Act.124:アンハッピーバースディ
翌日の火曜日の夜。
詩織は、カサブランカでアルバイトに精を出していた。
眼鏡は学校にもカサブランカにも掛けて行くことがなくなって、今も、バンドをしている時と同じボーイッシュなスタイルの詩織であった。
DVDの整理作業がひと段落ついた詩織は、レジカウンターにいる椎名の隣に立った。
「最近、お客様の入りが良くないですか?」
「ああ、九月にした商品の入れ替えが良かったんじゃないかと分析しているのだがな」
商品の入れ替え作業があったその日。詩織は、ちょうど響の家に招待されていて、作業には関わっていないが、貸出し用DVDの四分の一以上が入れ替わっていることは、整理作業をしていて、詩織も気づいていた。
「実は、その入れ替え自体は、俺がオーナーに提案したものでな」
「そうだったんですか?」
「ああ。ここはもともとマニアックな品揃えで有名だったんだが、他のレンタルDVD屋には置いていない、よりマニアックな作品を多く揃えたんだ。選んだのは俺だから、推して知るべしだろ?」
カサブランカは、話題の新作を多く揃えていることは当然として、それ以外の作品の品揃えも豊富で、一部の映画好きには有名な店であった。
「確かに、私も整理をしていて、気になる作品が多くなった気がします。他の店には置いてない作品も、ここに来ればあると、評判になったんでしょうか?」
「俺はそう思っている。今回の入れ替えは、興行成績などには関係なく、無名な作品であっても、俺が良作だと思う作品を中心に選んだんだ。そんな作品をこの店の常連たちも認めてくれたということだろう」
「椎名さんは、どういう基準でその作品の善し悪しを決めるんですか?」
「俺がこだわっているのは、やはり、演出の手法だな。演出次第でストーリーに奥行きを持たせることもできるし、原作とはまったく違った作品に作り上げることもできる。映像で表現するからこその魅力であり、醍醐味でもあると思う」
こと、映像に関することになると途端に能弁になる椎名に感心しつつも、「相変わらずのこだわりですね」と、詩織も苦笑混じりに言った。
「熱心な映画ファンには、こだわり屋が多いんだよ。言い方を変えると、変人が多いということだが」
「ご自身のことをおっしゃっているんですか?」
「分かってるじゃないか」
「うふふ」
デートをした仲でもある椎名は、詩織が、唯一、冗談が言いあえる男性だった。
「そういえば、桐野」
「はい?」
「今日は誕生日だってな。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
高校一年と二年の時には、昔の自分のことがばれないように、誰とも親しくつきあうことはせず、ギターと歌の練習に明け暮れていた。誕生日にも、父親からちょっとしたプレゼントが贈られて来ただけで、誰からも、面と向かってお祝いを言ってもらうことはなかったから、詩織は少し照れくさかった。
「本当はプレゼントを渡すと良いんだろうが、土曜日までお預けだ」
「土曜日?」
「ああ、俺も桜小路響の家にお邪魔するからな」
「えっ、椎名さんもですか?」
「何だ? 来てもらうと迷惑か?」
「い、いえ! そんなことはないです! というか、私が来てくれとか来ないでくれとか言える立場にないので」
「確かに、桐野は『誕生日パーティに来て、私の誕生日を祝いなさい!』という女王様キャラじゃないよな」
「そ、そうですよ。でも、その話は誰から?」
「玲音だよ。今日の昼間、ここにDVDを借りに来た時に、伝えてくれたんだ」
「そうだったんですね」
「ああ。それで、プレゼントは、みんな、パーティの席上で贈ることになっているから、今日、桐野に会っても、抜け駆けして、一人だけ渡すなと釘を刺されてな」
「そ、そうなんですか」
「それに、俺も桜小路響に会ってみたいしな」
「響さんにも?」
「何だ? 桜小路響とは、名前で呼ぶ仲になっているのか?」
「あ、あの、妹さんの瞳さんと区別を付けるために」
「ふ~ん。まあ、あまり、そんなことを言っていると、また、桜小路響に嫉妬しているみたいに思われるから止めておこう。とりあえず、同じ世代で成功している人物ということで、俺も興味があるからな」
椎名は、詩織に対して告白をしていた。パーティ会場の主である響も詩織に好意を持っていると明言している。
土曜日には、その二人が会うことになる。
同じ年の二人の男性が、詩織を巡ってトラブルになり、詩織の誕生日に水を差すようなことはしないだろうが、今まで修羅場の経験もない詩織は少し心配になるのだった。
午後九時近くになると、詩織は少しだけ早くバイトを上がるようにした。
これから律花の家を訪ねる約束をしていて、バイトに打ち込んでいる時には気にしないようにしていたが、約束の時間が近づいてくると、バイトに集中できないようになった。
そんな詩織の変化を椎名も分かったようで、詩織から話を聞いた椎名が「オーナーには内緒にしておくから早く上がれ」と勧めてくれたのだ。
