Act.129:恋人としてのステータス
奏が定食屋「馬場亜」に行った、その日の夜。
椎名から電話が掛かってきた。
山田楽器店のピアノレッスン室内で撮影することについて、楽器店の承諾を得られたということで、撮影の日を決めたいとのことだった。
レッスン予定表を見ながら、椎名と撮影スタッフの予定をすりあわせていった結果、二日後の水曜日、午後五時から六時までの一時間と決まった。
水曜日は奏の週休日だったが、奏の出勤日に椎名達の都合の良い時間帯がなく、それならと、奏が撮影の時間帯だけ出勤することにしたのだ。それに本来、週休日なので、その後にもレッスンの予定が入っておらず、もし、撮影の時間が押しても対応できるということも理由の一つだった。
そして水曜日。
「奏さん、今日はよろしくお願いします」
週休日ではあるが、ピアノ講師としての仕事着であるスカートスーツに身を包んだ奏がレッスン室で待っていると、椎名を含め四人の男性が店員に案内されて入って来た。
「こちらこそ」
「お休みの日にすみません」
「いえいえ、うちの会社も宣伝になるからと、レッスン料もいらないって言ってくれたみたいで良かったです」
「我々のような貧乏集団にはありがたかったですよ」
「浮いた分は、どうせ、椎名さん達の飲み代の一部になるんでしょ?」
「おそらく。ああ、それで、今日のスタッフを紹介しておきますね。彼がカメラマンの北村、こっちは音声担当の池田、こいつが照明担当の吉田です」
一人ずつ、椎名が示しながら紹介をしたが、あまり、お洒落には関心がなさそうな野暮ったい感じが抜けていない三人で、もし合コンでもすれば、椎名の引き立て役になることは間違いなさそうだった。
「じゃあ、奏さん。とりあえず、ピアノを演奏していてくれませんか? それを見ながら準備をしますので」
「分かりました」
奏がジャズ風にアレンジした「星に願いを」を演奏しだすと、まず、椎名と北村が小声で話しながら、三脚に立てた固定カメラの設置場所を決め、ハンディタイプの照明を持った吉田が光を照らす方向などを細かくチェックしながら、最終的に撮影方向を決めていった。
次いで、北村がハンディカメラを持って、奏とピアノの周りをいろいろと動いて、構図をチェックしている一方で、池田はピアノの上にマイクをセットして、ヘッドフォンで音声のチェックをしていた。
小さなモニターの画面を見ていた椎名が、「よし! これで行こう」とスタッフに告げると、奏に近寄り、「ありがとうございました、奏さん。もう良いです」とストップを掛けた。
「撮影は、ピアノを弾く奏さんの手元だけですから、最初のPV撮影の時のように緊張することはないと思います。まあ、俺としては、奏さんにまじないを施すことができなくて、少し残念ですけどね」
「椎名さん。そんなこと言ってると、詩織ちゃんに嫌われるわよ」
「桐野なら、冗談だって分かってくれますよ」
「信用しているのね」
「ええ、奏さんもですけどね」
「それはどうも」
椎名の態度は、これまでと同じくクールで、奏に特別な感情を垣間見せることはなかった。
そんなこともあり、奏も今までどおり冷静に、椎名と接することができていた。
「じゃあ、本番、行きます!」
モニターを注視しながら椎名が言うと、スタッフ全員が身構えた。
「三、二、一、キュー!」
奏もその指示に従って「星に願いを」を弾き始めた。
ハンディカメラを持った北村が奏の近くまで来て、奏の手元をカメラに収めていたが、ここでも奏は冷静だった。バンドで何度もライブを経験して、誰かに見られながら演奏をすることへの耐性が、かなり強化されているのだろう。
当初の予定時間以内に、三テイクを撮影したが、どれも採用できるくらいの出来だと椎名もご満悦のようだった。
「良い感じに撮れました。奏さん、ありがとうございました」
「いえいえ、こんなことでよければ、いくらでも協力します」
「奏さん。この後、何か予定はありますか?」
「いえ、特に」
「良ければ、夕食がてら、打ち上げを兼ねて、我々と飲みに行きませんか? ギャラ代わりと言っては何ですが、会費は無料にさせていただきます」
「大丈夫なの?」
奏は、貧乏集団だと自認するスタッフを心配した。
「奏さんは、玲音みたいにザルのように飲まないでしょ?」
「玲音ほどじゃないけど似たようなものかもよ」
椎名達四人と一緒に池袋の繁華街に出ると、安さで有名な全国チェーンの居酒屋に入った。
広い畳の座敷を衝立で仕切っただけの部屋に案内されると、奏を真ん中に座らせて、その両脇に椎名と北村、その前に吉田と池田が座り、宴は始まった。
椎名以外は冴えない風貌だとはいえ、年下の若い男性に囲まれて、久しぶりにちやほやされた奏は、気分良く飲むことができた。
奏もかなり酔ってきたなと思った頃には、椎名以外の男性は、畳に横になったり、テーブルに突っ伏して寝入っていて、起きているのは、奏と椎名だけになっていた。
今日の撮影が思いの外、順調だったからか、椎名もかなり酔っているようだった。
「そういえば、椎名さん」
隣に座っていた椎名に、奏が話を振った。
「一昨日だったかな。馬場亜に寄らせてもらったの」
「そうなんですか」
「椎名さんの話もいろいろと聞かせてもらったわよ」
「馬場さん、変な話をしてませんでしたか?」
「椎名さんは自分が好きなことをやっていると寝食を忘れて熱中するから、馬場さんは、椎名さんの体が心配なんですって」
