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Act.116:別れた理由

 メンバー同士の話し合いで、詩織しおりの学校でのライブのため、PAシステムをレンタルすることを決めた日の翌日。土曜日。

 玲音れおは、事の次第とともに、PA業者の情報を教えてほしいと榊原さかきばらにメールをした。

 榊原からの返信は、「会って話をする」だった。

 その日の午後八時。

 池袋の「いけふくろう像」前で榊原を待っていた玲音は、いつも以上に気合いが入ったファッションとメイクをしていた。

 玲音と榊原は、一夜だけだが、不倫の関係になってしまった。しかし、その日以降、二人は、芸能音楽事務所の社長とその所属アーティストという関係に戻っていて、二人きりで会うことはなかったし、メールのやりとりも事務的なものしかしていなかった。

 しかし、今日、実際に会おうと言われたことで、玲音の心の中には、榊原と会えるという喜びと期待がわき上がっていた。

 間もなく、榊原がやって来た。

「や、やあ、待たせたかな?」

「い、いえ」

「とりあえず、飯でも食べながら話をしようか」



 榊原は、玲音を見晴らしの良いレストランに連れて行った。

 そこは、丸い店内の窓際にカウンターのような席が並んでいて、夜景を見ながら食事ができる所だった。

 並んで座った玲音と榊原は、夜景を見ながら、ワイングラスを傾けた。

「話は分かった。おシオ君は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルの要となるアーティストだ。そのおシオ君が学校で辛い思いをしているようでは、レコーディングにも支障が出るかもしれない。かといって、我が社の営業とは関係のないライブに、会社の金を使う訳にはいかない。私が個人的に出そう」

「良いんですか?」

「そうすることが玲音君のためにもなるんだろう?」

「それはもちろんです。おシオちゃんが悩んでいる姿を見るのは、アタシらだって辛いですし」

「みんな、本当に、おシオ君のことが好きなんだね」

「当然ですよ。おシオちゃんの歌に惚れて、性格も可愛いんだから、好きにならない訳がないですよ」

「みんなに愛されていて、おシオ君が羨ましいよ」

「榊原さんだって、社長として、社員の皆さんから愛されているじゃないですか!」

「そうだと良いけどね」

「少なくとも、竹内たけうちさんは、榊原さんのことを尊敬しているって言ってましたよ」

「それは嬉しいね。それで、玲音君は?」

「はい?」

「玲音君は、私のことをどう思ってくれているんだい?」

「どうって……、あの夜、言ったとおりです」

 玲音は、「不倫」という言葉を思いだし、目を伏せた。

「そうか。……私もだよ」

「えっ?」

 玲音は、思わず顔を上げて、榊原を見つめた。

「酒に酔っていたとはいえ、玲音君を抱いてしまったのは、一時の欲望に負けたからなのか? それとも、心のどこかで玲音君に惹かれていたのか? あれからずっと考えていたんだ」

「……」

「今回の件でメールをもらった時、私は玲音君と会って話がしたいと思った。会えるという約束ができて、昼間から何だかウキウキしていたんだ。前回、一緒に飲みに行った時、すごく楽しかったし、何と言うか、玲音君とは波長が合っている気がするんだよ」

「それは、私もです! アタシも、正直、いろんな男とつきあいましたけど、どの男も最後にはアタシを怒らせるんです。でも、榊原さんは、アタシを怒らせないから、それは、きっと、アタシと榊原さんは相性が良いんだと思います」

「二人とも酒飲みだし、細かいことは気にしないしね」

「確かに」

 二人で笑いあった後、榊原が真剣な表情になった。

「あの時も話したけど、女房とは、今、離婚の話し合いをしている。実は、これまで暮らしていた目白の家から出て、今は、この池袋で一人暮らしをしているんだ」

「そうなんですか」

「うん。行ってみるかい?」



 玲音が目覚めた時、逞しい腕を枕にして、ベッドで横になっていた。

 常夜灯にした照明で微かに見える壁時計の時間は五時。十一月の朝は、まだ日の出前だ。

「目が覚めてしまったかい?」

 榊原の声が聞こえた。

 見上げるようにして腕枕の元をたどると、榊原の優しい顔が見えた。

「起きてたんですか?」

「十五分くらい前に目が覚めてしまって、玲音君の寝顔をずっと見ていたよ」

「は、恥ずかしいすよ」

「いや、すごく綺麗で、ずっと見とれていたよ」

 玲音は、榊原の顔を正面に見るところまで体をずり上げると、榊原とキスを交わした。

 すぐに唇を離し、榊原と至近距離で見つめあう。

 今、二人を隔てるものは何もなかった。

「玲音君。二人で会っている時には、『玲音』と呼び捨てにさせてもらって良いかな?」

「もちろん! アタシは何と呼べば良いすか?」

「できれば名前で」

翔平しょうへいって?」

「そうだね。女房にはそう呼ばれていたけど、これからは玲音にそう呼んでもらいたい。だから、二人きりの時にはタメで良いよ」

「じゃあ、翔平。奥さんのこと、訊いても良い?」

「ああ」

「別れたいと思った理由って?」

「いきなりかい?」

「知りたいんだ。だって、翔平とは、このままずっと、つきあっていきたいから、翔平が嫌なことを知っておきたいんだ」

「そうか」

 榊原は、上半身を起こして、ベッドの上で胡座をかいた。玲音もシーツを胸元まで上げてから、榊原と向かい合って座った。

「そうだな。……ひと言で言うと、価値観の違いってやつかな」

「価値観?」

「うん。前にもちょっと話したけど、女房とは学生時代に恋仲になって、卒業するとすぐに結婚したんだ。でも、私が前の会社を辞めて、エンジェルフォールを立ち上げた頃から、何となくギクシャクしてしまってね」