「それは、きっと、大事な話なんだろう。桐野もどんな話かは分かっているのではないのか?」
「……はい」
律花が詩織にだけ話したいこと。
それは、詩織も何となく察しが付いていた。しかし、律花の口から直に聞くまでは、軽々しく想像することもはばかられた。
カサブランカを出て、早足で江木田駅まで戻ると、池袋駅を経由して、中央線の中野駅までやって来た。
約束の時間よりも五分ほど早く着いたのだが、既に律花は立って待っていた。
夜といえども、駅前で明るく、その照明の下で見る律花は、いつもよりもメイクが薄く、服もいつもどおり黒一色であったがシンプルなデザインなもので、雰囲気が少し違っていた。
「お待たせして、すみません」
「いや、私も来たばかりだよ」
これから、きっと、大切な話があるというのに、律花の表情は、何となく穏やかだった。
「こっちだよ」
律花は、そう言うと、詩織に背を向け歩き出した。
途中、話をすることもなく、律花の跡をついていくと、十分ほどで、律花の家だという二階建ての木造アパートに着いた。かなり年季が入った建物だった。
外階段で二階に上がり、一番奥にあるドアの中に入った。
土間の玄関からすぐに狭いキッチン。その奥には、ドアや襖はなく、そのまま続いてワンルームの居間があった。
建物の造りから畳敷きの和室だと思われたが、床にはオリエンタルな図柄の絨毯が敷き詰められ、壁の全面にもインド風のタペストリーが掛けられており、赤みがかった薄暗い照明が、エキゾチックな雰囲気を醸し出していた。
また、微かにお香の匂いもして、ここだけ異世界のようであった。
壁際には、アコースティックギターとセミアコースティックギターが一つずつ、エレキギターが三つの、計五本のギターがスタンドに立て掛けられていた。
「こんなにギターをお持ちなんですね」
「うん。メインはこのレスポールだけど、曲やアレンジで持ち替えるようにしているんだ」
律花は、部屋の真ん中にある小さなローテーブルの前に詩織を座らせると、キッチンに立った。
後ろから詩織が見ていると、電子ポットからミルクパンにお湯を入れ、シナモンスティックとともにガスコンロで沸騰させると、それに小さな缶から紅茶葉をひとさじ入れ、二、三分煮出すと、今度はミルクを入れて更に数分煮出した。紅茶とミルクの甘い香りが詩織の所まで漂ってきた。
茶こしで越して入れた二つのティーカップを、律花は「何にもないけど」と言いながら、お盆に載せて持って来て、テーブルの上に置き、詩織と向き合って座った。
「良い香りです! チャイですよね?」
「うん。好きなんだ」
「いただきます」
詩織が、ふうふうと息をカップに吹きかけてから、ひと口すすると、シナモンの香りが鼻から抜けていった。
「おいしいです!」
「ありがとう」
「律花さんは、こういうエキゾチックな雰囲気が好きなんですか?」
部屋を見渡しながら、詩織が訊いた。
「うん。いつも、日常じゃない世界に身を置いていたいんだ」
「日常じゃない世界……ですか?」
「そう。ここにはテレビもラジオもパソコンもないでしょ?」
詩織が改めて部屋を見渡したが、家電としてあるのは、ヘッドフォンが繋がれた小さなステレオセットだけだった。
「外部とつながっているのは、このスマホだけ。もっとも利用するのは、スタジオの仕事に関する連絡とクレッシェンド・ガーリー・スタイルのライン連絡網くらい。あと、使うのは電車の遅延情報くらいかな」
「こうやって隔離された世界に身を置くことで、律花さんは、どんなことを感じ取っているんですか?」
「逆だよ」
「逆?」
「そう。何も感じ取れないようにしているんだ」
「何も……ですか?」
「他から邪魔が入らないんだから、いつも自分と向き合っていられる。自分の感情をコントロールできるようになる。そして、ギターを弾くための気持ちを常に高めておくことができる」
やや哲学的な言葉であったが、詩織には、何となく、その意味が分かった。
「ああ、そうだ」
律花は、何かを思い出したかのように立ち上がると、冷蔵庫からケーキの手提げ紙箱を取り出した。
戻って来た律花は、紙箱を開け、中からショートケーキを取り出し、テーブルの上に置いた。
「今日は詩織さんの誕生日だよね?」
「憶えていてくださったんですか?」
「土曜日のパーティには行けないから、せめてね」
「ありがとうございます、律花さん!」
「本当は、もっと早く伝えるべきだったんだけど、私もなかなか言い出せなくてさ。でも、そのお陰で、詩織さんの誕生日をお祝いすることができたよ」
「……」
律花が姿勢を正した。詩織も自然と背筋を伸ばした。
「きっと、詩織さんは、私の話を分かっているよね?」
「……分かりません」
「うふふふ。嘘だね」
「そ、そんなことはないです! 本当に分からないです!」
「詩織さんは本当に優しいね。そして、嘘が吐けない人だ。最初から分かっていたけどね」
「……」
「私は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルから抜けるよ」




