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Act.144:イルヤードの世界を駆け抜けて

 詩織しおりは、ひとみとの電話を切ると、すぐに玲音れおに電話をした。

 玲音はすぐに電話に出た。琉歌るかのことが心配で、今日はバイトを休んで、家にいるとのこと。

 電話で済ませるような話でもなかったことから、詩織は自宅を出て、江木田駅の反対側に行くと、久しぶりに玲音の部屋に行った。

 中に入ると、早速にローテーブルに向かい合って座った。そして、瞳との電話で思いついた考えを玲音に話した。

「なるほど。楢崎ならざきさんなら、そんなゲームも知ってそうだよな」

「はい。でも、私もトラウマの専門家ではないので、琉歌さんにとって本当に良いことなのか、どうか……」

「確かに諸刃の剣だよな。琉歌の悩みを打ち破ってくれるかもしれないけど、一歩間違うと、琉歌のトラウマをさらに悪化させるかもしれない」

 玲音は、しばらく腕組みをして、目を伏せて考え込んでいたが、ゆっくりと腕をはずすと、詩織を見た。

「今朝の琉歌の様子だと、今日のスタジオリハで、いつもの琉歌のドラムを聴かせてくれることはないと思う。いつもどおりに振る舞っているけど、琉歌の心の震えが分からないアタシじゃないよ」

「玲音さん……」

「だけど琉歌は、出演を辞退すると言っても納得しないだろう。かといって、このまま出演して、自分の思いどおりのドラムが叩けなければ、琉歌はもっと苦しんでしまうはずだ」

 玲音は淡々と話しているが、今度のライブのでき次第で、榊原さかきばらの進退も決まってしまうのだ。本当は、玲音だって苦しいはずだ。

「とにかく今のままでは、進むことも止まることもできないんだ。だとしたら、ここは一か八か、おシオちゃんの考えてくれたことをやるしかないな」

 玲音が自分に言い聞かせるように言った。

「本当に良いんですか? 私から言っておいて何ですけど」

「ああ。琉歌の症状が今よりも悪くなっても、アタシが責任を取る。というか、姉妹なんだから当然なんだけどな」

「玲音さん……」

「おシオちゃん、ありがとうな。琉歌のこと、そんなに心配してくれて」

 何かを吹っ切ったように、玲音が穏やかな微笑みを見せた。

「仲間じゃないですか! それに、明後日のライブを絶対に成功させたいのは、誰よりも玲音さんじゃないんですか?」

「そうだな。……さっそく、楢崎さんに連絡を取ってみるよ」



 玲音が楢崎の携帯に電話を掛けると、楢崎はすぐに電話に出た。

 楢崎は仕事中だったが、琉歌のためになるのならと、快く協力を約束してくれて、午後から休暇を取り、家にいるようにしてくれた。

 そのことが確認できると、バンドの仲間ではあるが、琉歌のトラウマに関しては、「部外者」である詩織には帰ってもらった。詩織がいることで、琉歌に変な警戒をさせてしまうとも思ったからだ。

