Act.009:夢を守ってくれる人
その日の放課後。
詩織は、家の近くのコンビニに寄り、夕食のお弁当と明日の朝のパン、そしてジュースを買ってから家に帰った。
自炊をすれば食費をもっと安く抑えることができるのだが、これまでずっと音楽漬けの生活をしていて、料理はそれほど得意ではなかった。今の学校での家庭科の授業で習った料理ぐらいはやろうと思えばできたが、その時間がもったいなくて、その間に曲作りをしたり、ギターを弾いている方が、今の詩織にとっては、ずっと有意義な時間だった。
家に帰ると、いつも元気に出迎えてくれるペンタに挨拶をしてから、部屋着に着替えた。
玲音と琉歌に、バンド参加についての返事はもう少し待ってほしいとメールをしてから、ギターの練習をした。
一昨日までと違い、自宅での個人練習がそのままバンドでの演奏につながるようになったからか、意気込みが違っていることが自分でも分かった。
午後七時になると、お弁当を電子レンジで温めて食べた。そして、その時だけテレビを点けた。普段、テレビはほとんど見ずに、CDで好きな音楽を聴いているが、食事の時だと音楽に集中してしまって、箸を持つ手が止まってしまうからだ。
それ以外の時間でテレビを見るのは、自分の好きなアーティストが出演している歌番組を見る時くらいだったが、学校でテレビの話題についていけずに置き去りにならないのは、低俗なテレビ番組など見ないお嬢様が通う学校だからこそであろう。
お弁当をほとんど食べ終わった頃、スマホが鳴った。
待ちかねていた、父親からの電話だった。
「もしもし」
すぐに電話に出た詩織の耳元に、少し懐かしい父親の声が響いてきた。前回、父親がこの家に戻ってきたのは正月休みの時で、電話で話すのも一週間ぶりくらいだった。
「詩織、元気か?」
「うん」
「御飯は?」
「今、食べてる。お父さんは?」
「まだ、仕事中なんだ。ちょっと、休憩がてら電話をしてる」
「じゃあ、長くは話せないの?」
「詩織が気にすることじゃないよ。大丈夫だから」
「うん」
「メールを見たよ。一緒にやりたいバンドが見つかったんだって?」
「うん! メンバーはみんな女性で、すごく感じが良い人達なの。昔の私のことも知らないみたいで」
「しかし、これから親密なつき合いをしていく中で、きっと、ばれるだろう。その時も大丈夫だと思うのかい?」
「もし、ばれても大騒ぎするような人じゃないって思うし、そうなっても一緒にバンドができると思う」
「でも、そのバンドは、当然、プロになることを目指しているんだよね?」
「うん! その人達もプロを目指しているって言っていたし、私もプロになりたいって伝えた」
「もし、プロになれば、詩織の昔のことは隠しようがないよね?」
「桜井瑞希のバンド」などと言われて、名前だけが先行して注目されるのは嫌だった。
「だから、そんなことで名前を売りたくない! これから曲作りをして、音合わせを重ねて、バンドとして納得できる形になってからは、ライブハウスで定期的に演奏をして、とにかく音楽で認められて、名前を覚えていってもらいたいの」
「他のメンバーの人も同じ考えなのかい?」
「そ、それは、……そのはず」
「ちゃんとメンバーの人に確かめたのかい? 詩織がアイドルをやっていたなんて知ると、途端に態度が変わるかもしれないよ」
「最初はそうかもしれない。でも、私が嫌だっていうことをするような人達じゃないって思う。ううん、きっと、そう!」
玲音や琉歌だって、自分達のバンドが注目を集めることは大歓迎のはずで、昔の詩織のネームバリューを利用しようと考えることはあり得ることだ。
しかし、玲音や琉歌は、詩織がそれを望んでいないと言えば、詩織の考えを尊重してくれると詩織は信じていた。出会ったばかりの二人で、その性格とか人柄のすべてを知っているとはとても言えないのだが、詩織には、そう言い切れるだけの自信があった。
「詩織がそこまで言い切れるだけの人達なんだね?」
「うん! 初めて会ったとは思えないくらい話が弾んだの」
「確かに、バンドはメンバー同士の風通しが良くないと成立しない。そういう意味から言えば、そんなメンバーと出会えたことはすごく幸運なことだね」
「私もそう思う! 今の機会を逃したら、もう二度とこんなチャンスはやって来ない気がするの! それだけ運命的な出会いだと感じているの!」
「だから、今、活動を始めたいということだね?」
「うん!」
しばらく、スマホが沈黙を保った。詩織もじっと待った。
父親は、詩織の学校の土田教頭と同様に、職場の地位が上がるに従って仕事が忙しくなり、今はバンドをしていないが、アマチュアながらも若い頃からずっとバンドをしていて、バンドの楽しさも苦しさも両方知っている。だから、アイドルを辞めてバンドをしたいと言い出した詩織の味方をしてくれて母親と喧嘩をし、結局、父親と母親は離婚をしてしまった。自分のことでこれ以上、父親に迷惑を掛けたくなかった。そして、父親には理解をしてもらいたかった。
「……分かったよ」
ため息と同時に父親が呟いた。
「許してくれるの、お父さん?」
「だって、そのために引退したんじゃないか。高校に入ってから、ギターの練習も曲作りも、詩織が一生懸命していることも分かっているから。そんな詩織の夢を摘み取るようなことはしないよ」
「ありがとう、お父さん!」
詩織は思わず腰を浮かせて喜んだ。
小さな頃から父親はいつも詩織の味方だった。土田と話している時にも、父親なら許してくれるはずという確信めいた気持ちがあった。
