Act.136:溢れ出る感情に従って
瞳は、「ついでだから、駅まで送るよ」と、詩織と一緒に池袋駅に向かって歩きだした。
「ねえ、詩織」
「はい」
「人を好きになるって、けっこう、一瞬なんだね」
「はい?」
「今まで何とも思ってなかった奴がさ、ある日、突然、気になる存在になることってあるんだよね」
瞳は光のことを言っているのだろうと容易に分かったが、それをわざわざ指摘をするまでもないだろう。
「私は、まだ、そんな経験がなくて」
「きっと、詩織もそんな時が来ると思うよ」
「そうでしょうか?」
「うん」
歩みを止めずに、瞳が穏やかな表情で詩織を見つめた。
「だから、言いたいことは、お兄ちゃんを好きになるにしても、椎名さんを好きになるにしても、どっちがどっちだなんて、苦しみながら選ぶことなんてないってこと。いつか、詩織の中で、どちらかの存在が大きくなってくるんだ。何か、きっかけがあるのかもしれないし、きっかけらしきものは何もないのに、何となく、そういう気持ちになるのかもしれない」
今、詩織は、デビューに向けて、いろいろと大切な時期であることは間違いない。そんな時に、響に対する詩織の気持ちを問いただしたりして、詩織の心を波立たせてしまったのかもと、瞳も心配になったのもしれない。
「詩織はさあ、すごい感情を歌に込めることができるじゃない? ということは、もし、詩織が本気で、ある人を好きになったら、その人への感情も溢れるくらい出てくるんじゃないかな?」
「自分では、よく分からないですけど」
「そうだよ、きっと! だから、いつか溢れてくるであろう、その感情に素直に従えば良いと思うよ。それまでは、お兄ちゃんと椎名さんには停戦をしててもらえば良いよ」
二人の男性から告白をされてはいるが、自分のペースでそれを確かめていったら良いという瞳のアドバイスは、確かに、詩織の気持ちを落ちつかせた。
一旦、自宅に戻ってから、制服から私服に着替えて、再び、池袋に戻り、ビートジャムに着いた時には、もう、詩織は気持ちの切り替えができていた。
今日は、デビューアルバム収録曲選定会議で収録の可否が保留にされていたオリジナル曲「ひまわり」のアレンジを変えたバージョンを録音することにしていた。
三時間のスタジオリハの時間中、最後の一時間をレコーディング時間にしており、初めの二時間は、新アレンジの検討と練習の時間だが、メンバーはお互いにメールやラインでやり取りしながら、ある程度のアレンジはできていた。
「みんな、聞いてくれ」
セッティングをしながら、玲音がメンバーを見渡した。
「今日、竹内さんから連絡があって、クリスマスイブのライブ、アタシ達の出演が決定したんだって! 六バンドの合同で、ひとバンドの演奏時間は、入れ替え別で一時間。アタシらの出番は四番目だそうだ」
「いよいよ、プロとしての初仕事ということね」
「そういうことだな。ちなみにギャラは、ひとバンド二十万円だ」
今のメンバーにとって、二十万円というのは大金に違いなかった。
「二十万! ということは?」
社会人の奏が過敏に反応した。
「四人で均等割して、一人五万円なり」
「たった一時間の演奏で五万円かあ」
奏の月収の何割かがそれだけの時間で手に入るのだ。
今回の、クリスマスイブ・ライブは、これから人気が出るであろう、各事務所イチオシのアーティストが出演するイベントとして、いち早く人気のバンドをチェックしておきたい若者達にもお馴染みのイベントで、今回のチケットも既に完売となっていた。
「コンサートだけじゃなくて、CDが発売されるとその印税も入るし、要は自分達が頑張れば頑張るほど、そしてファンが付いてくれるほど、報酬が手に入る。逆もしかり。そんな世界に飛び込んで行くってことだ。でもさ」
メンバーが玲音に注目した。
「アタシは、観客に媚びを売るような曲作りはしたくないって思ってる。自分達が本当にやりたい音楽をして、それに共鳴してくれるファンがお金を払ってでもアタシらの演奏を聴きたい! おシオちゃんの歌を聴きたい! って言ってくれるのが最高だと思ってる」
「そういえば、『クレッシェンド・アイ・コンタクト』ができた時も、そんな議論があったわね」
奏が言う「議論」とは、「クレッシェンド・アイ・コンタクト」が完成した時、あまりにポップすぎないかという意見がメンバーからわき上がり、この曲をボツにするかどうかを話し合ったことだ。
言い出したのは、作曲をした玲音本人だった。
