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Act.145:愛ゆえの暴走

「どうしたんですか、琉歌るかさん?」

 昨日、交通事故を目の当たりにして、あれだけ琉歌が怖がっていたことも見ているはずの楢崎ならざきが、不思議そうな顔をして、琉歌を見た。

「怖い……。怖いの~!」

「怖い? どうしてですか?」

「ど、どうしてって……」

 そんな問答をしている間に、マジックエナジーカーはまた街の中に入った。そして、多くのアバターが通る大通りを、猛スピードで走り抜けていった。

「やめて~!」

 琉歌は、椅子から崩れ落ちるように床に座り込み、目を閉じ、耳を塞いだ。

「琉歌さん! どうしたんですか?」

 楢崎は、車の運転を続けながら、床に座り込んだ琉歌を見た。

「だから! ……楢崎さん、わざとやってるの~?」

 昨日の今日で、しかも急に姉に言われて、この部屋にやって来て、見せつけられたのが、車の暴走シーン。楢崎は、わざと車を暴走させるシーンを琉歌に見せつけているとしか考えられなかった。

「ええ、そうですよ。琉歌さん、見てください。これはゲームなんですよ」

「……」

 琉歌が恐る恐る目を開け、画面を見ると、まだ、マジックエナジーカーは街中を暴走していた。

 アバター視線のままの画面は、マジックエナジーカーが道路の両脇にある建物にぶつかると、車体を揺らせる様子がリアルに描写されていたが、建物も車も壊れることはなかった。

 ときどき、通りすがりのアバターにも衝突していたが、アバターの方は実体がないようにすり抜けていった。

「ほらっ、大丈夫でしょう? もし、誰かにぶつかったとしても、誰も死なないし、傷つきもしません」

「そんなこと言わないで~!」

 琉歌は、両手で耳を塞いだ。

「琉歌さん! 琉歌さんの辛い思い出のことは、玲音れおさんから聞きました!」

 耳を塞いでいる琉歌にも聞こえるように、楢崎が大きな声で言った。

 それで、琉歌は耳から手を外した。

「琉歌さん! パソコンの画面から目をそらさないでください! ずっと、見ていてください! 琉歌さんが車を怖くないと思えるようになるまで、僕は運転を止めません!」

 まだ、床にしゃがみ込んでいる琉歌は、少し見上げるようにして、自分が操作していたパソコンの画面を見た。そこには相変わらず、アバター視点の風景が映っていた。

 琉歌は、その画面をしばらく見ていたが、やはり、心の中に恐怖心がわき出てきて、直視できなくなった。

「駄目~! できないよ~!」

 琉歌の叫びを聞いて、楢崎がマジックエナジーカーを止めた。

 いつの間にか、街から出て来て、あちこちにチェスの僧侶駒ビショップのような形の岩が林立する荒野に来ていた。

「琉歌さん。僕もトラウマのことを専門的に勉強している訳ではありませんから、この方法が本当に良いことなのかどうかは分かりませんし、もしかしたら、琉歌さんをさらに苦しめるだけで終わってしまうかもしれません。でも、僕はやりたいんです! 琉歌さんを苦しめているすべてのことから琉歌さんを解き放してあげたいんです! そのために少しでも効果がありそうなことを試してみたいんです!」

「……楢崎さん」

「もちろん、僕一人が勝手にそう思っているのではなく、玲音さんやバンドの皆さんも同じ思いなんです!」

「ひょっとして、お姉ちゃんが?」

「そうです。玲音さんが出掛けられたのも打ち合わせどおりです」

「どうして、こんなことを~?」

「近々、ライブがあるそうですね?」

「うん~」

「でも、玲音さんは、今のままの琉歌さんでは、ライブは絶対に失敗するって言ってました」

「そんなことないよ~! だって、ボクは、今までもずっとこのトラウマに悩まされてきたんだよ~! でも、これまで、全然、平気だった~! 今度だって同じだよ~」

「琉歌さんは、玲音さんの言うことが嘘だというのですか?」

「……今度は、きっと、お姉ちゃんも勘違いしてると思う~。だから、こんなことなんてしなくて良いんだよ~」

「例え、そうだとしても、僕は止めません! なぜかって、琉歌さんと、これからもいっぱい笑いながら、一緒にイルヤードをしたいからです!」

「だから、できるよ~」

「できていないじゃないですか! 今、琉歌さんは、イルヤードを笑顔でプレイできてないじゃないですか!」

「……」

「僕は、このマジックエナジーカーで、広大なイルヤードの世界を、ルカさんと一緒に走りたいんです! 人気者のルカさんと一緒にいるところを他のプレイヤーさんに見せつけて、自慢したいんです!」

