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Act.121:すぐ近くにいるのに知らない場所と人

 翌日の土曜日。

 かなでが、山田楽器店の四階にある自分の教室で待っていると、若い女性店員が「先生! 十一時からの生徒さんがいらっしゃいました!」と、椎名しいなを案内してきた。

 その女性店員が椎名に見とれているのが分かった。

 奏も椎名のイケメンぶりには今でも少し胸がときめくが、椎名は詩織のことが好きだということも分かっていたから、以前、PV撮りの際にキスもされたが、冷静に椎名と接することができていた。

「いらっしゃい、椎名さん」

「奏さん、今日はお世話になります」

「どうぞ」

 椎名は、奏に勧められて、パイプ椅子に座り、奏と向かい合った。

「今日は部屋の下見ということだけど?」

「ええ、思っていたよりは狭い部屋ですね」

 椎名がレッスン室を見渡しながら言った。

「バンド練習用のスタジオとは違って、生徒さんお一人か、小さなお子さんの時には保護者が一人付いてくるくらいで、大勢の人が入ることはないですからね」

「なるほど。でも、撮影に支障があるほどの狭さではないので、大丈夫です」

 椎名は、教室にあるピアノを見つめた。

「俺も楽器のことはよく分からないのですけど、このピアノは何と言う種類なんですか?」

「グランドピアノよ。大きいだけあって、良い音が響いてくれるの。他にはアップライトとか、電子ピアノとかあるけど、ピアノの音色からいうと、やっぱり、グランドピアノね」

「ちょっと、弾いてもらって良いですか?」

「曲は『星に願いを』だったよね?」

「ええ」

「じゃあ、教室で教えているバージョンだけど」

 奏は、講師用の椅子からピアノシートに座り、「星に願いを」を弾きだした。BGMなどでよく聴く、スタンダードなアレンジだ。

 目を閉じて、奏の演奏を聴いていた椎名は、演奏が終わると、パチパチと拍手をした。

「やはり、良い音ですね。奏さんの演奏も素晴らしいです」

「ありがとう」

「それで、撮影したい内容なんですが」

 椎名は、自分のショルダーバッグから、数枚の紙を取りだした。

 それには、漫画のコマのような四角い枠が縦に四つあり、手書きのラフな絵が書かれていた。

 椎名が、奏の座っている椅子の横に自分が座っているパイプ椅子を移動させてきて、その紙を一緒に見られるように奏に差し出した。

「これがコンテです。CGも活用して、全体的にファンタジックな雰囲気な作品にする予定です」

 椎名の脳内イメージを描いているのだろうが、絵がラフすぎて、正直、奏は具体的なイメージを思い浮かべることはできなかった。

「ごめんなさい。よく分からないわ。でも、椎名さんの指示どおりにします」

「奏さんは、すぐに謝るんですね?」

「えっ?」

 コンテから椎名に視線を移すと、椎名が少し呆れているように、それでいて穏やかな表情で奏を見ていた。

「自分が悪い訳ではないのに、すぐに『ごめんなさい』と言いますよ」

「ああ、まあ、そういうことが多かったから、口癖になってるのかも」

 以前には、寄り添って来た男に去ってほしくなかったから、相手の男が奏を責めるようなことを言うと、すぐに謝っていた。その時のくせが残っているのだろう。

「バイト中に、桐野きりのと話していると、奏さんの話がよく出て来るんですよ。さっき言った、奏さんはすぐに『ごめんなさい』と言うことも、桐野が教えてくれたんです」

「そうなんだ」

「あと、桐野は、奏さんが本当のお姉さんだと良かったのにと、いつも言ってますよ」

 それは、たまに自分の家に泊まりに来る詩織から、いつも言われていることだ。

「私も詩織ちゃんみたいな可愛い妹が欲しかったわよ」

「実際には、弟さんがいらっしゃるんでしたっけ?」

「ええ。もう、生意気でさ」

「そうなんですか?」

「農家の跡取りで、実際に父親と一緒に農業をしてるから、家を出ている私が大きなことは言えないけど、もう藤井ふじい家の当主気取りなのよ」

「なるほど。実は、俺にも兄貴がいて、長男の兄貴が椎名家の当主気取りなんですよ」

「そうなんだ」

「もっとも、俺は、大学を卒業した後は、もう実家の面倒を受けるつもりはないんで、まあ、好きにしてくれって感じですけどね」

「お兄様はどちらにお勤めされているの?」

「父親と同じ講英社ですよ。兄貴は、そっちでも後継者気取りなんですよ」

「社長の息子だから?」

「そうです。うちは講英社の創業者一族でも大株主でも何でもないんですけどね」

「以前、詩織ちゃんの記事がフレッシュに載った時に、私も週刊誌とかいろいろと読んで勉強したんだけど、椎名さんのお父様、かなりのワンマンらしいわね」

「院政でも敷くつもりなんでしょうね」

 自分が社長の座を降りても、影響力が及ぶかつての部下を経営陣に残しておくことで、将来は自分の息子を社長にするつもりなのだろう。

 椎名が淫行をしたと嘘を吐いて、詩織の写真を差し替えさせたことも詩織から聞いていたが、椎名の父親もそんな野望を持っているからこそ、自分の家族のスキャンダルを積極的にもみ消そうとしたのだろう。

