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Act.106:一夜の過ち

 玲音れおは、榊原さかきばらと一緒に、駅近くの焼き鳥屋に入った。

 狭い店内に、ひしめき合うようにテーブルと椅子が置かれ、二人は、たまたま空いていた店の隅っこにある席に向かい合って座った。

 今日は土曜日で、店の中は仕事帰りのサラリーマンらしき中年男性で溢れていて、ノーネクタイにブランド物のジャケットを羽織った榊原と、見た目は麗しい玲音の二人は否応なしに注目を浴びていたが、そんなことを、いちいち、気にする二人ではなかった。

「今日は、フランス料理じゃないんですね?」

「おや、そっちの方が良かったかい?」

「いえ。アタシも、飲めるんなら、どこでも良いすよ」

「ははは。釣った魚には餌はやらないのかと、叱られるんじゃないのかと思ったよ」

「榊原さんもそういう人なんですか?」

「餌にもよるね。自分が食べたい餌なら、一緒に食べるよ。さっきまで贅沢な料理を食べていたので、今は焼き鳥を食いたくなったんだ」

 店員が大ジョッキになみなみと注がれた生ビールを持ってくると、二人は、早速、乾杯をしてジョッキを傾けた。

 玲音が喉を鳴らしながらジョッキを半分ほど空けてから、ジョッキをテーブルの上に置くと、榊原のジョッキは既に空になっていた。

「いやあ、やっぱり、気兼ねなく飲める酒は美味いよ」

 自分と一緒にいて、気兼ねをすることはないと言われたことで、玲音は、何だか嬉しくなった。

「そういえば、もう、だいぶ前になりますけど、榊原さんと最初に会った時のこと、憶えていますか?」

「江木田駅前のコンビニだったっけ?」

「そうです。割り込んできたチャラ男を榊原さんが注意してくれたんです」

「そういえば、そんなこともあったね」

「榊原さんのご自宅は、江木田なんですか?」

「いやいや、あの時は、江木田にある知り合いの家に行った帰りだったんだ。私の自宅は目白だよ」

 玲音は、江木田のコンビニに榊原がやって来た時、榊原が運転する車の助手席に女性が乗っていたことを憶えていた。それが榊原の奥さんなのか、さっき話に出た「知り合い」なのかが気になったが、面と向かって訊くことはためらわれ、別の話題を振った。

「ご自宅が目白だったら、池袋に会社を置いた方が、通勤が楽なんじゃないないですか?」

「それはそうだけど、音楽シーンの中心となると、やはり、渋谷なんだよね」

 池袋、新宿、渋谷の三つの副都心は、山手線の東側の繁華街である銀座や上野、日本橋などと比べると、若者の活気が溢れている所だ。中でも、渋谷は、その特徴が顕著で、「若者の街」などと言われ、いろんな最先端の情報が発信されている。

「渋谷に本社を置いておくことで、音楽シーンの動向だけではなく、若者が発信している、いろんな情報を見落とさないようにしたいんだよ」

「なるほど。でも、飲みに来るのは池袋なんですね?」

「自分の出身大学が池袋にあって、我が青春を謳歌した街でもあるからね。家が目白ということもあり、夜に出没するのは池袋がほとんどだね。そういう玲音君は、どうして池袋の沿線で暮らしているんだい?」

「渋谷は、ちょっと家賃も高いんすよね。それに、実家が埼玉なんで、学生の頃、東京に遊びに行く時には、池袋に行くことがほとんどだったんすよ」

「なるほど。やっぱり、遊びに行き慣れた所に、何となく行ってしまうよね」

「そうすね」

 その後も、音楽との関わりの始まり、バンドの遍歴、好きなミュージシャンの話とどんどんと話は弾んで、それとともに、二人とも酒量が多くなってきた。それに伴って、話題もお互いのプライベートに関するものになっていった。

「榊原さんは、奥さんとお子さんがいらっしゃるんですよね?」

「そうだよ。妻とは学生時代に知り合って、卒業してすぐに結婚したんだよ。子どもはしばらくできなかったんだけど、三十歳を超えて、やっと女の子が一人できてね。今は幼稚園に通っているよ」

「でも、榊原さんも忙しくて、毎日、帰るのは遅いんじゃないですか?」

「そうだね。今日みたいな接待の日は尚更だね。でも、私も酒が好きなので、接待で思い切り飲めなかった時には、一人で飲み直すこともよくあるんだ」

「ぼっちさけすか? アタシも以前はよくしてたなあ」

「最近はしないのかい?」

「今のメンバーとは、スタジオリハの後に、毎回、宴会してますから」

「なるほど」

「メンバーといえば、律花りっかの話があるんじゃなかったでしたっけ?」

「ああ、そうだった! 気持ち良く飲めてるので、すっかりと忘れてたよ」

 榊原が座ったまま、椅子をテーブルに近づけると、玲音も同じようにした。身を乗り出すようにしている榊原の顔がすぐそこにあった。

「律花君の性格は、玲音君ももう分かっているだろうが、少なくとも、周りの人達との関係を壊すような人間ではない。そこは分かってほしい」

「それは、もう分かってますよ。おシオちゃんだって、それが分かったからこそ、正式メンバーになってもらいたいって言ったと思います」

「そうか。それを聞いて安心したよ。それで、昼間もちょっと訊いたけど、おシオ君が四人以外のメンバーの加入を許すようになったのは、何か、きっかけがあったのかい?」

「おシオちゃんもビジネスとして、このバンドの発展を考えるべきだという考えに変わってきているようなんです。きっかけが何かは、アタシらもよく分かりませんけど、おシオちゃんもいくつかライブを成功させて、自信も付いてきたようだし、ロクフェスでのステージで、それまで自分を束縛してきた殻を破ったようなことも言ってましたね」