「……」

「でも、本当は、リアルな琉歌さんに、いつも笑顔でいてほしいんです。一緒に秋葉原に行った時、僕は、少し照れくさかったですけど、すごく楽しかったです。琉歌さんも喜んでくれて、僕も嬉しかったです。だから、リアルでも、また、一緒に秋葉原に行きたいです! デートしたいです!」

「……」

「事故に遭遇するなんて機会はほとんどないとは思いますけど、この前みたいに、せっかくの琉歌さんとのデートを台無しにされたくないです!」

「……」

「だから、パソコンの画面を見続けてください」

 琉歌は、催眠術に掛かったかのように、ゆっくりと立ち上がり、再び、パソコン画面の前の椅子に座った。そして、隣の楢崎に顔を向けた。

「やってみる~」

「はい! じゃあ、行きますよ!」

 楢崎が、再び、マジックエナジーカーを発車させた。

 荒野から街中に入り、狭い道を爆走しだした。

 琉歌は、両手を太ももの上で握りしめながら、じっと画面を見ていたが、父親がフロントガラスに衝突したシーンが蘇ってきて、「駄目~!」と叫ぶと、両手で抱えた頭を深く下げた。

 マジックエナジーカーが停まった音がした。

 気持ちを振り絞って、頭を上げて、楢崎を見つめた。

「やっぱり、駄目だよ~」

「一度や二度で諦めませんよ! さっきも言いましたけど、何度でも何度でも、僕は琉歌さんを乗せて、車で走ります! 琉歌さんが嫌だと言っても止めませんから!」

 琉歌は、もう、こんなことは止めてほしいと思う反面、琉歌がこのまま諦めてしまうことは、自分のことを心配してくれている楢崎に、そしてその後ろにいる姉やバンドメンバーに対する裏切りのような気がしてきた。

 琉歌は、普段と同じようにドラムを叩くことができると自分に言い聞かせていた自分に気づいていた。それは裏返すと、自分が普段と同じ状態ではないと自覚していたからだ。

 明後日、プロとしての初ライブがある。

 そして、そのライブの出来不出来は、姉が大好きだという榊原さかきばらの進退を決することになり、正直、琉歌は怖かった。

「普段どおりの演奏をすれば大丈夫さ!」と、姉は明るい表情で軽く言ってくれたが、ずっと一緒に暮らしている姉の心の奥底にある不安感を見逃す琉歌ではなかった。そして、それが、プレッシャーとなって、琉歌に襲い掛かってきていた。

 ――お姉ちゃんにも、おシオちゃんにも、奏さんにも迷惑は掛けたくない!

 琉歌は勇気を振り絞って、また、顔を上げた。そして、パソコン画面を見つめた。

 それを見ていた楢崎は、「じゃあ、行きますよ!」と言って、また、マジックエナジーカーを走らせ始めた。

 しばらくすると、琉歌が、また耐えられなくなって、頭を抱えてうつむいてしまった。そして、また、しばらくすると、ゆっくりと顔を上げて、パソコン画面を見つめる。楢崎がマジックエナジーカーを発車させる。それが延々と繰り返された。

