Act.143:後戻りできないから
玲音は、椅子から立ち上がって、楢崎に頭を下げた。
「楢崎さん。いろいろとご迷惑を掛けて申し訳ないです」
「い、いえ。でも、琉歌さんにそんな過去があったなんて、僕だけではなくて、皆さんもご存じなかったんですよね?」
楢崎に奏がうなずいた。
「誰にでも話せることじゃないですよね。玲音もずっと、自分の心にしまっていたんでしょ?」
「まあな」
「もう! 榊原さんの時にも言ったけど、何で相談してくれなかったのよ! って、怒りたいところだけど、私達が相談されてもどうこうできる問題じゃないわね」
「……ありがとう、奏」
玲音が上目遣いで奏を見て、儚い笑みを見せた。
「実は、楢崎さんは、琉歌の恋人だった直人に似てるんだ。その楢崎さんに琉歌も拒絶反応は起きなかったみたいで、楢崎さんとリアルでつきあっていくことで、忌まわしい琉歌の記憶がこのまま消え去ってくれないかと期待はしていたんだけど」
どうすれば良いのか、誰も分からずに、沈黙が居座った時、琉歌が再び身じろいだ。
そして、弱々しく目を開けて、横になったまま、辺りを見渡した。
「琉歌、起きたか?」
すぐに枕元の丸椅子に座った玲音が微笑みながら、琉歌に優しい声を掛けた。
「うん。……どうして、みんながいるの~?」
「楢崎さんとデートしてる時、気を失ったらしいんだ」
玲音の言葉で、琉歌の脳裏に秋葉原での交通事故のシーンが蘇ったのだろう。
「やだぁ!」
琉歌は、そう叫んで、布団を頭にかぶった。
「琉歌!」
玲音がその布団の上から、琉歌の上半身を抱え込むようにした。
「大丈夫! 大丈夫だよ! 大丈夫だから……」
赤ん坊をあやすみたいに、布団の上から琉歌の体をポンポンと軽く叩く玲音を、詩織達は言葉を掛けることもできずに、ただ見つめることしかできなかった。
もう少し琉歌の気持ちが落ちついてから一緒に帰るからと玲音に言われ、大勢でいない方が良いだろうと、詩織、奏、そして楢崎は、琉歌の病室をあとにした。
「楢崎さんでしたっけ? いろいろとあって、ご挨拶が遅れましたけど、初めまして。琉歌ちゃんと同じバンドをしてます藤井と申します。こっちも同じバンドの桐野です」
奏が詩織も併せて、自己紹介した。
楢崎も今まで同じ病室にいた詩織や奏のことを誰かと訊くこともしてなかったことを思い出したようで、焦って「楢崎と申します」と頭を下げた。
「私達も琉歌ちゃんの昔のことは、今日、初めて聞いて、すごくショックを受けているんですけど、楢崎さんもですよね?」
「はい」
「でも、琉歌ちゃんを嫌いにならないでください」
「私からもお願いします! 琉歌さんは、すごく優しくて、面白くて、そして素敵な人なんです!」
奏の言葉を受けて、詩織も精一杯、琉歌の応援をした。
まだ、ヴァーチャルでしかデートをしていないと言ったが、玲音が「恋人」だと言ったことを琉歌も否定しなかった。琉歌が楢崎に好意を抱いていることは確かなはずだ。
「琉歌さんにそんな悲しい過去があったからって、嫌いになるはずがありません。今日、初めて、リアルで琉歌さんと一緒にいて、僕も楽しくて、嬉しかったんです。僕もそんな琉歌さんの力になりたいです!」
楢崎の表情は真剣だった。
「お姉ちゃん」
「どうした?」
時間は午後十一時。
姉妹しかいない病室のベッドに横たわり、じっと天井を見つめていた琉歌が、枕元の丸椅子に座った玲音を呼んだ。
「もう大丈夫だよ~」
「……そうか」
「うん~。ごめんね~」
「気にするな」
「おシオちゃんと奏さん、それに楢崎さんにも心配掛けちゃったね~」
「ああ、アタシから謝っておいたから、それも心配するな」
「……うん」
「琉歌」
「何~?」
「水曜日のライブ、やっぱり、出演を辞退しようか?」
「え~! 何で~?」
琉歌が飛び起きるようにして上半身を起こした。
「ここ最近じゃ、アタシも見たことないくらいにショックを受けている気がするんだ。きっと、いつもの琉歌に戻るには、もう少し時間が掛かるんじゃないかなって思うんだよ」
「そ、そんなことはないよ~」
「今度のライブは、翔平のクビが掛かっているけど、アタシは中途半端な演奏しかできないのなら、いっそのこと、出ない方が良いって思ってる。それに、やっぱり、琉歌のことが心配なんだよ。ライブで思い切り演奏できなかったら、結局、苦しむのは琉歌なんだ。琉歌にそんな思いをさせたくない。もっと、気持ちを十分に落ちつかせてからで良いさ」
「お姉ちゃん」
「うん?」
思いの外、厳しい表情の琉歌に、玲音も妹を思う優しい顔つきを納めた。
「水曜日のライブは、プロになって初めてのライブだよね~?」
「ああ」
「お姉ちゃんの夢だったライブだよね~?」
「……ああ」