「でも、詩織。これだけは約束してくれるかい?」
「な、何?」
優しいだけではなく、時には厳しい表情も見せる父親がどんな条件を言い出すのかと不安になった。
「土田には、いろいろと面倒を見てもらっているんだから、これ以上、迷惑を掛けるわけにはいかない。実は、詩織からメールをもらった後、土田に久しぶりに電話をしたんだ。土田が言うには、あの学校は表立ってバンドが禁止されてはいないようだけど、それはそもそも、そんな生徒が今までいなかったからだそうだ。今の校長先生は前例踏襲主義みたいだから、前例がないからバンドなんて駄目だという結論になるだろうともね」
「……じゃあ、学校の許可はもらえないってこと?」
「うん。だから、今日、詩織は土田と話をしていないことにしたから」
「えっ?」
父親の言っていることが分からなかった詩織が、間の抜けた声を上げた。
「土田にバンドをすることになったと相談はしなかった。そういうことにしたんだ」
「……」
「さっきも言ったように、詩織の学校はバンド禁止のようだから、相談をされたら、駄目だと言うしかないんだ。それなら、最初から相談していないことにするしかないだろ?」
「そ、それで、教頭先生は許してくれるの?」
「そういうことにしたから。詩織がバンドをしていることがばれることで、学校に迷惑を掛けることは避けようがないけど、土田個人には迷惑を掛けたくない。だから、土田は事前に詩織から相談を受けていない。詩織が学校に黙ってバンドをしていたということにしてくれと、僕の方から頼んだんだよ」
今は遠く離れてしまって、一緒にバンドはしていないが、若い頃から父親のバンド仲間であり親友である土田に迷惑は掛けられないという父親の気持ちがそうさせたのだろう。
「だから、詩織一人が悪い子になってしまうけど、それは承知してくれるかい?」
「もちろん! 私も自分のわがままのせいで教頭先生に迷惑は掛けたくないし、いざと言う時には学校を辞める覚悟はできてる!」
「詩織の覚悟は認めるが、せっかく三年生まで頑張ったのだから、できるだけ卒業できるように気をつけるようにね」
「分かった。ばれないように気をつける」
「うん。それで、バンドはこれからどういうふうに活動していく予定なんだい?」
「これからオリジナル曲を作ったり、その練習をしたりしながら、バンドの音を固めなきゃいけないから、活動できるようになるのは、早くても半年後くらいじゃないかって思うの」
「そうだろうね。でも、そうすると、秋以降はライブ活動も精力的に始めるつもりなんだろう?」
「うん、できれば」
「そこに同じ学校の生徒が来ないとは限らないよね」
お嬢様はロックなど聴かないと詩織が勝手に思っているだけで、ロック好きなお嬢様だっていっぱいいるはずだ。しかし、プロのライブならまだしも、個人的な知り合いとかでない限りは、まだ名もなき一介のアマチュアバンドのライブに来ることは考えられなかった。
「うちの生徒がライブに来てくれるようになるということは、それだけ知名度が上がったってことで嬉しいことだけど、それは楽観的すぎると思う。ライブを始めて、すぐに知名度が上がるなんて出来過ぎだよ」
「それはそうかもしれないね。まあ、バンドでプロデビューをしたいという詩織の夢が叶った時には、遅かれ早かれ、マスコミは食いついてくる。詩織が自分で満足できるくらいには、ちゃんと実力と人気を備えてからという訳にはいかないかもね」
「うん、できるだけ自分のことがばれるのは遅くしたいとは思っているけど、プロになれば、そんなことは言ってられないってことも理解してる。だから、少なくてもプロデビューするまではばれないようにしたい。そして、それは学校を卒業してからにする」
「一年間、我慢できるかい?」
「今まで二年間、我慢できたんだもん! 全然、平気だよ。仮に、卒業までにプロデビューの話が出たとしたら、それは嬉しい誤算だけど、 たぶん、あり得ない」
「そうだね。もし、そんな話が出たら、その時にまた、考えれば良いよね」
「うん」
父親がため息のように長く息を吐いた。
「詩織」
「はい」
「良かったね」
「……うん」
父親の優しい言葉に涙がこぼれそうになったが、自分が夢に向かって一生懸命努力をすることが、父親の優しさへの恩返しになると思い、かえって身が引き締まる思いを新たにした詩織だった。
「私、頑張るね」
「うん。それじゃあ、詩織がバンドでどんなことをやっているのか、僕も知りたいから、バンドであったことを逐一メールしてくれると嬉しいな」
「私も知らせたい!」
「ははは、久しぶりに詩織の明るい声を聞いた気がするな」
「あっ、……そうかもしれない」
引退後は、とにかく世間から隠れたかった。桜井瑞希という名前を消し去りたかった。そのために、学校では親友と呼べるまで親しくつき合う仲間は作らなかった。一番仲が良い同級生の優花達とも学校以外で会ったことはなくて、休日に一緒に遊びに行く人もいなかった。
そんな時でも、詩織自身には誰かとつながりたいという欲求は普通にあった。しかし、昔の自分を知られたくないという気持ちとぶつかって、葛藤することもたびたびあった。
玲音と琉歌とバンドを組むということは、その苦しみからも解き放たれるということで、詩織の口調が知らず知らずのうちに明るくなっていても不思議ではない。
そんな詩織の声を聞いた父親の声も嬉しそうだった。