 琉歌は、歯を食いしばりながら画面を見つめた。

 琉歌が嫌なことを、あえて、やってくれている楢崎の優しさが伝わってきた。

 マジックエナジーカーの暴走シーンを見ていて、琉歌の脳裏に忌まわしいシーンが蘇ってくる間隔が、次第に長くなってきているような気がした。

 しかし、それが出なくなることはなかった。

「琉歌さん!」

 ふいに楢崎が琉歌を呼んだ。

 楢崎を見ると、少し赤い顔をして、琉歌を見ていた。

 楢崎は左手を琉歌に差し出した。

「もうかれこれ一時間ほど、ずっと運転の操作をしていて、コツが掴めたので、右手だけで操作できるようになりました」

 琉歌が部屋の時計を見ると、いつの間にか、それくらいの時間が経っていた。

「る、琉歌さんさえ良ければ、ぼ、僕の手を握っていますか?」

 琉歌は、少し躊躇したが、ゆっくりと楢崎の手を握った。

 久しぶりに握る男性の手。

 琉歌の手に残っているのは、直人なおとの手の感触。顔はもちろん、体格も直人に似ている楢崎の手を握っていると、その感触が蘇ってきた。

 最後に握ったのは、直人が警察の遺体安置所に横たわっている時だった。

 琉歌の目から大粒の涙が溢れてきた。

「……ごめん。……ごめんなさい。……直人さん」

 その琉歌の呟きが楢崎の耳の入ったのかどうかは分からなかったが、楢崎は、琉歌の手を握ったまま、マジックエナジーカーを発車させた。

 右手の指を器用に使って、キーボードを操作しながら、楢崎は横目で、打ちひしがれたように頭を垂れて泣いている琉歌を見た。

「僕は、直人さんという方を知らないです。でも、僕に似ていると玲音さんから聞きました。僕が琉歌さんに出会えたのは、直人さんが会わせてくれたのではないでしょうか?」

 楢崎が琉歌の手を少し強く握った。

「琉歌さんに『もう謝らなくて良いんだよ』と伝えるために」

「……」

「琉歌さんのお父さんだって、同じ気持ちなんだと思います」

「……」

「きっと、直人さんと琉歌さんのお父さんは天国で仲良く酒でも酌み交わしているのではないでしょうか?」

 琉歌はゆっくりと顔を上げて、楢崎を見た。

「……直人さんもお父さんもお酒は飲めないんだよ~」

「そ、そうなんですか!」

 自分で考えたであろう台詞の前提が間違っていて、焦る楢崎の方に、手をつないだまま、琉歌が椅子を近寄せた。

「でも、楢崎さんが言ってくれたこと、本当かな~? 直人さんもお父さんも、もう、怒ってないかな~?」

「それは、本当です! あっ、いえ、僕はイタコではないので、直にお二人の声を聞いた訳ではないですが、ぜ、絶対にそのはずです!」

 根拠のない楢崎の説明だったが、琉歌は、自分の気持ちが落ちついてきているのを感じた。

 そして、再び、疾走するマジックエナジーカーの画面に視線を戻した。

 忌まわしいシーンが出て来ようとしていた。琉歌が気を緩めると、すぐに蘇ってきそうだった。

 その都度、琉歌は、楢崎の手を強く握った。

 ――直人さんの手に似ているけど、これは直人さんの手ではなく、楢崎さんの手なんだ。

 その手は、直人や父親の代わりに、琉歌を守ってくれるはずだ。

『琉歌ちゃん! 僕が果たせなかったバンドの夢! 玲音さんと一緒に、絶対、叶えてよ!』

 ――直人さん?

『まだ、玲音と一緒にバンドをしているのか? 仕方がない奴だ。でも、まあ、ここまで来たら、行ける所まで行け!』

 ――お父さん?

 二人の姿は見えなかったが、琉歌の耳には、確かに二人の声が聞こえた。

 ――二人とも、もう、ボクのこと、許してくれるの?

 二人の返事はなかった。

「琉歌さん!」

 琉歌が我に返り、楢崎に視線を移した。

「僕もお酒は飲めません! そして、実は、まだ、車の免許も持っていないんです!」

「……」

「だから、僕は、琉歌さんを事故に遭わせることはありません! 琉歌さんに悲しい想いは絶対にさせることはありません!」

「……」

「もちろん、琉歌さんが、車が平気になれば、免許を取って、あちこちに遊びに行きたいです! でも、免許を取っても、僕は小心者ですから、スピードを出すことなんてできません!」

「楢崎さん……」

「また、アキバに行きましょう! とりあえず、電車で!」

 琉歌の目から、違う感情が溢れさせた涙が出て来た。

 右手を楢崎の左手とつないでいる琉歌は、さらに椅子を近づけて、楢崎と並んで座っているようにすると、楢崎の肩に自分の頭を載せた。そして、楢崎が操作をしているパソコンの画面を一緒に見つめた。

 画面では、助手席のルカが、運転をしているナランの肩に頭を載せていた。

 

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