Act.107:女であり、姉であり
「ど、どうしましょう?」
「そ、そうだなあ」
ベッドに座り、見つめ合う玲音と榊原だったが、見つめ合っているうちに、玲音の中に、榊原に対する「好き」という感情がわき上がってきた。
確かに、不倫は、男性の妻に対する、とてつもなく酷い仕打ちなのは分かっている。だからこそ、不倫をする男は大嫌いだった。
しかし、いつの間にか積もっていた榊原に対する恋愛感情を、玲音は抑えることができなかった。
「榊原さん」
「うん?」
「好きです」
「えっ?」
玲音は、榊原に体をぶつけるようにして抱きつき、榊原とともにベッドに倒れた。
「れ、玲音君?」
「アタシ、最初に会った時から、榊原さんが好きだったんだ。でも、自分達が所属する事務所の社長だから、ずっと考えないようにしてた。でも、こんな状態になって……、もう、我慢できねえよ!」
覆い被さった榊原に、玲音はキスをした。情熱的なキスだった。
榊原も抵抗しなかった。どころか、玲音の背中に腕を回して、玲音を固く抱きしめた。
「所属するアーティストとこんな関係になってしまうとは、私も社長失格だな。そうならないように、自分に言い聞かせていたのに、こんなことになってしまったのは、私も玲音君が好きなのかもしれない」
「本当ですか?」
「まだ、はっきりとは分からない。しかし、今は、猛烈に玲音君が欲しい」
「アタシも! 記憶にないって寂しすぎます」
「そうだな。……もう一度、自分達の意識を確かめてみようか?」
「はい」
玲音の長い黒髪に映える、一筋の赤いメッシュが、のたうち回る蛇のように乱れた。
玲音と榊原がラブホテルから外に出ると、十一月の朝が白んできていた。
玲音が腕時計を見ると、午前六時。
今日は日曜日だが、電車はもう動いているはずだ。
欲望を抑えることができずに、お互いの体を貪りあった二人だったが、冷たい朝の空気が、二人の意識に冷静をもたらした。
「玲音君。このことは、二人だけの秘密にしよう」
「そうですね」
芸能音楽事務所の社長が所属アーティストと関係を持ったということが明らかになると、そういうことを禁止している社員達にも示しがつかないし、他の所属アーティストからの信頼も失いかねない。
玲音もそのことは理解していた。
そして、何より、榊原は妻子持ちだ。
あれだけ自分で嫌悪していた不倫をしてしまったという負い目もある。
しかし、榊原に対する気持ちは、もう、後戻りさせることができなかった。
「でも、もし、許されるのであれば、また、榊原さんと、二人きりで会いたいです」
「玲音君……。玲音君には、正直に言っておくよ」
玲音は、榊原を見つめた。
「妻とは、今、家庭内別居の状態で、離婚の話も出ているんだ。ただ、亜紀の、娘のことを思うと、お互いに離婚に踏み込めないままで、何となく同居している感じでね。今日も家に帰りたくないという気持ちがどこかにあったのかもしれない。だから、今回のことは、玲音君が気に病むことはないよ」
「榊原さん……」
「私も自分の気持ちをもう一度、整理してみる」
榊原は、玲音を引き寄せると抱擁し、玲音にキスをした。
「しばらく、私に時間をくれ」
「アタシには、バンドで活躍したいっていう夢があって、結婚ということは、全然、考えてないないです。だから、榊原さんが寂しいと思った時に、アタシを抱いてくれるだけでも良いんです」
「分かった」
榊原と池袋駅で別れた玲音は、自宅に戻った。
今日も午前中はバイトがあるし、琉歌の朝食も作らなければならないが、まだ、小一時間は休息ができる。
眠るつもりはなかったが、念のため、目覚まし時計をセットしてから、ベッドに横になった。
玲音が、このベッドで男と寝るのは、その心に蓄積された不満や葛藤を解消するためだった。体の欲求を満たすことで、心の平穏を保っていた。相手は、とりあえず、イケていれば、誰でも良かった。
しかし、クレッシェンド・ガーリー・スタイルのメンバーと出会ってからは、その頻度は、ぐっと減っていた。それは、そうしなくても、心が平穏だったからだ。
琉歌が近くにいると安心できたし、詩織の純粋さや一生懸命な姿は見ていて気持ちが良かった。そして何よりも、一緒になって冗談を言いあってくれるが、最後には頼れる「姉」でもある奏の存在が大きかった。
大きなトラウマを抱えている琉歌の姉として、自分がしっかりとしていなければならない!