「奥さんは、翔平がエンジェルフォールをすることに反対だったの?」

「そうだね。一応、前の会社も大企業だったから、大きな失敗さえしなければ、とりあえず、生活の心配をすることはなかった。でも、エンジェルフォールを立ち上げるのに、借金もしたし、流行廃はやりすたりが早い芸能界で生き残れるとは限らないからね」

「翔平はチャレンジをしたいけど、奥さんは安定を求めたみたいな?」

「そういうことだね。エンジェルフォールの経営も軌道には乗ってきているし、クレッシェンド・ガーリー・スタイルという有望な新人も入ったんだから、将来は安泰だと思ってはいるんだけど、所詮は、まだ小さな会社だからね」

 学生の頃には、自由に夢を見ることができる。

 卒業して社会に出ると、できるだけ将来に不安を感じないように、人は安定を求めるようになる。そして、その反面、夢を見なくなる。

 しかし、中には夢を見続ける人もいる。突然、夢を見始める人もいる。その代償は、安定を放棄することだ。一度きりの人生、安定を求めるのも有り、挑戦し続けるのも有りだろう。どちらを選ぶのかは、その人の自由だ。

 しかし、夫婦で、その考えが違っていたら、その関係を維持することは難しいだろう。榊原は夢を追い求める道を選択したが、妻はその選択に同意することができなかったのだ。

「じゃあ、人間的に嫌いになったという訳じゃないんだ?」

「そうだね。でも、やはり、恋愛をしていた頃の気持ちはなくなってしまったよ」

「そう……なんだ」

 榊原はまだ妻に未練があるのではないかと思い、玲音は少し不安を感じて、目を伏せた。

 そんな玲音を見て、榊原が、胡座をかいたまま、玲音の近くにすり寄ってきた。

「実はね、藤井ふじい先生が少し女房に似ているんだ」

かなでが?」

 いきなりの奏の登場に、玲音は榊原に視線を戻した。

「うん。小柄なところとか、顔の雰囲気とかもね。私は、きっと、藤井先生に昔の女房の面影を見ていたんだろうな」

「それって、やっぱり、奥さんのことが忘れられないってこと?」

「女房が、学生の頃とか新婚の頃の女房に戻ってくれたら、そうかもしれない。でも、もう無理だよ」

「奏のことは?」

「藤井先生には振られてしまったからねえ」

「やっぱり、下心があったんだ?」

「クレッシェンド・ガーリー・スタイルを絶対に引き入れたいという想いが九割、藤井先生が私になびいてくれたら良いなという想いが一割くらいあったかな。でも、玲音とこういう仲になって分かったよ。私は、もう、女房とは元どおりにはなれない。そして、無意識にその代わりを求めていた藤井先生にも失礼なことをしてしまった。今は、玲音のことだけしか考えられない」

「翔平……」

 玲音は、胡座を組んで座っている榊原の足の上に乗り、榊原と抱き合った。

「今の話を聞いて、玲音はどう思った? 藤井先生にもちょっかいを出そうとした私を信用できるかい?」

 榊原が抱き合っている玲音の耳元で尋ねた。

「むしろ、変な隠し事をしないで正直に話してくれたって思ってる。そっちの方がアタシは好きだな」

「そうか」

 キスをしてから、榊原が玲音をまっすぐに見た。

「玲音。私と一緒に夢を追い掛けないか?」

「アタシの夢と翔平の夢は同じなの?」

「私の夢は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルをトップアーティストにすることだ! 日本を制覇したら、次は海外に乗り込む!」

「面白れえ! 絶対、やりたい!」

「そうだろ」

「でも、まだ、アタシらはデビュー前だし、これからが大切な時期だよね」

「そうだな。だから、これまでどおり、私と玲音との関係は内緒にしておこう。分かってくれるか?」

「分かるよ。アタシだって、せっかく、ここまで来た夢を、もっと現実なものにしたい。そして、それを翔平と一緒に目指していると思うと、別に秘密にしていることは気にはならないよ。それに、アタシもそんなに結婚願望が強い訳じゃないし、今のままでも、全然、平気さ」

「すまない。女房とのことが、きちんとできてから、二人のこともちゃんとするよ」

「まあ、気長に待ってるよ」

 玲音は、そう言うと、榊原にもたれ掛かった。榊原は、その体を抱きしめながら、ゆっくりとベッドに倒れた。


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