 そして、玲音は、隣の琉歌の部屋を訪ねた。

「琉歌、起きてるか?」

「起きてるよ~」

 いつもの返事が返ってきた。琉歌は、パソコンでネットトレーディングの画面を見ながら、スティックを持って、ドラム練習台で基礎的な練習をしていた。

「おっ、気合いが入ってるじゃねえか」

「うん~、早く明後日のステージに立ちたいよ~」

 それは、こんな苦しい心の状態でやるステージが早く終わってくれたら良いのにという感情のせいではないかと、玲音は捉えた。

 実際に、琉歌はそんなことを考えてはいないだろうが、心の奥底でそう呟いていると、玲音には感じられた。

「まあ、あまり、気負ってても逆効果だから、気分転換に、ちょっと出掛けないか?」

「どこに~?」

「実はさ、楢崎さんから、琉歌を心配する電話が掛かってきてさ。あれから、イルヤードにもログインしてないんだろ?」

「う、うん。何となく、そんな気にならなくて~」

「楢崎さんには、すごく迷惑を掛けたし、ちゃんと謝りに行きたいんだ」

「今日はお仕事のはずだよ~?」

「楢崎さん、今日、たまたま、仕事が休みで自宅にいるってことなんだ。午後には、お宅にお邪魔すると約束したんだよ」

「そうなんだ~」

「琉歌も迷惑掛けた張本人なんだから、一緒に行って、頭を下げようぜ」

「そうだね~。ボクも行くよ~」



 楢崎の家は、秋葉原に近い、墨田区にあった。

 最寄りの駅に迎えに来てくれた楢崎と一緒に、賃貸ワンルームマンションである楢崎の家に向かった。

 部屋に入ると、アニメのポスターやらフィギアやらが飾られ、大きなデスクトップパソコンとディスプレイが三台、部屋の中心に鎮座していた。

「すごい~。これ。三つとも、使ってるんですか~?」

 琉歌が少し興奮気味に訊いた。

「はい。真ん中の一番大きな奴が、いつもイルヤードを遊んでいるメインマシンで、右は、ツイッターとかネトゲ関連の情報を見るもの、左は、ネットでアニメを見るためのものです。もっとも左右のパソコンでもイルヤードがプレイできますので、ときどき、別アカで遊んでいます」

「良いなあ~。ボクも三台欲しいなあ~」

 指をくわえて、子どものように羨ましがる琉歌に、玲音が「琉歌! 今日、ここにお邪魔した目的を忘れているぞ」と呆れ気味に言った。

「そ、そうだった~」と頭をかいた琉歌は、玲音と並んで立ち、楢崎に向かい合った。

「楢崎さん。先日は、琉歌がご迷惑を掛けて、本当に申し訳なかったです。これは、お詫びのしるしといえば、質素すぎて申し訳ないすけど、琉歌から、楢崎さんは芋ケンピが好きだって訊いたので、ぜひ」

 玲音は、一応、芋ケンピ専門店で買った、少し高級な芋ケンピを差し出した。

「わざわざ、すみません。逆に気を使わせてしまって」

 その後、玲音と琉歌は、リビングのローテーブルに座り、楢崎が入れてくれた日本茶をすすりながら、三十分ほど世間話をした。

 ふと楢崎と目が合った。

 玲音が琉歌に気づかれないように軽くうなずくと、楢崎が表情を引き締めたのが分かった。

「琉歌」

 呼ばれて、琉歌が隣に座っている玲音を見た。

「この辺りは、アタシも来たことがないから、どんな店があるか、ちょっと、一時間ほど散歩してくるよ。琉歌は、楢崎さんとこの部屋の雰囲気を楽しんでいれば?」

「楢崎さんと二人で~?」

「楢崎さんは紳士だろうし、もし、オオカミに変身したら、携帯で呼んでくれれば、ぶっ飛ばしに戻ってくるからよ」

「僕には、そんな度胸はないですよ」

 両手を振りながら焦る楢崎は、実際に、琉歌を襲うことなどしないだろう。

「楢崎さん! 一時間ほど、琉歌をお願いします」

「琉歌さんさえ良ければ、アニメとかイルヤードの話を、いっぱい、したいです」

「じゃあ、お姉ちゃんが戻ってくるまで~」

「それじゃ、ちょっと出掛けてくるんで、琉歌をよろしくです」

 玲音は、一人、部屋から出て行った。



 二人きりになった楢崎と琉歌だったが、楢崎が「イルヤードをやりましょうか?」と誘って、イルヤード用のパソコンの前に座った楢崎の左に、予備の椅子を持ってきて座った琉歌は、楢崎の予備のパソコンを借りて、「ルカ」としてログインした。

