Act.105:プロとしての心構え
十一月一日、土曜日。午後五時。
午後三時までのコンビニのバイトを終えた玲音は、渋谷のエンジェルフォール本社を訪れていた。
まだ、CDデビュー前であるが、ここに所属しているアーティストであることには違いなく、今日も、社長の榊原から呼び出しを受けていたのだ。
会社の受付に寄ると、すぐに社長室に案内された。
「どうぞ」と言って、玲音に応接セットのソファを勧めた榊原の隣に、女性が一人座った。
「紹介するよ。これから、クレッシェンド・ガーリー・スタイルのマネージャーをしてもらうことになった、竹内千晶君だ」
「竹内です。よろしくお願いします」
スカートスーツをパリッと着こなし、黒髪をアップにして髪留めで止め、細身の眼鏡を掛けていて理知的に見える女性が、キリッと背筋を伸ばして、しなやかにお辞儀をした。
「ど、どうも。でも、まだ、デビューもしていないアタシらに、マネージャーって?」
「我が社も、小さな音楽芸能事務所とはいえ、それなりにアーティストを抱えていてね。社長の私が特定のアーティストに付きっきりという訳にはいかないんだよ。そんな噂が立つと、他のアーティストは面白くないからね」
「何か言われたんですか?」
「そこは、君達が気にすることじゃないよ。この竹内君は、これまで、何組ものアーティストのマネージャーを担当してもらっているベテランだから、どんどんと頼ってもらって良いよ」
ベテランというわりには、竹内はまだ若く、奏より少し上くらい、三十歳台前半に見えた。
「萩村さん」
「はい」
呼ばれ慣れていない名字で呼ばれて、少し堅苦しい感じもしたが、玲音は素直に返事をした。
「前回のスタジオ代、まだ、精算が済んでいませんから、至急、請求書を出してください」
事務的な物言いに、玲音も竹内の人となりが何となく分かった。
「す、すみません。そうでしたね。いつもの癖で、自分達で払ってしまいました」
ビートジャムのスタジオ代は、会社で払ってくれることになっていたが、気づかずにそのまま自分達の「会計」から支払ってしまっていた。
「請求を放棄するのであれば、それはそれで結構ですが?」
「い、いえ、せっかくですから、ビートジャムから取り戻してきます。請求書があれば良いんですよね?」
「そうです。できるだけ早くお願いします。遅くなると、経理の担当者が良い顔をしませんから」
「わ、分かりました」
恐縮してしまった玲音だったが、「まあまあ。まだ、所属してもらったばかりなんだから」と助け船を出してくれた榊原が、竹内に顔を向けた。
「私が言うまでもなく、竹内君なら分かっているだろうが、一度、クレッシェンド・ガーリー・スタイルの音を聴いておくように! 自分の担当するアーティストの売り込みをする際に、そのセールスポイントが分からないといけないだろうからね」
「はい。では、来週、月曜日のスタジオリハに同行いたします」
「それが良いだろう。玲音君、ということだから」
「ビートジャムにご案内した方が良いですか?」
「いえ、ビートジャムなら何度も行ったことがありますので、大丈夫です」
「分かりました」
竹内の話が一段落すると、榊原が少しソファから身を乗り出しだした。
「今日、玲音君に来てもらったのは、竹内君を紹介することの他に、もう一つ、話をしたいことがあったんだ」
「何ですか?」
「律花君を正式メンバーとして受け入れてくれることになったらしいじゃないか?」
「ああ、そうっす。おシオちゃんの鶴の一声で決まったようなもんですけど、アタシらもおシオちゃんが気持ち良く歌えるためだということで、納得してます」
「そうか。いや~、良かった。律花君もああいう性格だから、君達が受け入れてくれるかどうか、正直、不安だったんだ。しかし、おシオ君は、以前には他にメンバーを加えることに対して強行に反対したと聞いていたんだが、何か心境の変化があったのかな?」
「それは」
玲音が言い掛けるとすぐに、竹内が「社長! そろそろ、ポリーレコードの齊藤様がお見えになる時間です」と事務的に告げた。
「ああ、そうだった。玲音君、この話は後日に」
「はい」
「あとは、竹内君から事務的な話があるそうだから、聞いてもらえるかな」
玲音は、竹内とともに社長室から出ると、事務室の隅っこにある小さな打ち合わせスペースに移動した。
音楽芸能事務所に所属したとはいえ、まだデビューもしておらず、会社に何の貢献もしていない玲音達は、何から何までマネージャーや付き人がやってくれるという身分ではなく、事務的な手続を竹内がする上で必要な書類などは自らが竹内に提出しなければならなかった。
その説明を受けていると、「お疲れ様です!」という社員の声が相次いで起きた。顔を上げてみると、榊原が先ほど言っていた来客とともに会社から出て行っていた。
