるんだから、もう、自分で生活もできる」
「そうだね。詩織は、もう、僕達から羽ばたいて行くんだよね」
「う、うん」
「でも、母さんとは再婚はしないよ」
「そうなの?」
「ああ、母さんとは、けっこう、電話で話はしていてね。もう、お互いがそれぞれの道を歩みだしたんだし、これからもそうすれば良いということになったんだ。明日、久しぶりに直に会って、そのことをお互いに確認しようという訳だよ」
母親は、銀座で「ミズキ」というクラブを始めて、芸能関係者から贔屓にされて、経営も順調のようだ。
「お父さんが歩み出した道って?」
「さっき言ったバンドのことだよ。いくら、詩織が、昔、アイドルをやっていたとしても、必ずしも、バンドで成功するとは限らないと思っていたから、僕も詩織を養わなくっちゃって、しゃかりきになって働いていたけど、良い意味で予想に反して、詩織のデビューもこんなに早く決まった。だったら、僕ももう自分の好きなことをやらせてもらおうかと思ってね」
「うん! そうして! 私、ずっと、お父さんのスネばかりかじってきたから、絶対、そうしてもらいたい!」
「そうするつもりだよ。だから、転勤の話があっても、これからは断ろうと思っている。それで出世の道は遠ざかるけど、友達とバンドを楽しみながら、定年まで、仕事とバンドをのんびりやるよ」
「じゃあ、明日は、そのことも言いに行くの?」
「そうだよ」
「……じゃあ、私も行く」
次の日。
詩織と父親は、銀座にある母親の店に行った。
時間は午後二時で開店前だったが、かえって、ゆっくりと話せるからと、母親が店を開けてくれたのだ。
「いらっしゃい。詩織、久しぶり」
「う、うん」
高級ブランドのブラウスの袖をまくった母親が笑顔で話し掛けてきたが、詩織はその笑顔をまともに見ることはできなかった。
「ごめんなさいね。仕込みがあと十分ほどで終わるから、そこで待っていてくれる」
母親は店内の豪華なソファを指した。
「座っても料金は掛からないよね?」
「ふふふ、今はね」
父親と母親は、詩織の引退を巡って、大げんかをし、離婚をした。あの頃には、この温厚な父親が声を荒げる場面もあった。しかし、それは、それだけ真剣に詩織のことを考えていてくれていたからだ。
あれから三年。父親も母親も穏やかに話ができるようになっていた。
詩織と父親は、豪華なソファに並んで座った。こんな店には来たことのない詩織は物珍しく周りを見渡した。
壁際にある小さな窓が開けられて、そこから差し込む太陽の光が薄暗い店内をほのかに照らしていた。開演前のステージと同じで、夜には煌びやかに輝くであろう店内の素顔を晒しているかのようであった。
五分ほど、カウンターの中でチャームの仕込みをしていた母親は、「あとはお願い」と女性スタッフに任せると、詩織達の前のソファに座った。
山梨でのロクフェスで会ったが、その時には、ステージと客席という距離があって、こんなに近くで母親の顔を見たのは、母親と別れて以来だった。
女の子は父親に似ると言われているが、詩織はどちらかというと母親似だった。芸能人時代には、「一卵性親子」などと言われていた。
「来年の二月にはデビューをするって、榊原さんに聞いたわ。おめでとう、詩織」
「うん」
素直に「ありがとう」と返すことは、まだ、できなかった。
「詩織」
詩織は無言で、母親の顔を見た。
「あの時は、詩織の気持ちをくみ取ってやれなくて、ごめんね」
「……」
「言い訳みたいになるけど、私の話も聞いてくれる?」
「……」
詩織は返事をしなかったが、母親は穏やかな表情のまま、話しだした。
「詩織は、自分ではそれほど意識してなかったと思うけど、もう、すごい人気だったんだよ。事務所に届いたファンレターは、キューティーリンクの他のメンバーよりも断トツに多かった。詩織がとても全部は読み切れる量ではなかったから、私が代わりに読んで、必要だと思えば、返事も書いていた。詩織に見せていたのは、ほんの少しだけ」
