Act.135:これからのこと
すぐ近くに響がいた。
近くで見るその顔は、ギリシャ彫刻のように整っていた。
「また、一つ、自分の願望が叶いました」
「はい?」
「こうやって、好きな女性と並んで座って、話をすることです」
さらりと「好きな女性」と言われて、詩織は恥ずかしくなってしまった。
「どんどんと要求をエスカレートさせて申し訳ありません」
響が照れくさそうに頭を下げた。
「い、いえ。これくらいなら」
「先ほど、詩織さんの手も初めて握らせてもらいましたが、意外に手が小さい方だなと思いました。ギターをしていらっしゃるから、それなりに手が大きな方かと勝手に想像していたのですが」
「自分では、手の大きさとギターはそれほど関係ないのかなって思っていますけど」
「そうなんですね」
響が自嘲気味に微笑んだ。
「すみません。自分でも自分の発言が変態ぽいなって呆れてしまって」
「そ、そんなこと、ありませんよ」
しばらく穏やかな笑顔を見せていた響が姿勢を正した。
「詩織さん」
「はい」
「瞳のこと、ありがとうございました」
「はい?」
「以前、瞳を『桜小路響の妹から解き放してほしい』とお願いをさせていただきましたが、瞳は、最近、梅田君の話をよくするんです。今まで、男性の話なんてすることがなかったですから、もしかしてと、期待はしているのですが」
「私もお二人はお似合いじゃないかなって思っています」
「詩織さんは、この前も瞳を遊園地に連れ出してくれて、梅田君と会わせていただいたのですよね?」
「はい。でも、私がしたことはそれだけです。瞳さんと梅田さんの仲は、まだ、何でも言いあえる友達といったところですけど、きっと、もっと仲良くなれるのではないかと思っています」
「とにかく、瞳が僕から旅立ってくれる未来が少しは見えてきて、安心しました」
「瞳さんが、響さんから旅立つ未来ですか?」
「ええ。例えば、誰かの奥さんになるとか、僕と同じ小説を書くこと以外で、自分が熱中できる何かを見つけるとか。とにかく、小説家桜小路響の妹から抜け出して、この家からも旅立つ未来です」
「でも、瞳さんは響さんのことが心配で、この家から出て行くことはないんじゃないでしょうか?」
「瞳が大学を卒業したら追い出すつもりでいますよ」
「で、でも、そうしたら、響さんは一人になってしまいますよ」
「そうですね。確かに今、僕が一人でもこの家で生活できているのは、瞳がいろいろと段取ってくれていたり、準備をしてくれているからですが、それは、瞳でなければできないことではありません。家政婦さんやヘルパーさんにお願いしてやってもらうこともできます」
「それはそうですけど」
「自分の名前は、僕の目の代わりを務めるという宿命を背負っている証なんだと、瞳は言い張っていますが、瞳は僕の世話をするために生まれてきたのではありません」
――私は桜小路響の瞳だから!
瞳と初めて話をした時、瞳は詩織にそう言い切った。
これまで何度かこの家にお邪魔した詩織は、瞳が献身的に響の世話を焼いていることを見てきた。
料理、掃除、洗濯の家事全般はもとより、出版社の担当者が来ていない時には、響が口述した内容の文字起こしをしたり、朗読推敲の手伝いもしているようだ。
その一方で、自分でも小説を書き、学校でも、三年生の一学期までは、「桜小路響私設ファンクラブ」などと陰口を叩かれながらも、部長として文芸部を引っ張ってきていた。
そんな瞳のバイタリティには、詩織も脱帽するしかなかった。
「それに、瞳がここにいると、僕も瞳に甘えてしまいたくなります。だから、否応なく、瞳にはここから出て行ってもらいます。瞳には瞳の幸せを掴み取ってほしいですから」
「そのことは瞳さんには?」
「もちろん、いつも言っていますよ。もっとも、瞳が、もし、この春に大学に受かったとしても、まだ、四年以上先ですし、本人もまだ、それほど深刻には考えていないようです。ひょっとしたら、梅田君のことで、少し考えが変わってきているのかもしれないですけどね」
これまで、瞳は兄大好き人間であって、それは今も変わっていないが、響しか見えてなかった「瞳」には、「光」が見えるようになっているのかもしれない。
玄関のドアが開く音がして、瞳がリビングに入って来た。
「あれえ。お兄ちゃん、もう執筆、終わったの?」
「うん。今日も快調だったよ」
「それで、詩織に隣に座ってもらっているの?」
「そうだよ。自分へのご褒美ってところかな」
嬉しそうに笑う瞳に、響も照れたように笑った。
