Act.128:歳を取るということ
暦が十二月に入った最初の日。
その広告は唐突に行われた。
有力新聞の一面全部を使って、「不思議の国の新たなラブストーリーが始まる!」と大きく掲げられた下には、ファンタジックな世界が描かれたイラストが描かれていて、最下段には、「深き森の国」というタイトルと「本日発売!」という文句が大きく印刷されていた。
新刊書籍の広告なのだが、その中には作者の表示が一切なかった。
そして、その日、一斉に書店の店頭に並べられたその新刊を手にした者は驚いた。
作者は、桜小路響。
しかし、これまでの響の作品には見られなかった、アニメチックなイラストが表紙や挿絵に描かれ、まるでラノベのような体裁であった。
発売当初には、「前作の失敗で、いよいよ、盲目の作家の安売りが始まった」という書評がされたが、読みやすい文章や明確な世界観、アドヴェンチャー・ラブストーリーと銘打たれたワクワクするような展開、そしてイラスト効果もあり、中高生にもファン層が広がり、「深き森の国」は、あっという間に初版を売り切り、重版を重ねることになった。その勢いからすると、「恋人たちの風」を凌ぐ売り上げは確実と思われ、その結果に書評も沈黙せざるを得なかった。
響の新作が発売された、その日。
午後二時頃に一時間ほどのレッスンの合間ができた奏は、以前、椎名に教えてもらった定食屋「馬場亜」に行ってみた。
お昼のピークは過ぎていたからか、奏が店に入ると、数えるほどしか客はいなかった。
「いらっしゃい」
カウンターの中にいた店主の馬場が人懐っこい笑顔で出迎えてくれた。
「こんにちは」
「ちょっと前に、椎名と一緒に来たピアノの先生だよね?」
「はい。憶えていただいていたんですね」
「まだ、ボケるような年齢じゃないんでね」
「す、すみません。そう意味ではなかったんですが」
「ははは。好きな所に座りな」
奏が馬場を正面に見るカウンター席に座ると、すぐに暖かいお茶が入れられた大きな湯飲みが出て来た。
奏は、カウンターの中のキッチンで、馬場亜の唯一のメニューである日替わり定食を作り始めた馬場を見つめた。仕込みはできているとしても、奏も感心するほどの手際の良さで、五分ほどで、揚げたてのおからコロッケをメインとする定食が出て来た。
「いただきます」
「どうぞ」
早速、コロッケに箸をつけてみたが、思わず唸ってしまうほどの美味しい味付けだった。
「この、おからはどんな下味を付けているんですか?」
「企業秘密だよ」と笑った馬場は、「えっと、まだ名前を訊いてなかったねえ」と奏を見た。
「藤井と申します」
「藤井さんか。なかなか、可愛い人だねえ」
「あ、ありがとうございます」
久しぶりに「可愛い」と、しかも同性から言われて、嬉しかった反面、照れくさかった奏だった。
「幾つなんだい?」
「二十八です」
「一番、脂が乗っている頃じゃないか」
「そ、そうでしょうか?」
「女の旬はさ、二十代後半から三十代というのが持論さ」
「あ、あの、失礼ですけど、馬場さんはお幾つなんですか?」
「アタシは六十三、あれっ、もう、六十四になってたかな?」
確かに、髪は真っ白で、顔にもしわが刻まれているが、バンダナを巻いて作務衣を着ている格好からも、とてもそんな年齢とは思えなかった。
「もう、ババアさ」
「そんなことありませんよ」
奏は、馬場を庇うように言ったが、馬場は、奏の言葉を振り払うように手を振った。
「藤井さん。ババアってのを、女のなれの果てとでも思っているのかい?」
「そ、そういう訳では」
「さっき、女の旬は二十歳後半から三十代とは言ったけど、じゃあ、四十以上になると、あとは枯れるだけなんてことはないからね。確かに肌の艶や張りはなくなって、しわが目立つようになる。だけどさ、このしわの一つ一つが、これまで歩んできた人生で獲得した勲章なんだよ」
「勲章……ですか?」