「なるほどね。まあ、本人に訊くのが、手っ取り早いんだが、私も何だか意識してしまって、訊きづらいんだよね」

「ひょっとして、榊原さんもファンだったんすか?」

「ははは、さすがにそれはないけど、何と言っても桜井さくらい瑞希みずきだよ。かつてのトップアイドルで、しかもそれをまだ秘密にしている。ミズキのママさんの手前もある。正直、やりにくいことは確かだよ」

「そんなもんすかねえ。アタシらは、もう、桜井瑞希なんてアイドルは、この世に存在しないと思ってますけどね」

「まあ、私の意識の持ち方次第ということだよ。とりあえず、律花君が加入したクレッシェンド・ガーリー・スタイルを見てみたいから、スタジオリハをまた見せてもらうよ。今度の月曜日、竹内君が行くと言っていたから、一緒にお邪魔をすることにしようかな」

「ああ、ぜひ! また、第三者的な意見も聞いてみたいすから」

「そうだね」

 その後、話題は、また他愛のないものになり、二人は浴びるように酒を飲んだ。焼き鳥屋の主人も呆れて、ストップを掛けたほどであった。

 勘定を済ませた榊原と玲音が外に出ると、ネオンサインが輝く街は、まだ眠る時間ではなかった。

「よしっ! 次、行こう! 玲音君は、日本酒は飲めるかい?」

 榊原は、まだ飲み足らなかったようだ。

「普段は、全然、飲まないすけど、飲めないことはないっす」

「日本酒の美味さを知らないなんて、もったいない! じゃあ、各地のいろんな地酒を飲み比べできる店があるから、そこに行ってみるか?」

「良いすよ」

 焼き鳥屋を出た玲音と榊原は、肩を組んで、夜の池袋を彷徨った。



 玲音が目覚めた時、見覚えのない天井が見えて、自分がどこにいるのか分からなかった。

 大きなベッドに横になっていることが、まず、分かり、灯りが点きっぱなしの部屋を、目だけを動かして見ると、豪華なようで、どこか安っぽい雰囲気だった。

 酒を飲んで、記憶を失うなんてことは初めてだった。

 そのまま、視線を右に向けると、そこには男が横になっていて、寝息を立てていた。

 知り合った男とその日にホテルに行くことは、最近はしていなかったなと思いながら、横の男性にもう一度、目をやった。

「えっ?」

 仰向けで眠る男性は、間違いなく、榊原だった。

 焦った玲音は、胸元までを隠してくれていたシーツをめくってみた。

 全裸だった。ということは……。

 玲音の頭に、すぐにかなでの言葉が浮かんで来た。

「榊原さんには、奥様もお子様もいらっしゃるんだからね!」

 それに対して、玲音も「不倫をする男は嫌いだ」と言い切っていた。

 今、自分がその不倫を冒してしまったことに、玲音は、猛烈な後悔と罪悪感、そして自己嫌悪で押しつぶされそうになった。

「う~ん」と、うめいた榊原が目を覚ました。

「あれっ、ここは?」

 上半身を起こした榊原の逞しい胸板を見て、玲音の記憶が少しだけ蘇った。

 日本酒が美味い店に行こうという榊原について行った後、そこでも痛飲して、ほぼ酩酊状態になった二人は、理性を次第に失ってきていたのだろう。

 それは、玲音が密かに持ち続けていた、榊原に対する好意を隠すことを拒むようにさせていった。

 そもそも、江木田のコンビニでチンピラを追い払ってくれた時から、玲音は、榊原に好意を抱いていた。

 しかし、榊原は、プロデビューをしたかった玲音の夢を叶えてくれるかもしれない芸能音楽事務所の社長として、再び、玲音の前に現れた。そんな榊原と個人的に親しくなることは、枕営業で掴んだプロデビューかと噂されるようで嫌だったし、玲音の中で榊原は、ビジネスパートナーという意識に変わっていった。

 また、奏からも、榊原は既に家庭を持っている男性で自由に恋愛ができる相手ではないと釘を刺されていたし、玲音自身も不倫をする男は、女をぞんざいに扱う男だと嫌悪していたはずだ。

 しかし、酒のせいで理性を失った時、最初に感じた好意がこういう結果を許してしまったのだろうか?

「玲音君……。そうなのか?」

 榊原もはっきりと憶えていないようだが、今の状況からすれば、二人があらぬ関係になってしまったことは間違いないようで、はっきりとは言わなかったが、榊原の問いはそういうことなのだろう。

「アタシもよく憶えてなくて……、でも、たぶん、そうだと」

 玲音と榊原は、ベッドの上でしばらく見つめ合うことしかできなかった。

 

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