 ナランもログインしていて、誰かと同じ部屋で一緒にイルヤードをプレイするという初めての体験に、琉歌も楽しくなった。

 少し視線をずらして、楢崎の前のディスプレイを見れば、自分のアバターであるルカが、ナランの視線の画面にいて、スムーズな動きを見せていた。

「琉歌さん」

 チャットではなく、直に楢崎が話し掛けてきた。

「琉歌さんは、マジックエナジーカーはお持ちですか?」

「持ってないです~。あれ、素材がなかなか揃わなくて、『猫まん』の中でも持っているのは、一人か二人ですよ~」

 マジックエナジーカーとは、モンスターなどを狩ってドロップする素材を集めて作る、イルヤード内では最速の移動手段であるスポーツカータイプの乗り物で、作製には、いくつものレアアイテムが必要とされていて、持っているのは、長時間、ゲームをやり込んでいるプレイヤーだけであった。

「実は、僕は持っているんです」

「へ~、やっぱり楢崎さんですねえ~」

「ははは、ゲーム廃人みたいで少し恥ずかしいですけど……、乗ってみますか?」

「乗ったことないから乗ってみたいです~」

「じゃあ、ちょっと待っててください」

 楢崎がキーボードを操作すると、画面の中のナランが祈るようなポーズを取り、閃光が発せられたと思うと、目の前に、エフワンのスポーツカーに不思議な装飾がされた感じの車が出て来た。

「わあ! 初めて近くで見ました~」

「じゃあ、助手席にどうぞ」

 マジックエナジーカーにルカが近づくと、「助手席の乗る」というアイコンが出て来た。琉歌がそれをクリックすると、次の瞬間には、マジックエナジーカーの助手席に乗っていた。運転席には、既にナランが乗って、ハンドルを握っていた。

 琉歌は、自分が大好きなゲームの中で、アバター「ルカ」に既になりきっていた。マジックエナジーカーに試乗させてもらって、そのことに舞い上がっていた。

「じゃあ、行きますよ」

 ナランがマジックエナジーカーを発車させた。

 斜め上空からマジックエナジーカーを見下ろすような俯瞰視点の画面で、疾走するマジックエナジーカーの位置は固定されていて、中世ヨーロッパ風の田園風景がすごい勢いで後ろに流れていた。

 前方に街が見えてきた。

 門をくぐって街中に入ると、ナランはスピードを落とした。

 平日の昼間で、夜や休日よりはプレイヤーは多くないが、ある程度は人通りがあり、また、石畳の道もそれほど広くはないことからか、ナランもゆっくりとマジックエナジーカーを走らせた。

 イルヤードの移動手段には、馬などの動物系が主流で、マジックエナジーカーのような機械系を乗り回しているアバターは少なく、ナランとルカは、街にいる人々の注目の的だった。

「何か、自分が偉くなったような気がしますよね~」

 琉歌も楽しげに言った。

 マジックエナジーカーは、街から出て、草原が広がる郊外にやって来た。

「じゃあ、スピードを上げますよ! 空も飛ぶので、琉歌さん、落とされないようにしてくださいね」

 楢崎がそう言って、キーボードを操作すると、マジックエナジーカーは、一気に加速をして、何も遮るものがない大草原を走り抜けて行った。

 ときおり、車体から飛行機のような翼が出て、空も自由に飛んだ。

 ナランとルカの髪もムチのようになびいて、疾走感が感じられた。

「琉歌さん。これ、アバター視点で見ると、もっと、迫力ですよ。『G』キーを押してみてください」

「これですか~?」

 琉歌が「G」キーを押すと、マジックエナジーカーに乗っているアバター「ルカ」の視点に切り替わった。

 前から風が吹いてきているような画面効果エフェクトが強調されて、本当に自分達が車に乗っているような感覚にさせられてきた。

 それとともに、琉歌は、その光景が実際のものに感じられてきて、次第に怖くなってきた。

「停めて~」

 画面を直視できなくなってきて、うつむき加減になった琉歌が、小さな声で呟いたが、楢崎には聞こえなかったようだ。

「停めて~!」

 琉歌は、大きな声で叫んだ。

 

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