Act.006:過去の栄光と後悔の今
池袋駅に近いビルの一階にあるコーヒーショップ。
奏は、二人掛けの小さな丸テーブルに頬杖を着いて、空のコーヒーカップを見つめていた。
私服では、もうそろそろ年齢的に厳しいという現実に目をつぶって、ヒラヒラのフリルが付いたメルヘンチックな服を好んで着ていたが、仕事帰りの今日は、胸元にリボンが付いた白いブラウスにダークグレーのスカートスーツ、黒ストッキングに黒いハイヒールパンプスという、仕事をしている女性の定番スタイルで決めていた。
聡史と午後八時にここで待ち合わせの約束だったが、聡史は約束の時間である午後八時になっても現れなかった。
聡史も出会った頃は、待ち合わせをしても、定刻の十分前までに来ていたが、次第に遅くなり、最近は十五分くらいの遅刻は当たり前であった。
始まりは、聡史から声を掛けられたことだった。
ナンパなど久しぶりだった奏が、お茶でもと言う聡史の誘いを受け入れ、このコーヒーショップに入ったのが二か月ほど前。
証券会社に勤めていると自己紹介した聡史は、ブランド物のスーツを着こなし、髪型も清潔そうで、何よりもイケメンだった。何の疑問も持たず、その日のうちに、奏は聡史とアドレスを交換した。
つき合い始めた二人だったが、奏は聡史のことをほとんど知らなかった。
仕事中は私的な電話はできないと言って、連絡は必ずメールでするように言われていたし、会社の連絡先も教えられていない。また、顧客以外に名刺を渡すことも悪用防止のために禁止されていると言われて、名刺も渡されていない。
一方で、奏は聡史から訊かれるままに自分のことを正直に話していた。
奏は、池袋周辺では一番大きな楽器店である山田楽器店でピアノ講師をしている。基本給の他に月謝という形で入って来るピアノ教室のレッスン料の半分が奏の収入だ。生徒の増減により月収は変動してしまい、一般社員のように固定的な給料がもらえる訳ではないが、その店の店長よりも多くの収入を得ていることは確実で、生活にも余裕があった。
最初は、デートのお金も聡史が出していたが、次第に、奏に支払いを任すようになった。更には、金曜日にカードや財布を会社に忘れてきてしまったから月曜日に会社に行くまでの間の生活費だとか、どうしても買いたいものがあるけど給料日前で苦しいとかの理由を付けては、二、三万円というお金を奏から借りるようになった。もちろん、まだ、返してもらっていない。
そして、今日、顧客への賠償として十万円を借りたいと言われた奏は、ここに来る途中で銀行のATMでお金を卸して来ていた。
さすがに奏も怪しいと感じていたが、聡史の頼みを断り切れなかった。
腕時計を見れば、午後八時十五分。奏は、そろそろ聡史が来る頃かと思い、周りを見渡してみた。
隣の四人掛けテーブルは空いていたが、その他のテーブルでは、カップルが幸せそうな笑顔を振りまいていた。
――自分と聡史は、あのカップルみたいに笑うことができるだろうか?
否! もう、出会った頃のように笑うことができなくなっている気がしたし、実際、最近は、聡史の前で笑っていない。
かと言って、聡史が好きなのは、奏の持っているお金で奏自身ではないと言われる時が来ることが怖かった。だから、面と向かって、そんなことは訊けなかった。
週に何回か会って体も重ねていても、奏はいつも怯えていた。
――いつまでこんな気持ちのままでいなきゃいけないの?
今日、このまま、聡史が来なければ良いと思った。別れの言葉を聞かずに、お互いに会えなくなってしまうようになれば、どれだけ気が楽だろう。しかし、そんなことはあり得ない。別れたくなければ、聡史の言うことを聞き続けるしかない。
すべてを放り出して、新潟の実家に帰り、親が勧めるお見合いを受けてみようかという考えが頭の隅っこにわき上がったが、奏はすぐにその考えを振り払った。
それは、自分が今まで東京で頑張ってきたことのすべてを無駄にしてしまう気がして、受け入れたくなかった。
空いていた隣の席に楽器を持った女性三人がやって来た。
もっとも目立っていたのは、黒髪ロングに一筋の赤いメッシュを入れた女性だ。美しい顔立ちがスタイルの良さと相まって、ファッションモデルのようなオーラが放たれていた。
奏と並ぶようにして座ったその赤いメッシュの女性の隣には、金髪ショートの女性が座った。その女性は、ダブダブのオーバーオールジーンズを含め、全体的にワンサイズオーバーと思われる服を着ていて、ちょっと下がり気味の目とともに、ふわふわとした独特の雰囲気を醸し出していた。ノーメイクが逆に若く見えて、ひょっとしたら十代かもしれないと思えた。
一方、その二人の女性と向き合うようにして座った黒髪ショートの女の子は、明らかに十代だと分かった。自分のピアノ教室にも女子高生の生徒さんが何人もいる。その子らと同じくらい若さが弾けているようで、見ていて眩しかった。
もっとも、眩しかったのは、その女の子の若さだけではなかった。奏の斜め向かいという位置に座ったその女の子は、とにかく半端なく可愛くて、百合趣味のない奏も側に侍らしておきたいと思ったくらいだ。
きっと、世の中の男子の寵愛を一身に受けているのだろうなと思ったが、格の違いのようなものを感じて、不思議と妬みの感情はわき上がらなかった。
