Act.097:殻を突き破れ!
第三ステージのトップバッターのバンドの演奏が終わり、入れ替えで、詩織達がステージに上がった。
ライブハウスと違い、セッティングの様子も丸見えだった。
客席もよく見えて、始まった時よりも観客は増えていたが、広い芝生の客席の開放的な空間にばらけるように座っていた。
準備を終えた詩織が、追加した奏のキーボードのPAチェックをスタッフがしているのを眺めていると、客席でざわめきが起きた。
正面に向いて見ると、歩いている人の周りに人垣ができていて、その人ごと人垣が移動していた。その人垣の中心にいたのは、誰あろう、ホットチェリーのボーカル芹沢勇樹だった。人垣の中には記者もいるようで、いくつかのIC録音機が芹沢に向けられていた。
「何だ何だ? あれ、ホットチェリーのボーカルだよな?」
「そうですよ。東京に帰る時間まで、この会場を回るって、昨日、言ってましたから、ちょうど見に来られたんですね」
玲音は詩織の顔を見ながら訊いたのだが、たまたまステージにいたスタッフの男性が嬉しそうに答えた。
ファン向けのパフォーマンスという意味合いもあるのだろうが、駆け出しのミュージシャンにとって、神様のようなアーティストが自分達のライブを見てくれることは、喜び以外のなにものでもないだろう。
もっとも、クレッシェンド・ガーリー・スタイルのメンバーは、昨日、ホットチェリーと自分達のバンドは違った道を歩むから、そもそも追い掛けるべき存在ではないと認識を新たにしていて、芹沢が見に来たからといって、舞い上がることはなかった。
しかし、詩織は足が震えているのが分かった。それは芹沢のせいではなかった。
詩織は、芹沢に寄り添うようにして立っている女性から目が離せなかった。
奏が詩織の側に駆け付けてきた。
「詩織ちゃん! 大丈夫?」
奏もその女性が誰か分かったのだろう。だから、詩織のことが心配になったのだ。
「どうした?」
詩織と奏の様子がおかしいことに気づいたのか、玲音が詩織達の元にやって来た。
「あの、ホットチェリーのボーカルの隣にいる人、詩織ちゃんのお母さんなの」
「えっ? マジで? でも、どうして?」
驚いて客席を見た玲音は、「榊原さんもいるじゃん」と言った。
芹沢と詩織の母親の近くには、榊原がいて、芹沢に何かを熱心に話していた。
芹沢が、この第三ステージを見に来るということは、事前に知らされていたが、この時間、すなわち、クレッシェンド・ガーリー・スタイルのステージを勧めたのは、おそらく、榊原だろう。
芹沢がお気に召してくれたら、ホットチェリーのバックアップが得られるかもしれない。玲音との交渉の様子から、エンジェルフォールに所属してくれることを確信した榊原は、もう、クレッシェンド・ガーリー・スタイルの将来展望を考えているのかもしれなかった。
「詩織ちゃんのお母さんは銀座でクラブを経営していて、榊原さんもそこの常連みたいなの。そこは芸能関係者が多く出入りしているみたいだから、ホットチェリーのボーカルさんもお客さんなのかもね」
「そうだったのか」
玲音は、そう言って、詩織を心配そうに見つめた。
詩織が母親と絶縁状態なのは、メンバーみんなが知っていることだ。その母親は、今、目の前のステージに立っているのが娘だと、まだ気づいていないようで、ステージを見つめることなく、隣の芹沢にしなだれかかったりして、まるで芹沢の愛人のような振る舞いをしていた。
芹沢には、糟糠の妻と既に大きくなっている子どもがいたはずだ。一方の母親も父親に復縁を持ちかけているような話をしていた。
詩織の心に怒りが噴き出てきた。それとともに、足の震えも収まった。
「玲音さん! 奏さん!」
自分の側にやって来てくれた二人を、詩織は、母親から視線をはずさずに呼んだ。もっとも、その口調は穏やかだった。
「私は、クレッシェンド・ガーリー・スタイルの桐野詩織ですよね?」
「ああ、そうだぜ」
「昨日、話したみたいに、ホットチェリーは私の憧れでしたけど、同じバンドの道を歩み出した私にとっては、やってる音楽もバンドのコンセプトも全然違うバンドで、追い掛けるべき存在でもありません。今、目の前にいるのは、音楽では尊敬すべき先輩ですけど、只の男に過ぎませんでした」
「詩織ちゃん……」
「私なら大丈夫です!」
自分に気合いを入れるように言った詩織の肩を奏が揺さぶり、玲音が背中をポンと叩いた。ふと後ろを見ると、ドラムセットに座っている琉歌がスティックごと両手を振っていた。
「よっしゃ! 行くぜ! ホットチェリーに喧嘩を売ったろうじゃねえか!」
玲音と奏が自分の立ち位置まで戻ると、玲音がPAスタッフに準備が終わったサインを送った。
運営スタッフの女性アナウンサーがステージの袖に立った。
「次のバンドをご紹介します! 女性四人組のロックバンド! クレッシェンド・ガーリー・スタイルです!」
琉歌のカウントが広い会場に響いた。
詩織は、芹沢が目を見開いて、自分達を見ているのが分かった。