「クレッシェンド・アイ・コンタクト」は、好きな男の子と目が合うたびにドキドキしてしまう女の子の純粋な気持ちを詩織が可愛い歌詞に書き上げたもので、それに曲を付けたら「こんなになっちまった」と言った玲音は、「うちのオリジナル曲の中では浮いちゃわないか?」と、そもそもデビューアルバムに入れることに難色を示した。
これまでに作ったオリジナル曲の中にもポップな曲はあるが、その中でも「クレッシェンド・アイ・コンタクト」は、明らかにヒットを狙って作ったような、言うなれば、リスナーに媚びを売っているような感覚になってしまったそうだ。
「確かに、キューティーリンクが歌っても不自然ではないくらい可愛い曲ですけど、『可愛い』は、れっきとした女子のスタイルの一つだと思います」と反論したのは、既にアイドル時代の呪縛から解き放たれている詩織だった。
奏は、「私達はプロとして、この曲を作ったんだよ。ヒットを狙うのは当然じゃない。まあ、玲音のこだわりも分かるけど、評論家や他のアーティストがそんな悪口を言ってきたら、『じゃあ、あなた方も作れば良いじゃないですか!』って、言ってやれば良いのよ」と、詩織よりも過激に玲音に反論した。
琉歌も珍しく姉の考えに同調せず、「クレッシェンド・アイ・コンタクト」は、晴れてアルバム収録の候補曲として残った。
実際、詩織の学校の文化祭ライブで演奏した時の生徒達のノリノリの反応からして、その判断は正解だったと言わざるを得ないだろう。
ヒットを狙って、自分達がやりたくない曲をするのは嫌だという玲音の考えにメンバーも反対するものではなかった。ただ、「クレッシェンド・アイ・コンタクト」は、メンバーがやりたい曲だったのだ。
そんなやりとりを思い出していたかのように、遠くを見つめていた玲音が、真顔になって、メンバーを見渡した。
「話を元に戻すと、ライブのメニューは、ファーストアルバムに収録予定の曲からになるけど、『クレッシェンド・アイ・コンタクト』をラストに演奏すること以外は、曲目も構成も、アタシらが自由に考えて良いらしい」
「『ひまわり』も入れて良いんですか?」
「今日のテイクで、ゴーサインが出ればオッケイだろ」
「私、『ひまわり』をライブで歌ってみたいです」
詩織が作詞、玲音が作曲したオリジナル曲「ひまわり」は、昔の自分を隠すことにこだわりすぎていた詩織が、周りの人々の優しい心に触れて感じた、自分の情けなさや悔しさを歌詞にしたもので、「クレッシェンド・アイ・コンタクト」とは対照的に、これまで詩織が書いた歌詞の中でもダントツに暗い歌詞だったが、それだけに、詩織は、この曲へのこだわりがあり、ライブで歌ってみたいと思っていた。
クレッシェンド・ガーリー・スタイルのメインボーカル「おシオ」は、元超人気アイドルの桜井瑞希だと、もう、知れ渡ってしまっている。そのおシオが「ひまわり」をステージで歌うことは、まさしく、過去の清算の一つになるだろう。
「じゃあ、早速、やってみるか?」
「はい!」
事前に打ち合わせていたアレンジで演奏してみた。
それまでのマイナーなバラードから、メジャーでポップな曲調にアレンジし直したバージョンだ。
暗い歌詞を明るい曲調で歌うのだから、自虐的な雰囲気にも取れるが、逆に、それを戒めとした前向きな曲に変身していた。
「意外とイケそうだな」
曲が終わると、玲音が呟いた。
「おシオちゃん、どうだった?」
「はい。私も有りだと思いました」
「そうだよな。やっぱり、自分達だけじゃ、分からないことってあるんだな」
「そうね。このアイデアを出してくれた松下さんという専務さんは、音楽的に懐が深そうね」
「何でも榊原さんの右腕らしいぜ」
「そんな感じね。従兄弟だって言ってたけど、榊原さんよりは、良い音楽的センスを持ってそうだよね」
「あはは、榊原さん、今頃、くしゃみしてるぜ」
新アレンジも決まり、録音も無事終えたメンバーは、その日も奏屋に集まった。
いつもどおり、零時前に飲み会を終えると、明日から試験休みに入る詩織は、奏の家に泊まることにした。
その詩織と奏に見送られながら、奏の家を出た琉歌に、玲音が声を掛けた。
「琉歌」
「何~?」
「この音源を早く榊原さんに渡したいから、琉歌は先に帰ってな」
「これから榊原さんに会うの~?」
「ああ」
「でも、電車、なくなっちゃうよ~」
「榊原さんと朝まで飲んでるよ」
「そうなの~?」
「ああ! 帰りに明日の朝飯を買っていけ」
「分かった~。じゃあね~」
「おう!」
姉が朝まで飲み続けることは珍しいことではない。
琉歌も玲音の心配をすることなく、一人で池袋駅に向かった。




