Act.120:挑戦の始まり
文化祭ライブが終わった、その日の夕方。
詩織は、ライブの余韻を少し引きずりながらも、アルバイトに行った。
店に入ると、いつもどおり、眠そうな表情をした椎名がカウンターに立っていて、詩織はスタッフルームで店名入りエプロンを掛けると、すぐに椎名の隣に立った。
店内を見渡すと、今日も片手で数えられるほどしか客はいなかった。
「桐野、今日の学校でのライブはどうだった?」
週三日、バイトで顔を会わせている椎名には、当然、今日の文化祭ライブのことも話していた。
「同級生のみんなとも仲直りができて、すごく良かったです」
「そうか。まあ、桐野の歌を聴いて、桐野の本気を感じない奴はいないだろうからな」
椎名の言葉に、詩織も照れ笑いを返すことしかできなかった。
「しかし、クレッシェンド・ガーリー・スタイルというバンドは、池袋を中心にして活動しているという噂もネットで流れているようだし、桐野の包囲網は着実に狭まってきてるな」
「そ、そうですね」
「カサブランカというレンタルDVD屋で働いている『桐野』の名札をつけた女の子が、クレッシェンド・ガーリー・スタイルのボーカルで、元桜井瑞希だということがばれるのも時間の問題かもしれない」
「でも、もう、ばれたって、平気です」
「桐野の気持ちとしてはそうだろうが、桜井瑞希だと分かって卑猥な言動をとる連中がわんさかと押し寄せてきて、AV作品を片手に、桐野にレジをさせろと要求してくるかもしれない」
「そ、そんなことってあるんでしょうか?」
「まあ、これからも、俺ができるだけカウンターに立つようにするよ」
「お願いします」
真顔で話す椎名の冗談にも慣れた詩織は、微笑みながら椎名に頭を下げた。
「しかし、桐野」
「はい?」
「いつまで、ここのバイトを続けるつもりなんだ? バンドの活動が本格化しだすと、バイトどころじゃないよな?」
「そうですね。レコーディングが始まる前には、ここを辞めさせていただくことになると思います。オーナーには、まだ伝えていないですけど」
「オーナーの耳には、それとなく、俺から入れておくよ。辞める日が決まれば、桐野から直に伝えてもらえれば良いだろう」
「ありがとうございます。椎名さんは、まだ、ここのバイトを続けられるんですか?」
「ああ。大学を卒業できる目処は立ったんだが、もう、しばらく、ここで働こうと思っている。店長の話も承諾したよ。もちろん、以前に桐野にも言ったが、ここの店長は夢が実現できるまでの腰掛けだ。もっとも、十年も二十年も腰掛けたままかもしれないが」
自嘲気味に言った椎名だったが、すぐに真剣な表情になり、詩織を見た。
「実は俺も、夢に向かって、やっと一歩を踏み出すことができたんだ」
「本当ですか?」
「ああ。俺と同じく卒業できそうな大学の映研の連中と映像製作集団を結成したんだ。将来は会社組織にして活動するつもりで、その準備を、今、しているところだ」
「おめでとうございます、椎名さん!」
「その言葉は結果が出せるまで置いておいてくれ」
「あっ、そ、そうですね」
「だが、ありがとうな。はなむけの言葉として受け取っておくよ」
椎名が穏やかな表情で話を続けた。
「ちなみに、集団の名前は『ホワイトスクリーン』という。真っ白なスクリーンに自分達の映像を映し出すという、ありふれたネーミングだが、けっこう気に入っている」
「そこに映し出される映像は、椎名さん達の映像なんですよね?」
「そういうことだ。もっとも、会社組織にする以上は、それで食っていけるようにしないといけないが、無名の俺達に注文がどんどんと飛び込んでくるはずもないから、しばらくは、社員全員がアルバイトをしながらになるだろうがな」
「椎名さん! 私も応援してます! 一緒に夢を追い掛けましょう!」
「そうだな。早く桐野に追いつきたいからな」
追いついた時、すなわち、椎名も夢を実現できた時には、詩織に対する気持ちの封印を解くと椎名は言った。
それはいつになるか分からない。その時まで、椎名が詩織を好きなままとは限らない。
しかし、今。椎名は、詩織の良きバイト仲間としての関係を維持してくれている。
「それで、桐野にお願いがあるんだ」
「何でしょう?」
「実は」と椎名が言い掛けたところで、DVDを抱えた客がカウンターにやって来た。
「また、後で」
椎名は、そう言うと、その客の対応を始めた。
詩織も返却されたDVDの整理作業に入った。
バイトが終わり、いつもどおり、江木田駅の近くまで、椎名と並んで帰った。
「そういえば、椎名さん。先ほど、私にお願いがあるとおっしゃっていましたけど?」
「ああ、そうだったな。あれから、予想外に客が来たから話すのを忘れていたよ」
確かに、今日は、詩織がカサブランカでバイトを始めて以来、初めてと言って良いほど、来客があり、返却されたDVDも多くあって、詩織も整理作業に追われていた。