それよりも、奏は、その女の子を以前にどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。しかし、その記憶の元を容易くたぐり寄せることができなかった奏は諦めて、視線を三人が持っていた楽器に移した。それぞれが椅子の近くに立て掛けているケースを見ると、黒髪ショートの子がギター、黒髪ロングの子がベース、そして金髪ショートの子がドラムだと分かった。
――バンドかあ。懐かしいなあ。
奏は、現実から目を背けるように、昔の自分を思い出していた。
奏は、幼稚園の頃からクラシックピアノを習っていたが、中学、高校と特に理由もなく親に反抗したくなって、ロックを演奏するようになった。ピアノやエレクトーンをしている人はけっこういるのだが、ロックバンドでキーボードをする人は意外と少ない。だから、奏は引く手あまただったが、それで自分自身がモテているように錯覚をしてしまった。
いや、実際に、奏は男性にモテた。
百五十二センチの小柄な体と可愛い顔立ちで、学生時代は、男の子からは可愛いともてはやされた。顔立ちは、今でも変わっていないと思っている。
中学時代から二十歳代前半までには、何人かの男性から告白もされたし、おつき合いもした。そんなモテ期がずっと続いていると、次第に、もっと自分に相応しい人がいるのではないかと思うようになった。いつか、白馬に乗った王子様がきっと迎えに来てくれる。今、つき合っている彼氏は、それまでの「つなぎ」だなどと思うようになった。何人もの彼氏を作ったが、常に理想を追い求める奏の元からみんな去って行ってしまった。
一方、バンドの方は、高校生活も終盤になると、メンバーもみんな、受験の準備で忙しくなり、自然消滅していった。奏もその頃には親への反抗心も薄れてきて、再びクラシックピアノの演奏を始めた。そして、新潟から上京して音大に進学し、東京で一人暮らしを始めた。
自分が誇れる特技であるピアノの腕前を更に磨くことで、自分のレベルアップとともに恋人のレベルアップが図られると考えた。しかし、音大という各楽器の専門家が集う場所では、自分の実力は、実はそれほどでもなかったということを思い知らされた。世界に羽ばたくピアニストなどという夢は早々に破れ去った。
もっとも、地元に逃げ帰るという惨めなこともしたくなかった奏は、音大を無事卒業すると、楽器店専属のピアノ講師となった。
子供からお年寄りまで、「趣味」でピアノを習っている生徒さんを相手にピアノの基礎を教える毎日。モテる自分なら、いつでも彼氏の一人や二人くらい調達できると過去の栄光に寄りかかっていると、いつの間にか二十歳代も後半のアラサー。再来年には、三十路に突入してしまう。
しかも、実家の農家を継いでいる三つ下の弟が、高校の同級生と結婚をして、あっという間に子供を作ったこともあり、実家からは「結婚はまだか?」とうるさいくらいの催促。
そんなこともあって、三十歳までには結婚をしたいと焦りだすと、見えていたことも見えなくなってしまった。
今まで、いつも男性が側にいたのに、ぱったりと近寄らなくなった。生徒さんや楽器店の店員の十代から二十歳代前半の女性を身近で見ると、敵う訳がないと思い知らされた。
次第に自分に自信がなくなってきた。勝ち組にいたと思っていたのに、いつの間にか負け組になっていた。
そんな時に、声を掛けてきてくれた聡史に舞い上がってしまっても仕方がないことだった。
「奏!」
現実に引き戻された奏は、目の前に聡史が立っていることにやっと気づいた。
「どうしたんだよ? ボ~として」
「ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて」
「まったく! 大丈夫かよ」
聡史は奏の前に座った。
背が高く、イケメンの聡史と並んで歩くと、すれ違う女性達はみんな聡史の顔を見つめながら歩み去って行く。それを感じるたびに自尊心が満たされる。今もコーヒーショップの中の何人かの女性は、ちらちらと聡史を見ていることが分かった。
しかし、それだけだ。聡史とのデートが終わると虚しさしか残らない。
「それで、奏。お金は?」
――やっぱり、聡史が欲しいのは、私ではなくお金なんだな。
分かっていても、目を閉じ、耳を塞ぎたかった。自分でそれを認めたくなかった。
「うん、持ってきたよ」
奏は、ハンドバッグからお金を入れた封筒を取り出し、聡史に差し出した。
聡史は躊躇することなく、その封筒を受け取ると、しっかりと中を確かめてから上着の内ポケットに入れた。
「ありがとう、奏」
「うん、聡史の役に立てることが嬉しいから」
「奏」
テーブルの上で組んでいた奏の両手に聡史の手が重ねられた。
「俺は、もう、奏がいてくれないと駄目なんだ」
――それは金づるとして?
奏は、自分を見つめる聡史から視線をはずして、テーブルの上の手元を見つめた。
「恥ずかしがらなくて良いよ」
奏が視線をはずしたのは照れたからだと思ったのか、聡史は甘い言葉遣いで囁いた。
「じゃあ、行こうか」
先に席を立った聡史は、さっさと店の出入り口に向かった。その背中には、跡についておいでという配慮すら感じられなかった。
席を立った奏は、隣の席で楽しそうに話をしている女性三人組を何気なく見た。音楽やバンドの話題で盛り上がっているのが分かった。
彼女達を少し羨ましく感じた。