「そうですか。まあ、あんな婆さんでも俺の体を心配してくれるのは嬉しいですね」
「私だってそうだよ」
「奏さんも心配してくれるんですか?」
「当たり前じゃない!」
クールな椎名が少し嬉しそうな顔をしたのが分かった。
「まだ若いから多少の無理はきくんだろうけど、そんなことを続けてたら、体を壊しちゃうわよ」
「自分の夢も叶えられないうちに死にたくはないですね」
「そうでしょ? 計画的に、毎日、少しずつでも作業を割り振りながら作っていくことってできないの?」
「俺には無理ですね。アイデアが浮かばない時は何日も浮かばないで、やる気も起きないんですよ。だから、普通の会社勤めはできないと思っているんです」
「じゃあ、アイデアがずっと浮かばなかったら、どうするの?」
「ヒモ男専門の奏さんのお世話にでもなりましょうか?」
「ヒモ男はね、つきあっている間、私に夢を見させてくれたんだよ。椎名さんはどんな夢を見せてくれるの?」
自分でそう問い掛けてから、奏は、今まで出会ったヒモ男どもよりもはるかにイケメンな椎名であれば、隣にいるだけで夢を見させてくれるのではないかと思い直した。
「何もないですね」
しかし、椎名は、自分がイケメンだということを自分からは絶対に言わないし、そう思っていないことも、その言動から明らかだった。
「それは、私にはってことだよね? じゃあ、詩織ちゃんには?」
「えっ?」
「だから、椎名さんは、詩織ちゃんにはどんな夢を見せてあげられるの?」
奏は、椎名が馬場に言った「叶わぬ恋」ということを確かめたくなった。
「……何もないです」
「今じゃなくて、将来、椎名さんが自身の夢を実現させた後の話だよ」
「……奏さん、話を聞いてもらって良いですか?」
「うん」
あぐらをかいた椎名が少し奏に体を向けたのを見て、奏も椎名を真正面から見るように、正座したまま、体を椎名に向けた。
「この前、桐野のバースディパーティで、桜小路響とは停戦協定を結びました」
「聞いてる」
「でも、俺は、もう、心の中では、彼に白旗を揚げているんです」
「どうして?」
「格が違うと思ったんです」
「格?」
「ええ。もともとは超人気アイドル。今は、まだ、デビュー前だが、必ず、みんなの心を鷲掴みにすることができるはずのボーカリスト。桐野は人を魅了する天性の才能と魅力を持っているとしか思えない」
「私もそう思う」
「俺は、そんな桐野と、たまたま、同じバイト仲間であるだけの、しがない学生だ。一方、桜小路響は、最新刊が再び評判になっていることからいうと、創造的な才能が溢れていると言わざるを得ない。桐野とインスピレーションを刺激しあえるのは、桜小路響であって、俺じゃないってことは確かです」
「……」
「実際に彼と会って、桐野と同じように、純粋で、前向きで、それでいて強い意志を持っていることも分かりました。それに比べて、俺は、とても純粋とは言えないひねくれ者だ。桐野にふさわしいのは俺じゃない。彼だ。そう思ったんです」
奏が考えていたとおりだった。
もっとも、椎名が言ったことは奏も感じたことだ。
詩織のバースディパーティで、奏も響とじっくりと話をさせてもらったが、その美形な容姿だけではなく、その心も清らかで、男性としては珍しいくらい純粋なのは感じたし、障害に負けずに大成できていることは、椎名が言うとおり、強い意志を持っていることの証だ。
確かに、ステータス的に、詩織にふさわしいのは響であろう。
しかし、結婚するのであればまだしも、恋愛の相手にステータスを求める必要はないと、既に「結婚」の二文字から解き放たれている奏は、判官贔屓ではないが、目の前にいる椎名を応援したくなった。
「でも、椎名さん! あなただって、フレッシュの写真を差し替えさせたように、詩織ちゃんを守ってるじゃない! 詩織ちゃんを思う気持ちは桜小路先生にも負けていないんじゃないの?」
「自分では、そのつもりです」
「だったら、椎名さんだって、詩織ちゃんの相手として、ふさわしくないってことはないと思うけど?」
「奏さんが言ってくれていることは、俺的にはすごく嬉しいことですが……」
「ですが?」
「フレッシュの件でも、結局は、父親の力を借りただけで、俺自身が何かをした訳ではない。しかし、桜小路響は、自らの能力と努力とで障害を克服して、今の地位と名声を得ている。俺は、どこをどう取っても桜小路響には敵わないんだ」
どこか、拗ねたように話す椎名に、奏も少し苛ついてきた。
「……」
「桐野は、また、スターダムにのし上がる。それは間違いない。そんな桐野の相手が俺のようなぐうたら男で良いはずがない」
「……」
「相手を思いやる気持ちの強さだけでは、相手を幸せにしてやれるとは限らない。だから」
ぺしっ!
「いい加減にしなさい!」
奏の平手が椎名の頭を直撃した。もちろん、軽く叩いただけだ。
「ぐだぐだぐだぐだ、女の腐ったのみたいに愚痴ってるんじゃないわよ! 椎名さん、あなたねえ、下向きすぎよ!」
「……」
「私がそうだったから、もう、歯がゆくてたまらないのよ!」
「奏さん……」
「私に、ぶーたれる暇があるんなら、死にものぐるいで映像作品を作りなさいよ!」
「……奏さん、さっきと言ってることが違ってないですか?」
「死なない程度に死にものぐるいになりなさいってことよ!」
「酔っ払ってます?」
「酔ってるわよ。悪い?」
「い、いえ」
酔いが急に回ったかのような奏の迫力に、椎名もたじたじになっていた。