母親も、歌声を聞いて、ステージにいるのが、詩織だと分かったようだ。そして、その二人の隣では、榊原がどや顔でいた。
芝生の観客席の思い思いの場所に座っていた観客が一人、また一人と立ち上がり、ステージに近づいて来た。第一ステージとは違い、ステージ前も指定席ではなく、始まる前から、既に三十人ほどの観客が詰めかけていて、今は体を揺すりながら、腕を振り上げていた。まさに、クレッシェンド・ガーリー・スタイルのファンと呼べる存在がはっきりと確認できた。
それだけ冷静でありながら、詩織はいつも以上にパワーが出ている気がした。今、目の前にいる母親に、自分が選んだ道が間違いではなかったことを見せつけられていることが心地良かった。しかも、それに驕ることなく、目の前で応援してくれているファンの存在と、少しずつステージ前に集まりつつある観客達に、はっきりとした手応えを感じて、それが自信となって、迷いや嫌な思い出を吹き飛ばしてくれた。そして、それだけステージに専念できた。
一曲目のアップテンポなナンバー「ロック・ユー・トゥナイト」が終わり、客席から大きな拍手が起きた。
「どーもー! クレッシェンド・ガーリー・スタイルでーす!」
玲音のMCもいつもどおりの調子だった。
「アタシら、この春に結成して、プロを目指して、東京で活動してます! 動画なんかも上げているので、興味がわいたら、ぜひ覗いてみてください!」
客席からは「見てるぜ!」との声も上がった。
「ありがとう! それはそうと、客席にいるのは、ホットチェリーの芹沢さんじゃないすか?」
玲音が目の上に手をかざすようにして言うと、芹沢は笑顔で大きく手を振った。
「うちのステージを見に来てくれてありがとうございます! ぜひ、楽しんでいってください! でも!」
玲音は、にやりと笑って、言葉を続けた。
「うちのボーカルは、はっきり言って、芹沢さんに負けない、素晴らしいボーカリストですから! ぜひ、アタシらに嫉妬してください!」
大スターに喧嘩を売るような玲音のMCに、榊原がアタフタしている様子が見えたが、当の芹沢はまったく気にしているようではなく、笑顔で、ステージに向けて右手の中指を立ててみせた。それは、芹沢がいつもステージで見せているお得意の煽りのポーズだ。
「おシオちゃん! 負けねえぞ!」
「はい!」
次の曲が始まるまでの一瞬の間で、玲音とそう言葉を交わした詩織は、更に火が着いた。母親のことも芹沢のことも、観客の一部としか見えなくなった。
次の曲は、ポップな曲調の「扉を開いて」で、詩織も一曲目よりは、可愛げのある声で歌ったが、かといって、それは桜井瑞希の声ではなかった。
詩織自身は恋愛の経験もほとんどなく、椎名から告白されたり、響からも好意を持っているようなことを言われていたが、二人に対して恋愛感情を持っているかどうか、自分でははっきりと分からなかった。しかし、恋に対する憧れは普通の女の子並みにあった。それを素直に歌詞にしただけなのだ。作られた可愛さではなく、女子高生「桐野詩織」の等身大の姿がそこにあった。
ラストナンバー「シューティングスター・メロディアス」が始まった頃には、ステージ前には、百人以上の観客が詰めかけていた。
歌が終わってからの大ラスには、詩織も玲音に煽られて、広いステージを駆け巡りながら、ギターを思い切り弾いた。キーボードの近くまで来て、奏とアドリブのソロ合戦をした後、再び、たたみ掛けるようなギターソロで会場の興奮を最高潮にまで引き揚げた。
詩織のギターソロが終わった後、阿吽の呼吸で、玲音が琉歌に合図をして、一旦、リズムを止めた。そして、琉歌のドラム連打に併せてメンバー全員が楽器をかき鳴らし、最後は、玲音の「行くぜ! せーの!」のタイミングで、メンバーと客席が一体となってジャンプして、曲は終わった。
客席から大歓声が上がった。
今まで、ライブが終わった直後は、いつも、感謝と感激の涙が出て来ていた詩織だったが、今日は晴れやかな気分でいっぱいだった。
詩織は、ステージの上から、芹沢と母親に向けて拳を突きつけた。
自分を生んだ母親と、ロックミュージシャン桐野詩織を「生んだ」芹沢に、今の自分を見せつけたことで、一つ何かの殻を破った気がした。
詩織の引退に最後まで反対をした母親は何も言えないだろう。
「どうも、ありがとうございましたー! クレッシェンド・ガーリー・スタイルでしたー!」
玲音が最後の挨拶をすると、芹沢がゆっくりとステージに向かって歩いて来ているのが見えた。ステージ前に集まっていた観客も、芹沢を通すために脇に寄り、自然にできた道を、芹沢が悠然と歩いて来ていた。取り巻きの記者やスタッフもぞろぞろとついて来たが、芹沢はそんな連中に構うことなく、ステージ横の階段から一人、ステージに上がって来た。
玲音のMCで馬鹿にされたと怒っているのか、その表情が険しかった。
しかし、唖然として、まだステージの真ん中に立っている詩織の近くまで来ると、一転、人懐っこい笑顔を見せた。
「あんたらが言ったとおり、お嬢ちゃんの歌に嫉妬しちまったぜ。それに、売られた喧嘩は買わなくっちゃな」




