prelude01:桐野詩織
うららかな春の日の朝。
通勤通学時間帯は、各駅停車の電車といえども多くの乗客が座席に座れずに吊革につかまっていた。
詩織は、右手で吊革につかまり、左手で持った文庫本を顔のすぐ近くで開いていた。傍目から見ると、夢中で本を読んでいるように見えるが、文庫本はできるだけ自分の顔を隠すための小道具にすぎなかった。
自宅の最寄り駅から学校最寄りの駅である池袋駅まで三駅しかなく、電車に乗っている時間も実質十分ほどであるが、密閉された空間である電車の中で、昔の自分のことがばれることが怖くて、通学の際にはいつも文庫本を持ち歩いていた。
ふと、目を上げると、電車のドアの上にあるディスプレイで芸能ニュースが流れていた。
メジャーデビューして二十年以上の活動歴を誇る人気ロックバンド「ホットチェリー」が五大ドームツアーの最終日を東京ドームで迎えたとの映像が映し出されていた。
ホットチェリーは詩織も大好きなバンドだ。平均年齢はそろそろ五十歳になろうかというベテランだが、そのメッセージ性溢れる曲は、古くからのファンのみならず、若者からも高い支持を得ていた。
詩織の脳裏に、ホットチェリーがテレビ番組の収録のため、スタジオで生演奏をした時の衝撃が蘇った。
その衝撃が詩織のすべてを変えた。
弾く時間がなくて、ケースに仕舞ったままだったエレキギターを取り出して、毎日、弾くようになった。それまでのような押し付けられた曲ではなく、ホットチェリーのように自分の言葉を自分の旋律に乗せて歌いたくなった。
その欲求は日々大きくなり、詩織はそれに抗うことができなくなった。
そして、それまでの自分に自ら終止符を打った。
――早くバンドをやりたい!
今、ホットチェリーの映像を見て、詩織の中で、また、その想いが大きく燃え盛りだした。
今の詩織を突き動かすエネルギー! それはロックだった!
「ねえ、ホットチェリーと言えば、昨日八時から五チャンネルに出てたよね?」
「ミュージックパワーでしょ? 見た見た! 格好良かったあ!」
詩織の前の座席に座っている女子学生の話が耳に入って来た。
「やばいよ! あんな格好いいおじさんなら抱かれても良いね」
「私も! あと、キューティーリンク! はるちん、可愛かったあ」
詩織は、女子学生二人に気づかれないように聞き耳を立てた。
「でも、私は瑞希ちゃんがいた頃の方が好きだったなあ」
「そうだね。あの頃が最高だったよね」
「瑞希ちゃん、どうして引退しちゃったんだろうな? 私、大好きだったのに」
「精神的にやばかったって、週刊誌に書いてたらしいよ」
「マジで? あの頃のキューティーリンクって、瑞希ちゃんで持ってたようなものだもんね。プレッシャーがあったのかなあ?」
詩織は、心持ち、手に持った文庫本を顔に近づけた。
――まだ、忘れられていなかった。
今まで自分の中で盛り上がっていたバンドへの情熱が一気に冷めていった。
比較されるのが嫌だった。とにかく、昔の自分は無いことにしたかった。
車内が少しだけ暗くなった。詩織が顔を上げると、電車が池袋駅の一つ手前の駅のホームに滑り込んだところだった。
窓ガラスに微かに映る自分の姿。
ショートヘアの黒髪に黒縁眼鏡を掛けて、赤いリボンに襟も白い春用セーラー服。膝上丈の黒プリーツスカートの下は白いソックスと黒いローファー。肩にスクールバックを掛けた、どこにでもいる女子高生の姿。
そこにいるのは、「桜井瑞希」と言う名を捨てた「桐野詩織」と言う只の女子高生なのだ。