榊原は愛想笑いを浮かべていて、どうやら、これから接待をしに行くようだ。
「榊原さんも大変ですねえ」
社長というと、机にふんぞり返って座り、部下が持って来た書類にポンポンと印鑑を押せば済む、気楽な職業だと思っていた玲音は、先ほど社長室で何気なく見た、榊原のスケジュールが書かれたホワイトボードに予定がびっちりと書かれていたことや、いくら酒が好きでも接待だと自分が酔っ払うこともできないのだから、美味しく酒を飲むこともできないだろうなと、酒好きな玲音らしい感想を持ったりして、社長業というのも、けっこう大変なんだなと、認識を新たにしていた。
「社長は、この仕事が好きで、熱意を持ってやられていますから、ご自身は大変だとは思われていないと思いますよ」
竹内が言うことは、そのとおりだろう。榊原の熱意は、玲音にもビシバシと伝わってきていた。
「こちらの話を続けてよろしいですか?」
榊原の顔を思い出していた玲音に竹内が声を掛けた。
「あっ、はい」
「これは飽くまで、まだ予定ですので、このとおりになるとは限らないことは、ご承知おきください」
「はい」
「十一月十二日のヘブンス・ゲートでのライブの後には、社長の方から曲作りを優先させてくれという指示を受けていますので、しばらく、ライブの予定を入れないようにしています。今年いっぱいで曲作りを終え、来年一月からはデビューCD制作に入ります。十二月中にはオリジナル曲をすべて仮録りした上で、一月下旬までには、メンバーとスタッフとで収録曲を決めて、順次、正式な録音をしていきます。二月中旬か下旬頃には発売できると思います」
ついにCDデビューの話が具体的になってきて、玲音も、内心、舞い上がるものがあった。
「しかし、曲作りを優先するとしても、まったくライブをしないと、今、せっかく付いてくれているファンの皆さんが離れてしまいますから、十二月二十四日、クリスマスイブの日にライブを入れたいと思います。そこは、CDの収録予定曲を披露するプロモーションの場になる予定です」
「ライブの場所は?」
「イブの日には、あちらこちらで多くのイベントが開かれますから、そのうちのどれかに出演できるように、現在、内部で調整中です」
「内部って?」
「うちに所属しているアーティストから誰を出演させるかについて、まだ、検討中ということです」
アーティストもある程度有名になると、イベントへの出演も名指しでされることが多いが、売り出し中の新人の場合には、音楽芸能事務所がイベントやコンサートなどの出演枠を確保した上で、所属しているアーティストのスケジュールの空き具合や、そのアーティストがイベントの趣旨と合致するかどうかなどを判断しながら、誰を出演させるのかを決めて行く。
同じエンジェルフォールに所属しているアーティストは、仲間でもあるが、ライバルでもあるのだ。
「決まったら、萩村さんにご連絡します」
「あ、あの、竹内さん」
「何でしょう?」
「アタシもあまり名字で呼ばれ慣れていないんで、できれば、『玲音』と名前の方で呼んでくれないすか? 榊原さんもそう呼んでくれていますし、メンバーには妹もいて、『萩村』さんと呼ばれると、妹との区別がつかないんで」
「分かりました。では、『玲音さん』と呼ばせていただきます」
竹内の話し方は、感情の起伏に乏しく機械的な感じがしたが、説明は分かりやすく、さすが榊原が太鼓判を押すだけの人物だと感心した。
竹内との打ち合わせが終わり、エンジェルフォール本社を出た玲音は、せっかく渋谷に来たのだからと、いろんな洋服屋をウィンドウショッピングで回ってから、電車で池袋駅まで戻ってきた。
池袋駅から自宅最寄りの江木田駅まで十分もあれば戻れるが、時間は既に午後九時を回り、小腹が空いた玲音は、牛丼屋にでも入ろうかと、一旦、駅から池袋の街に出た。
「玲音君じゃないか」
玲音が振り向くと、榊原がいた。少し目尻が下がっていて、珍しく酔っ払っているようだった。
「榊原さん、どうしたんですか?」
「いや~、さっきまでレコード会社の担当者と一緒にいたんだけど、こいつが酒が強くてね。私も久しぶりに飲み疲れたよ」
「榊原さんが酒のことで泣き言を言うなんて珍しいすね」
「いやいや、本当だよ。もう歳かな」
と言う榊原は、まだ三十四歳で、「歳だ」というような年齢ではなかった。
「玲音君は?」
「竹内さんとの打ち合わせが終わった後、ちょっと渋谷をぶらついてから、今、池袋にたどり着いたところです。腹が減ったんで、何か食べようかと思って」
「そうか。じゃあ、これから一緒に食べに行くか? もちろん酒付きで」
「これから?」
「何か用事があるのかい?」
「いや、何もないっす」
「じゃあ、昼間、言い掛けていた律花君のことも訊きたいから、つきあってもらえるかな?」