当時、中学校にもちゃんと登校しながら、分刻みのスケジュールを刻んでいて、ファンレターを読む時間はほとんどなかった。しかし、詩織は、せっかく送ってきてくれているのだから、全部読むと言い張った記憶があった。
「私も一日五十通くらいは読んだ気がするけど」
「詩織には、これを読めば、詩織、喜ぶだろうなって内容のものしか渡さなかったの。事務所にはその十倍以上のファンレターが毎日、来ていたのよ」
詩織が五十通を読んでいたとすれば、実際には五百通を超えるファンレターが来ていたことになる。ファンレターを読むだけで詩織の一日は終わってしまっていただろう。
「あの頃の詩織に、理想と現実のことを話しても納得してもらえなかったと思う。ファンレターも全部を読みたいと言っても、実際は無理なのよ。でも、詩織はそれにこだわっていて、少なくとも自分の手元に来たファンレターは全部読んでいたでしょ? だから、詩織に本当に全部のファンレターを渡すことなんてできなかった。そんな周りのみんなに守られていることも意識せずに、自分の考えを押し通すことは、その人達に迷惑を掛けることになるの。実際、詩織が、突然、引退を言い出して、所属事務所もそうだし、CMに出演していた企業さん、広告代理店、テレビ局、いろんな人達に迷惑を掛けたの。中には損害賠償を請求するなんて言われた所もあったんだけど、私が関係者全員に頭を下げて回って、何とかそれは回避できたの」
「……」
「誤解しないでね。今さら、詩織を責めようって思っている訳ではないの。詩織は純粋だから、自分がこうと決めたら、それを実行せずにはいられなかったんだと思うけど、世の中は、自分の考えだけで解決するようなことばかりじゃないのよ。詩織は、これからまた、芸能界で生きていく訳だけど、周りの人のことも考えて行動してね」
「分かってる」
強がって詩織は言ったが、昔の自分のことを隠すことを優先していた自分の行動で、周りの人に迷惑を掛けていたと気づいたことは事実だ。
まだ中学生で世の中のことが分かってなかった詩織が自分の考えを押し通したことで、いろんな人に迷惑を掛けていたことは、当時、まったく意識をしていなかった。
「詩織はそんな子なんだって、私も分かっていたけど、そんなこともあって、詩織に辛く当たってしまったわね。ごめんね」
「……もう、良いよ」
「詩織」
隣に座っている父親が口を開いた。
「母さんを許してやってくれないか? 僕も芸能界のことはまったく分からなかったから、母さんがそんな責任を負わされていたなんて思ってもいなかったんだ」
「だから、もう……良いよ」
すねて視線を下げた詩織を見て、母親は立ち上がり、詩織の横に移動してきて、肘掛けと詩織の間に腰を押し込むようにして、ソファに座った。
そして、驚いた詩織の肩を抱いた。
「あの頃は、まだ、私より背が低かったのに、今は同じくらい? もう、私より高いかな?」
「ど、どうだろ?」
母親は、詩織の肩を抱く腕に力を込めて、詩織に体を密着させた。
「あれから、詩織を抱っこできなくて残念だったな」
「もう十八だから、抱っこなんて……」
「詩織」
詩織は、母親と反対側に座っている父親に顔を向けた。
「母さんとは、また、一緒になろうかと話し合った時期もあったけど、やっぱり、もう元には戻れないという結論になったんだ」
「う、うん」
「これから、僕や母さんに好きな人ができないとは限らないし、詩織もいつかは結婚をするかもしれない。僕達三人は、これからそれぞれの道を行くことになる。でも、僕と母さんと詩織は、この世に三人しかいない親子なんだ。それは、これからもずっと変わらない。そうだろ?」
「ええ、そうね。何だかんだ言って、いまだにお互いを『お父さん』とか、『母さん』とか呼んでいるんだしね」
「ははは、確かにね」
詩織越しに父親と母親が笑いあった。
詩織は、その二人に挟まれて、少し照れくさい気持ちで、久しぶりに母親に抱かれた感触を懐かしく感じていた。




