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Act.137:許されない関係

 榊原さかきばらの厚い胸板を枕にして眠っていた玲音れおが目覚めた時、榊原はまだ眠っていた。

 榊原を起こさないように、ゆっくりと体を起こしてベッドから降りると、床に落ちていた榊原のワイシャツを裸の上にまとった。

 こうやって、榊原の家で朝を迎えるのも何度目だったか忘れるほどになった。

 榊原は、妻との離婚協議中で、目白にある自宅から出て、学生時代を謳歌した思い入れのある池袋で一人暮らしを始めていた。そして、玲音はバンドのスタジオリハや買い物などで池袋に来る時には、榊原の部屋に泊まるようになっていた。

 榊原は、「もう妻とは元どおりにはなれない」と言っているが、まだ、離婚の話がまとまっていないのは、一人娘との面会回数と妻に対する慰謝料の額についてのようだ。

 妻からは莫大な金額を要求されていた。もちろん、会社社長の榊原に払えない金額ではないが、まだ、榊原の個人経営に毛が生えた程度の規模でしかないエンジェルフォールのこれからの成長のためには、榊原の個人的債務であっても、できるだけ支出を増やしたくなかった。

 そして、まだ、離婚成立前であるにもかかわらず、榊原が玲音とこういう関係になっていることが分かれば、妻側はさらに強硬な意見を言ってくるかもしれない。

 榊原と玲音は、芸能音楽事務所の社長とそこに所属するアーティストという間柄で、しかも、クレッシェンド・ガーリー・スタイルはデビュー前だ。そのデビューは玲音の枕営業のお陰なのかと、同じ所属アーティストから邪推されるかもしれないし、所属アーティストに手をつけたことになる榊原の社長としての地位も危うくなりかねない。

 玲音と榊原との関係は、まだ、知られたらいけない関係だ。

 玲音も、バンドのメンバーとともに榊原と会う時は、その関係を悟られないようにするため、できるだけ気をつけるようにしている。

 何より、かなでからは「不倫はするな!」と釘を刺されている。実質的に夫婦関係が破綻しているのだから不倫ではないという言い訳もできるだろうが、まだ離婚が成立していない男性と、こうやって、あらぬ仲になってしまっていることは事実なのだ。

 玲音は、キッチンに立って、榊原が目覚めた時に備えて、簡単な朝食の準備をした。冷蔵庫からハムとチーズ、レタスなどを取り出し、サンドウィッチを作り、ブロッコリー入りのコンソメスープは温め直したら良いだけのところまで準備した。

 再び、ベッドに戻ると、榊原の寝顔を見つめた。

 玲音は、自分の心を落ちつかせてくれる男とは今まで出会わなかった。そのことで、自分は恋愛ができるのだろうかという焦りもあった。

 街でイケてる男を逆ナンしてはベッドに誘ったが、朝の光は、どの男も薄っぺらく見せてしまった。

 しかし、榊原は、玲音がバイトをしていたコンビニでチンピラを追い払ってくれた時の第一印象もあり、また、自分の仕事に対して、熱い情熱を持って取り組んでいることも伝わってきた。

 榊原は、玲音が今まで出会った男どもとは一線を画していた。

 そして、プロミュージシャンになりたいという玲音の夢を叶えてくれた榊原は、ずっと近くにいて、一緒に夢を追い掛けたいと思う男性だった。

 玲音は、榊原の寝顔にキスをした。

 少し身じろいで、榊原は目を開けた。

「ああ、ごめん。起こしちゃった?」

「玲音のキスで起こされたのだから、最高の目覚めだよ」

「ふふっ、おはよう」

 そう言って、榊原に寄り添うように寝転んだ玲音が、榊原に軽くキスをした。

「おはよう。朝御飯を作っていたのかい?」

「どうして分かったの?」

「サンドウィッチの良い匂いがしてるからだよ」

「サンドウィッチの匂い? 鼻が良すぎだよ」

「腹が空いているからかな?」

「食べる?」

「ああ」

 ベッドから起きた榊原は、パンツとズボンだけを履いて、食卓に座ると、ワイシャツだけを羽織ってキッチンに立った玲音の後ろ姿を、じっと眺めていたが、立ち上がると、後ろから玲音を抱きしめた。

「しょ、翔平しょうへい! 危ないって!」

 榊原はスープを温めていたガスコンロの火を片手で消すと、玲音の体を回転させて、自分と向き合わせた。

 そして、固く抱きしめた。

「玲音がいけないんだよ。そんな格好でいるから」

 榊原は、キッチンの床に、ゆっくりと玲音の体を横たえた。



 玲音が作った朝食を二人で食べ、榊原が淹れたコーヒーを飲んだ。

「ねえ、翔平」

「うん?」

「ま、まあ、アタシはこのままでも良いんだけど、いつまでも、みんなに隠し通せるもんでもないよね?」

「そうだな。離婚が成立したら、玲音とのことは、少なくとも、メンバーには知らせるようにしようか?」

「奏、怒るだろうな」

藤井ふじい先生が?」

 奏は、エンジェルフォール所属のアーティストであるが、山田楽器のピアノ講師もまだ続けていて、また、出会いの経緯からも、榊原は、他のメンバーと同じように「君付け」では呼ばずに、未だに「藤井先生」と呼んでいた。