瞳が入れてくれた紅茶を飲みながら、しばらく、響と瞳と談笑した詩織は、夜にはスタジオリハがあることから、夕食前には響の家からおいとますることにした。
「詩織、下まで送るよ」
結局、制服から着替えなかった瞳は、同じく制服姿の詩織とともにエレベーターに乗った。
「ねえ、詩織。お兄ちゃんとどんな話をしてたの?」
「えっと……」
「ふふふ」
「な、何ですか?」
「詩織がそうやって言葉に詰まるということは、私のことかな?」
「……」
「相変わらず、分かりやすい」
瞳が笑いをかみ殺しながら言った。
「あ、あの、瞳さんが大学を卒業したら、ここから追い出すということを、響さんから聞きました」
「何だ、その話かあ」
「えっ?」
「ああ、何でもない」
瞳は、光の話をされていたと考えていたのかもしれない。自分の将来の話と分かって、少し安心しているようだった。
エレベーターが一階に着いたが、豪華ホテルのようなロビーで、詩織と瞳は立ち話を続けた。
「瞳さんは、大学を卒業された後、どうされるんですか?」
「まだ、先のことだし、そんなに真剣に考えたことはないや」
「そうなんですか」
瞳は、いつもの悪戯っ子ぽい表情を引っ込めて、真剣な表情で詩織を見た。
「ねえ、詩織」
「はい?」
「詩織は、お兄ちゃんのこと、どう思ってるの?」
「ど、どうって……」
「バースディパーティに来ていた椎名さんという人も詩織のことが好きなんだってね?」
「あ、あの、そう言われましたけど、響さんと椎名さんは停戦協定を結んだって言ってました」
「うん、私も聞いたよ。でも、詩織の正直な気持ちはどうなの? お兄ちゃんと椎名さんのどっちが好きなの?」
「今は、バンドのことで頭がいっぱいで、そんなこと、考えたことないです。私のそんな気持ちを分かっていただいたからこそ、お二人は停戦協定を結ばれたのだと思います」
「……そっか。分かった。でもね、詩織」
「はい」
「お兄ちゃんは、本当に詩織のことが大好きなんだよ」
「……」
「でも、だからこそ、お兄ちゃんはすごく悩んでいるんだ」
「えっ?」
「お兄ちゃんとしては、詩織にいつも側にいてほしいけど、詩織の性格から言って、お兄ちゃんの側にいると、きっと、お兄ちゃんのことを放っておけないと思うんだ。それは、つまり、今、私がやっていることを詩織にやらせるってことでしょ? そんなことは詩織にさせられないって言ってるんだ」
「そんなことって!」
瞳が毎日している響の世話を、瞳自らが「そんなこと」呼ばわりしたことに、詩織は、なぜか腹が立った。
「そんなことだよ。だって、詩織は、その声で、その歌で、みんなを幸せにしてあげるためにいるんだよ。お兄ちゃんの世話をするために、詩織はいる訳じゃないから」
「でも、それは、瞳さんにだって言えるのではないんですか?」
「ううん。私はお兄ちゃんの世話をずっと続けるよ。だって、お兄ちゃんと私はこの世で二人きりの兄妹なんだよ」
「……!」
「もちろん、将来、私にも好きな人ができるかもしれない。その人とずっと一緒にいたいと思うかもしれない」
瞳の頬が紅潮していた。光のことを思いだしているのかもしれない。
「でも、その人と、こことは別の場所で暮らすようになっても、私はここに来られる場所に住む! そして、毎日、ここに来る! 毎日、お兄ちゃんの世話をしに、ここに来る! もし、詩織が、椎名さんじゃなく、お兄ちゃんを選んでくれたとしても、私がお兄ちゃんの世話をするから!」
「瞳さん……」
「そうなったら良いな。だって、お兄ちゃんの所に行けば、詩織にも会えるんだもん」
「……」
「ご、ごめん。今、私が言ったことは、飽くまで、私の個人的な願望にすぎないから」
本音をぽろりと言ってしまった瞳は焦っていたが、それは、それだけ響のことを考えているからだ。
それに引き替え、詩織は、周りの人のことを、どれだけ真剣に考えているのだろうかと、心が重くなった。
「……瞳さん」
「うん?」
「響さんからも、椎名さんからも告白されているのに、それに向き合っていない私って、やっぱり、酷いですよね?」
「ううん。そうは思わないよ」
「えっ?」
「だって、詩織は、こうだと決めたら、他のことには目もくれずに突っ走っていく人なんだって、さすがに、私もみんなも分かってるよ。今の詩織には、バンドのことしか見えてないこともね」
「瞳さん……」
「そんな詩織の性格も理解した上で、お兄ちゃんと椎名さんは、詩織のことが好きになってるんだよ。詩織は詩織の思うとおりに進んで行けば良いと思うよ」