「ああ、そうさ。だから、しわだらけのババアてのはね、女の最終進化形なのさ」
歳を取ることで失うものも多いが、知識であったり、技能であったり、経験を積むことで得られることも多い。「お婆ちゃんの知恵袋」という言葉もあるくらいだ。
「女は、最後まで進化するということですか?」
「そうさ。定年で燃え尽きちまって、家でブラブラするしか能がない、只のゴミになる男どもとは違うのさ。藤井さんも立派なババアになりなよ」
歳を取ること。それは誰だって避けることはできないはずなのに、三十路までのカウントダウンが始まると、奏は意味もなく焦りを感じ始めていた。
今は、バンドのことで頭が一杯で、そんな焦りは感じなくなったが、もし、詩織と出会ってなくても、馬場と出会っていれば、根本的な気持ちの切り替えができていたかもしれない。
「はい! 私も立派なババアを目指します!」
嬉しそうに笑った馬場だったが、何かを思い出したかのような顔になって、「そういえば」と奏に問いかけた。
「椎名とは、どこで知り合ったんだい? 自分の映画に出ないかと、街で声でも掛けられたのかい?」
「椎名さんは、私と同じバンドをしている子のバイト仲間で、その子を通じて知り合いました」
「ああ、カサブランカの?」
「はい」
「へえ~。じゃあ、藤井さんも、近々、プロデビューするんだね?」
「それもご存じなんですか?」
「椎名は、何でもベラベラとしゃべってくれるからねえ」
それほど話し好きとは思えない椎名が、馬場には、いろいろと話をしているのが不思議だった。
「椎名さんは、ここに来だして長いんですか?」
「ここは、昔から帝都芸大の学生が池袋に遊びに来たついでに、よく寄ってくれててね。椎名も映研の先輩に連れられて来たのが最初だったよ。椎名の奴、高校を卒業したばかりのガキんちょだったくせに、その頃から今と同じような態度でさ。生意気な新入生だって、先輩から叱られていたけど、まったく意に介してなかったから、記憶に残っているのさ」
「椎名さんらしいですね」
「ああ。椎名は、その頃から、全然、変わってないよ」
良くも悪くも、椎名の態度がぶれないのは筋金入りのようだ。
「それからも、池袋に来る用事がある時には、ちょくちょく寄ってくれていてね」
「椎名さんも、よほど、ここが気に入ったんですね」
「まあ、椎名もアタシの顔を見に来てるんだろうよ」
どや顔で言った馬場が可愛いと思った奏だった。
「アタシも椎名が可愛いって思うからね」
「馬場さんもですか?」
「ああ、ババアキラーだよ、あいつは。はははは」
ひとしきり笑ってから、馬場は奏を穏やかな顔で見つめた。
「でもさ。あいつは、見るからに危なっかしくて、心配でたまらないんだよ」
「危なっかしい?」
「そうさ。あいつは熱くなると周りが見えなくなるんだよ。飯も食わずに昼夜問わず、映画の編集をしたりして、自分の体を顧みないことも、再々、あるからねえ。ここにも死人のような顔をして来たことが何度もあったよ」
「私達のPVを撮ってくれた時も、体がボロボロになるまで集中していたらしいです」
「そうだろ? 椎名には、そんな時に、手綱を引くことができる人が側にいてあげるべきなんだよね。やりたいことに向かって一心不乱に突き進む、その熱意は大したもんだけど、今のままじゃ、早死にしちまうよ」
「確かに、そうかもしれませんね」
「藤井さんなんか、適任そうだけどね」
「わ、私がですか?」
「可愛いけど、意外としっかりしてそうだし」
「そ、そんなことはないです! それに、椎名さんには、今、好きな人がいて」
「さっき、話に出たカサブランカで一緒にバイトをしている女子高生だろ?」
「それもご存じなんですか?」
「もちろん。でも、叶わぬ恋だとも言っていたね」
「それはどうでしょうか? デビューが目前に迫っているので、確かに、今は恋どころではないと思います。でも、バンド活動が少し落ちついたら、椎名さんとの関係を見つめ直すと、その子も言ってますし」