「奏って、アタシと話を合わせて、ふざけてくれるけど、アタシなんかと違って、けっこう、真面目なんだよね。まだ、離婚していない翔平とアタシがこういう関係になっていると知ると、たぶん、怒るよ」

「そういえば、私と二人きりで会っているだけで、奥さんに対して申し訳ないと言っていたな」

「だろ? アタシも、奏に嫌われるのは、ちょっと、辛いかな」

「玲音は、藤井先生が好きなんだね?」

「アタシだけじゃないさ。おシオちゃんは言うに及ばずだし、誰彼と話ができない琉歌るかだって、奏と一緒になって冗談を言いあえるんだ。何か、奏とか、翔平に出会えたのは奇跡に近いって思うくらいだよ」

「そうか。……では、離婚をして、すぐではなく、少し時間を置いてから、メンバーに伝えるようにしようか?」

「うん、そっちが良いや」

 玲音が何気なく壁時計を見ると、午前八時になっていた。

「翔平、今日も仕事だよね?」

 榊原も玲音の視線の先の時計を見て、「そうだな。もう少し玲音と一緒にいたいけど、そろそろ行かないと」と本当に残念そうな顔をした。

「アタシもバイトがあるし、一緒に出るよ」



 詩織しおりは、奏のベッドで目を覚ました。

 昨夜も夜遅くまで、奏と一緒にベッドに寝転がって、いろいろな話をしていたが、いつの間にか眠ってしまったようだ。

 ワンルームで部屋続きの対面式キッチンを見ると、パジャマの上にカーデガンを羽織った奏が朝御飯の支度をしてくれていた。

 自分も手伝おうと、上半身を起こした詩織は、何となく目眩がしている気がした。

 それに体も少し怠い。

「おはよう、詩織ちゃん!」

 顔を上げた奏が、キッチンから声を掛けてくれた。

「お、おはようございます! すみません、私も手伝います」

「良いわよ。……あらっ」

 詩織の顔を凝視していた奏が、ツカツカとベッドに近づいて来た。

「詩織ちゃん、顔が赤いわよ」

「えっ、そ、そうですか?」

 逃げる暇もなく詩織の額に奏の手が置かれた。

「熱があるんじゃないの? 平熱じゃないみたいだけど」

「実は、ちょっと、体が怠くて」

「大変! ちょっと待ってて」

 奏がベッドの側に置いている細長い整理タンスの引き出しから体温計を取り出すと、「熱を測りなさい」と差し出した。

 詩織も母親のように心配してくれる奏に素直に従って、体温計をパジャマ代わりのスエットの首から脇に差し込んだ。すぐに「ピピピ」と音が鳴り、取り出した体温計をそのまま奏に渡した。

「三十六度八分かあ。これから上がるのかもしれないわね」

「だ、大丈夫だと思います。ちょっと怠いですけど、寝てたら」

「イブのライブを控えている大事な時期なんだから、駄目よ! 私、これから解熱剤と額に貼る冷却シートを買ってくるから、詩織ちゃんは大人しく寝てなさい」



 さすがに寝起きの姿のまま外出することもできず、さっと、着替えと髪のセットを済ませると、奏は外に出た。

 時間は、午前八時。

 詩織もそうだが、試験休み期間になっているはずの学生の姿は少なかったが、コートを着込んだサラリーマンやOLが多く歩いている、十二月の平日の朝の風景があった。

 奏も今日は仕事だが、楽器店の開店は午前十時なので、まだ、出勤までには時間はある。しかし、詩織の体調次第では、休暇をもらって、看病をしようと考えていた。

 まだドラッグストアは開店していない時間帯でもあり、とりあえず、自宅最寄りのコンビニに入ったが、奏が買おうと思っていた薬が置いてなかったことから、少し遠くにあるが、大きくて品揃えが豊富なコンビニに向かった。

 普段、そんなに早足で歩くことなどないのに、詩織の体調のことを思うと、自然と早足になった。

 目的のコンビニに到着した奏が入り口に向かうと、開いた自動ドアの向こうから、背の高いカップルが腕を組んで出て来た。

「えっ……」

 奏は、思わず、立ち尽くしてしまった。

 そのカップルも奏の顔を見て、同じく、固まったようにして動かなかった。

 腕を組み、楽しそうに笑いながら、コンビニを出て来たのは、玲音と榊原だった。

 

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