「ボクの夢でもあるんだよ~! 何もかも捨てたボクに、お姉ちゃんがくれた夢なんだよ~! 一緒に掴もうよって約束をした夢なんだよ~!」
「……分かってる」
「だったら~! ボクは出るからね~! ボクはいつもどおりに叩けるんだからね~!」
険しい表情で、じっと琉歌を見つめていた玲音は、「ふっ」と息を漏らすと、一旦、視線を下げてから、優しい顔つきに戻って、再び、琉歌を見つめた。
「分かった。出るか出ないかは、明日のスタジオリハで決める」
その日の零時近くに、詩織と奏のスマホに、玲音からラインのメッセージが入った。
クリスマスイブ・ライブへの出演は、明日のスタジオリハのでき次第で決めること、榊原にも琉歌のことを正直に話し、直前の出演辞退もあり得ると話したこと、榊原も「玲音とは運命をともにする」と腹をくくり、出演辞退することになったら、社長職を自ら辞することを明らかにしたこと、などが書き込まれていた。
すぐに奏から詩織に電話が掛かってきた。
「琉歌ちゃん、本当に大丈夫かな?」
「かなりのショックを受けられていたみたいですし」
「そうだよね。それにさ、玲音も心穏やかじゃないはずだよね? 榊原さんの進退が掛かっているんだからさ」
「ここは無理しないで、辞退をした方が良いような気がしますけど、きっと、今まで玲音さんと琉歌さんが話し合った結果なんでしょうね」
「そうだろうね。玲音と琉歌ちゃんが納得して辞退を決めるのなら、やっぱり、明日のスタジオリハの結果で決めるということになるわね。でも、私達があまり心配をしすぎると、かえって玲音と琉歌ちゃんにプレッシャーを掛ける気がするから、私達はいつもどおりでいましょう」
「はい」
そして、月曜日。
二学期末で学校は休みの朝。
詩織は、琉歌をその悩みから救う手立てはないかと、ずっと考えていたが、良い考えは浮かばなかった。
そこに、学校がなくて、詩織に会えなくて寂しいからと、瞳から電話が掛かってきた。
瞳と他愛のない話をしているだけで気持ちが晴れてきた詩織は、バンドメンバーとも交流がある瞳に琉歌のことを相談しようと考えた。
「琉歌さんにそんな辛い過去があったなんて……」
瞳も鼻声になっているのが分かった。
「バンドのこともありますけど、私は、琉歌さんを苦しめているトラウマから、琉歌さんを解き放してあげたいんです。でも、どうしたら良いのか分からなくて」
「病院には行ってるのかな?」
「玲音さんが言うには、いつもじゃなくて、車に乗っている時とか、ブレーキ音に反応して発作が起きるみたいで、普段の生活にはまったく支障はないから病院には行ってないし、琉歌さんを病人扱いするのは玲音さんもしたくないってことなんです」
「じゃあ、時間が解決してくれるのを待つってこと?」
「はい」
「でも、もう六年も経ってるのに、琉歌さんは、まだ悩まされているんだよね?」
「……そうですね」
「やっぱり、自分が二人を殺したんだっていう罪の意識から逃れられないんだろうね」
「罪の意識……ですか?」
「うん、父親と恋人に謝りたいけど、二人とももうこの世にいなくて、謝ろうにも謝ることができないから、ずっと苦しんでいるんじゃないかな?」
「でも、それじゃあ、琉歌さんは永遠に悩み続けなければいけませんよ」
「う、うん。そういうことになっちゃうのかな」
「……二人がもう琉歌さんを許しているって、そう思えれば良いんですよね?」
「それはそうだけど、その気持ちの切り替えは、具体的にどうすればできるのかは、全然、分からないや」
詩織の頭の中に楢崎の顔が浮かんだ。
楢崎は、琉歌の恋人だった直人に似ているそうだ。そんな男性が琉歌の前に現れたということは、神様が何かを企んでいるからではないのだろうか?
楢崎なら、琉歌の悩みを打ち破ってくれるのではないだろうか?
しかし、どうやって?
「詩織、大丈夫?」
詩織が考え事をして押し黙ってしまっていたので、瞳も心配になったのだろう。
「ご、ごめんなさい。考え事をしてて」
「うん。私も何かの本で読んだ気がするんだけど、トラウマはそれを克服することができないと何度も発症するんだって」
「そうみたいですね」
「本当は、そのトラウマになる体験を何度もさせて、本人にそれを打ち破らせるということが良いのかもしれないけど、事故の体験を何度もすることってできないしね」
「……ゲーム」
「えっ?」
「ゲームなら、何度も体験できますよね」
詩織に一つの考えが浮かんだ。
もっともそれが、本当に琉歌のトラウマを打ち破る手段となるのか、詩織には分からなかった。
しかし、明後日のライブは、メンバー全員が持ち望んでいたプロ初仕事、そして、それには榊原の進退も掛かっている大事なライブだ。
それを成功させるには、そして何よりも琉歌が普段どおりにドラムを叩けるためには、他に選ぶべき道は残されていない気がした。