そんな強迫観念に近い思いに支配されていたが、自分にも「姉」ができたことで、その負担が軽くなっていることは確かだ。
琉歌のトラウマのことは、奏には話していないが、本当に困った時には、奏は、きっと、相談に乗ってくれるという安心感が、そう思わせているのだろう。
そして、榊原のこと。
榊原は「正義のヒーロー」として、玲音の前に現れた。次に会った時には、自分の夢を叶えてくれるかもしれない芸能音楽事務所の社長として現れた。
そして、榊原は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルに惚れ込んでくれていて、玲音は今、榊原率いる「エンジェルフォール」所属のアーティストになっている。夢見続けてきたプロデビューへのカウントダウンも始まっている。
だからか、最近は、榊原は玲音に幸運を届けてくれる人物という認識になっていて、玲音がバイトをしているコンビニで、チャラ男を追い払ってくれた榊原に対する好意を、玲音は意識することがなくなっていた。
しかし、今、玲音の中に、榊原に対する想いが溢れてきていた。
榊原の少し強引とも思えるくらいに、ぐいぐいと玲音を引っ張ってくれそうな性格は、自分がそれに甘えることができる、止まり木のような存在として、玲音を魅了した。
そして、社長としてエンジェルフォールを率いているという事実は、その榊原の強引さを、一晩、ベッドを伴にしただけで彼氏づらしてくる男達の中身のない傲慢さとは別のものにしていた。
間違いなく、玲音は、榊原に恋をしていた。
しかし、榊原と玲音は、芸能音楽事務所の社長と、そこに所属するアーティストという関係だ。そして、離婚に向けて話しあわれているとは言っていたが、榊原には妻がいて、まだ幼い子どももいる。
今の榊原は、恋してはいけない相手なのは間違いない。
「どうして、アタシは、まともな恋ができねえんだろうな」
玲音は、ため息とともに呟いた。
榊原は、「自分の気持ちを整理する」とは言ったが、仮に榊原も玲音のことを好きだと言ってくれたとしても、大っぴらにつきあうことはできない。
それに、「不倫をする男は嫌いだ!」と大見得を切った手前、奏にどんな顔をして会えば良いのだろう。
「やっぱり、諦めなくちゃいけないのかなあ」
玲音は、榊原とのことは、一夜の過ちとして忘れることができるだろうかと考えた。
目覚まし時計が鳴った。
結局、眠れなかった玲音は、すぐに起き上がり、シャワーを浴びてから、朝食の準備を始めた。警官だった父親の言いつけで、朝食だけはしっかりと食べることが習慣となっていて、いつもネットゲーム「イルヤード」を夜遅くまで遊んでいる琉歌の分の朝食も併せて作ると、琉歌の分のおかずをお盆に載せて、隣の琉歌の部屋に行った。
ノックもせずに、合い鍵でドアを開くと、「おはよう~、お姉ちゃん~」と、珍しく起きて、パソコンの前に座っていた琉歌が挨拶をした。
「あれっ、まだ寝てなかっかのか?」
「えへへ、今日、日曜日で株取引もないから、ずっと、イルヤードをしてた~」
「ああ、そうか」
キッチンにお盆を置くと、玲音は、琉歌の後ろに立ち、パソコンの場面を見た。
そこでは、琉歌のアバター「ルカ」が、魔法使いのような姿のアバターと一緒にベンチに座っていた。
「お姉ちゃん。この人が、楢崎さんだよ~」
「ああ、あのイルヤードの会社にいた?」
「うん」
「じゃあ、デート中だったのか?」
「ずっと話をしていただけだよ~。ボクも知らないイルヤードの情報を知っているし~、やっぱり、お互いにイルヤードが好きだから~、いろいろと話をしていると面白いんだ~」
琉歌が、玲音からディスプレイに体を向け、『今、お姉ちゃんがやって来たから、ちょっと、待っててね』とチャットを打ち込むと、すぐ、その下に『本当に?^^;』と表示された。
「楢崎さんに、アタシが『妹がいつもお世話になってます』って言ってるって伝えてくれ」
玲音の言葉を、琉歌がチャットに打ち込むと、『こちらこそお世話になっています^^;』と返ってきた。
「琉歌。楢崎さんとは、実際に会わないのか?」
「うん。楢崎さんもリアルで女性と話をすることに慣れていないんだって~」
「そうか……。じゃあ、バイトに行ってくるからな」
「うん、行ってらっしゃ~い」
琉歌の部屋を出た玲音は、さっきまでの、女としての自分から、姉としての自分に変わっていた。
「あの時」以来、女であることを捨てている琉歌が、パソコン越しではあるが、話ができている男性である楢崎との仲を何とかしたいと思った玲音であった。