「でも、親子で一流企業に勤めてて、椎名さんも帝都芸大だし、インテリ一家なんだね」

「未だに芽の出ない俺は、鼻つまみ者ですけどね」

「でも、この前、何かのコンテストで入賞してたじゃない」

「まだまだ、芽の先が土から少し顔をのぞかせただけですよ。もっともっと、俺達の作品を認めてもらって、CMでもPVでも、俺達に作ってもらいたいというようになるのが、俺達の夢です」

「今回の作品がそのための第一歩ってことね?」

「そういうことです。あっ、もう三十分経ってしまいましたね」

 奏が教室の時計を見ると、十一時二十五分ほどになっていた。

 奏も時間が経つのが早く感じられた。

「何か、話をして終わっちゃったわね。これでレッスン料をいただくのは申し訳ないわ」

 レッスン料は既に楽器店が徴収しているはずで、その一部が、レッスンを担当した奏の給料に加算されることになっていた。

「とりあえず、下見はできたので、目的は達しましたよ。奏さん、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「この後もレッスンが詰まっているんですか?」

「えっと、……この後は、十二時半ね。ちょっと早いけど、お昼休憩にするわ。取れる時に取っておかないとね」

「じゃあ、お昼をご一緒しませんか?」

「えっ、椎名さんと?」

「自分の飯代は自分で出しますから」



 椎名と一緒にレッスン室を出た奏は、レッスンの受付を担当している店員に「昼休憩に出る」と伝えて、店の外に出た。

 その間、楽器店の女性店員の視線が椎名に釘付けになっているのが分かった。

「奏さんの行きつけの店とかあるんですか?」

「今は特にないわ。最近は、コンビニで何か買ってくるくらいで」

「じゃあ、俺のお勧めの所でも良いですか?」

「どんなお店なの?」

「定食屋ですよ。少し狭いですけど」

「じゃあ、そこに行きましょう」

 椎名についていくと、ビルとビルの間の路地に入って行った。奏も山田楽器店に勤めだして六年経っていたが、近くにこんな路地があることを初めて知った。

「ここですよ」

 椎名が立ち止まったのは、細長い雑居ビルの一階にあり、縄暖簾が掛かった、こじんまりとした店の前だった。

 入り口の引き戸の横には、表札ほどの大きさの看板が掛けられていて、「馬場亜」と彫られていた。そして、その下には、「豚肉のショウガ焼き」とだけマジックで書かれた短冊がピンで留められていた。

「ば、ばばあ?」

「そうですよ。本当に婆さんが一人でやっている店なんですよ」

 愉快そうに微笑んだ椎名が、店の引き戸を開けた。

 椎名のあとについて中に入ると、中も狭く、カウンター席が五つ、小さな四人掛けテーブルが二つあるだけだったが、客はまだ誰もいなかった。

「いらっしゃい」

 カウンターの中にいた女性がハスキーな声で椎名と奏を出迎えた。

 白髪頭にバンダナを巻き付け、作務衣さむえ姿の年配の女性は、「久しぶりじゃないか、椎名」と人懐っこい笑顔を見せた。

「お久しぶりです、馬場ばばさん。まだ、死んでなかったんですね?」

「椎名が働きだして、多額の香典を出せるようになるまで死ねるかい」

 どうやら、きわどい冗談も言いあえる仲のようだ。

 椎名から「馬場」と呼ばれた女性が奏に視線を移し、「新しい彼女さんかえ?」と椎名に尋ねた。

「残念ながら違うよ。今度、撮影に協力してくれる人で、すぐそこの山田楽器でピアノの先生をしている人だよ」

「へえ~、そうなのかい? ご近所さんなのに初めまして」

 頭を下げた馬場に、奏も「こ、こちらこそ」と頭を下げた。

「私もこの界隈には初めて来たんですけど、このお店はいつからされているのですか?」

「ここは、もう三十年かねえ」

「そ、そんなに前から?」

「いつの間にかねえ。ああ、好きな所に座って良いよ」

 奏と椎名が四人掛けテーブルに向かい合って座ると、馬場が暖かいお茶がなみなみと注がれた大きな湯飲みを二つ持って来て、テーブルに置いた。

 そして、何も注文を取らずにカウンターの中に戻った。

 その後ろ姿を見つめる奏に、「ここのメニューは日替わり定食しかないんですよ」と、椎名が説明してくれた。

「多くのメニューを用意すると、一人じゃ無理なんですって」

「ああ、それはそうでしょうね」

 すぐに、フライパンで肉を炒める音が響きだした。そして良い匂いが店内に充満した。

 五分もすると、奏と椎名の前に、豚肉のショウガ焼き、芋の煮っ転がし、お新香、豆腐と油揚の味噌汁、ほかほか御飯の定食が持って来られた。

「じゃあ、いただきます」

 椎名が馬場に言った。

 奏も「いただきます」と言い、まずは、芋の煮っ転がしに箸を付けた。

 どこか懐かしい、そして、思わず唸ってしまうほど美味しい味付けだった。豚肉のショウガ焼きも御飯が進む味で、豚肉も柔らかかった。

「美味しい!」

「でしょ? しかも、これで五百円なんですよ」

「ええっ! これで?」

 路地裏の小さな店とはいえ、大都会池袋のど真ん中にあるのに、このメニューでワンコインとは信じられなかった。

「どうせ、あの世には銭は持っていけないんだから、ここの家賃を払って、ババア一人が暮らせるくらいの儲けがあれば良いのさ」

 カウンターの中から、少し「べらんめえ調」で、馬場が言った。

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