「でも、女子高生ということは、椎名より年下だろ? アタシは、椎名には年上の彼女がふさわしいと思っているんだよね。さっきも言ったけど、椎名にブレーキを掛けさせることができるくらいには落ちついている人がさ。年下だと、椎名も言うことをきかないと思うんだよね」
「椎名さんをずっと見てきている馬場さんがおっしゃるんですから、そのとおりなのかもしれませんね」
「きっと、そうだよ。それで、年上だっていっても、アタシは上すぎるから、藤井さんくらいがちょうど良いかなと思ったんだよ」
「残念ながら、私は椎名さんの好みからは外れているみたいなので」
「そうかな? この前、一緒に来た時、椎名は、けっこう楽しそうに見えたんだけどね。だから、新しい彼女さんかと勘違いしたんだよ」
「そ、そうですか?」
「ああ。きっと、椎名は、その女子高生に夢中になっていて、藤井さんのことは恋愛の対象としては見ていないのかもしれないけど、藤井さんと一緒にいる時の居心地の良さを感じ取っているのかもしれないね」
「自分では、よく分からないです」
「アタシの直感でしかないけど、アタシの直感はよく当たるんだよ。でも、藤井さんに、もう彼氏さんがいるのなら、椎名の世話を焼いてくれなんて言えないよね」
「彼氏と呼べる男性はいないです。しばらく、男は良いかなって思ってて」
「酷い目にでも遭ったのかい?」
「あっ、はい。私、ヒモ男専門だなんて言われていて」
「はははは、そりゃあ良い」
大笑いする馬場だったが、奏を馬鹿にして笑っているようには思えなかった。
「バンドを始めるまでは、結婚に焦っていて、男を見る目が曇っていたんです」
「でも、藤井さんには、そんな男を惹き付けてしまう優しさが見え隠れしていたんだよ。だから、ヒモ男達も藤井さんに近づいて来たんだろうね」
「そうなんでしょうか?」
「きっとね」
話が一段落すると、馬場は、奏を見ながら「早く食べないと冷めてしまうよ」と優しい顔で言った。
話し込んでいて、箸が止まっていたのだ。
「あっ、すみません。馬場さんの話が面白くて」
「あははは」
再び、定食に箸を付けた奏に馬場が微笑んだ。
「藤井さんは、『すみません』とか『ごめんなさい』が口癖になってないかい?」
「そ、それは言われたことがあります」
「ヒモ男専門ってのは、本当みたいだね」
図星に、奏も苦笑を返すことしかできなかった。
定食を食べ終えて、「馬場亜」から出た奏は、楽器店に戻りながら、馬場から言われたことを思い返した。
椎名は、詩織のバースディパーティの席上、響と停戦協定を結んだと言っていた。つまり、詩織の恋人としての地位を、響とこれからも争うということだ。
しかし、今の馬場の話によると、椎名は、詩織とのことを「叶わぬ恋」と言っていたらしい。それだけ聞くと、椎名は既に詩織のことを諦めているように聞こえる。
停戦協定の相手は、人気作家の桜小路響だ。
詩織も元超人気アイドルで、ロックアーティストとして再び脚光を浴びる日も近いだろう。
恋する相手とライバルはともに、まだ、しがない学生にすぎない椎名にとって大きな存在であることは確かだ。
椎名は、本当に、詩織のことを諦めているのだろうか?
「もし、そうだとしても、じゃあ、私にってことにはならないよね」
椎名と初めて会った時、そのイケメンフェイスに心がざわめいたことは確かだ。
そして、椎名には、初めてのPV撮影の時にキスをされた。
それは、緊張している奏を「わざと怒らせて」、逆に平常心にさせるための「まじない」だった。飽くまで、PV撮影をスムーズに行うための手段であって、その時も、その後も、椎名が奏に好意を抱いているような言動は、まったく見せていない。椎名の頭のどこにも、奏は住んでいないはずだ。
「もう! 自意識過剰すぎ!」
奏は、両手で両頬をバシバシと叩き、椎名のことを頭から振り払った。