「ひょっとして、桐野のことがばれたのかと思ったが、まあ、たまたまだったようだな。それで、お願いというのは、奏さんの連絡先を教えてもらいたいということだ」
「奏さんの?」
「ああ。もちろん、奏さんの承諾を得てからで良い」
椎名は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルの専属映像スタッフとして、メンバー全員と飲み会もした仲だが、連絡先としては、バイト仲間の詩織は別にして、リーダーの玲音の携帯番号しか知らされていなかった。椎名を信用していなかった訳ではなく、椎名が、琉歌や奏に、直接、連絡を取る必要がなかったから訊いていなかっただけだ。
なお、クレッシェンド・ガーリー・スタイルがエンジェルフォールに所属した今となっては、勝手にPVの撮影もできなくなっていたが、デビューシングルのPVについては、椎名の才能を認めている玲音が、椎名に撮ってもらいたいと榊原にお願いしているようだ。その結論は、まだ、榊原から返ってきていないが、そうなれば良いなと、詩織も願っていた。
「奏さんに連絡を取りたいことって、何ですか?」
「実は、ホワイトスクリーンとしての初作品をもう撮り始めているんだ。『ショーケース』というタイトルで、内容としては、『俺達はこんな映像を作る集団なんだ!』とのピーアールをするため、つまり、自分達が作る作品の見本として、将来のクライアントに提示するためのものだ」
椎名は、自分が撮りたい映像だけを撮りたいと言っていた。
既存の映像製作会社に就職すれば、上からの命令に従って、言われるがままに、好きでもない作品を作らなければならないかもしれないが、それが嫌で、椎名の考え方に賛同してくれる仲間達とともに映像製作集団を立ち上げたのだろう。
そして、自分達が製作したい映像を見本として提示しておくことで、自分達の感性を理解してくれるクライアントが依頼をしてくれることが期待できる。
できるだけ多くの作製依頼を受けることが安定した経営を続けるには好ましいことだが、最初から志を低く設定したくないという、椎名のこだわりなのだろう。
「いろいろとメンバーで話し合いながら、作品の構成を考えているんだが、ピアノを弾くシーンを入れようという話になってな」
「ああ、そのシーンを奏さんに?」
「そうだ。映すのはピアノを弾いている手元だけで、芸能音楽事務所に所属している奏さんの顔は出さない。奏さんは、まだ、山田楽器のピアノ講師もされているから、ピアノ講師としての時間を借りて、収録をしたいと思っている」
「ピアノ講師としての時間をですか?」
「そうだ。奏さんのピアノ教室の予約を取って、楽器店で撮影したいと思っている。さすがに生ピアノを小道具として用意することも難しくてな。それなら初めからピアノを置いている場所で撮れば良いじゃないかという発想さ」
奏は、バンド活動に関しては、エンジェルフォールに所属しているアーティストであるが、山田楽器店にそのまま勤務していて、ピアノ講師との二足のわらじを履いている状態だった。
「私はよく分からないですけど、店内で撮影するには、楽器店の承諾が必要なんじゃないんですか?」
「もちろん、必要だ。しかし、奏さんが承諾してくれれば、我々の方で楽器店の承諾を取る。まあ、撮影協力ということで、クレジットに店名を出すと言えば、どこの店でもすぐに承諾はしてくれるものだ」
「そうなんですね。それで、弾く曲は決まっているのですか?」
「ああ。『星に願いを』をジャズっぽく弾いてもらいたいと思っている。特に見本となる曲は用意していないし、俺達も音楽のことはよく分からないから、奏さんの解釈で弾いてもらって結構だ」
「分かりました。家に帰ったら、早速、奏さんに訊いてみますね」
詩織から椎名の要望を聞いた奏は、特に断る理由もなかったことから、自分の携帯番号を椎名に教えることを承諾した。
すぐに椎名から電話があり、近い日付で、奏のピアノ教室の空きがあれば、予約をしたいと言ってきた。いきなり、撮影ではなく、ピアノ教室の部屋を下見したいとのことだった。
山田楽器のピアノ教室は、一単位三十分で、奏ともう一人のピアノ講師がそれぞれの教室で担当していた。
毎週、決まった日時に来られる人は、何曜日の何時からと予約をあらかじめ入れていたが、その週にならないと行ける日が分からないという人もいるし、結婚式などのイベントのために、一定の期間だけレッスンを受けたいという人もいる。そんな飛び込みの予約にも対応するため、継続的なレッスンの予約は、ある程度、余裕をもって入れていたが、たまにそんな飛び込みのレッスンが重なると、昼食をとることもできないくらいに忙しくなることがあった。
奏がレッスンの予定を確認すると、明日の午前中には、まだ空いてる時間帯もあったことから、午前十一時からの三十分を予約した。




