うどん屋と短気な少女
またやってしまった、そう思いながら唇を噛むと口の中に少しだけ鉄の味が広がる。それでも、力を弱めることなく噛み締めれば、よりいっそう味が濃くなる。唾でも吐き出せばいいのだろうが、この味から逃げてはいけないような気がして、逆に嚥下する。
いつものように、カッとなってやってしまってから後悔と罪悪感が湧いてくる。最後に謝ったのは聞こえたのかな。どっちにしても、後で謝らなくてはいけないのは変わらないのだけど。
今日の被害者は、多分私より幼い少年だった。初めて店に来たくせに、不思議なくらい落ち着いていたのが気に食わなかった。その後に、ニヤニヤ見られていたのも気になって、ついついやりすぎてしまった。
そもそも、今日は最初から気持ちが立っていたのだ。
朝、冒険者ギルドに行けば好奇の視線を向けられ、そのくせこっちが見ると怖がられた。それくらいならいつものことだし、まだ我慢することができた。
しかし、今日は、顔も知らない人が話しかけてきて、それは仲間内での罰ゲームだという。その男のニヤついた顔が脳裏にチラついて、今でも苛立ちが再発しそうだ。
その後なんとか気持ちを抑えてギルドから離れただけでも、上出来だったと思う。
もともと一日かけて依頼をこなすつもりだったのに、もう一度ギルドに行こうという気にはなれず、走って姉がやっているうどん屋に逃げ込んできた。といっても、住んでいる所に帰ってきただけだから、暇を持て余し、姉の手伝いをすることにしたのだ。
姉の店の客は顔見知りの良い人が多く、もう視線を向けてくる人もいない。内装も、気持ちが静まる、と評判の造りである。
今日は一日店で体を動かして気持ちを落ち着かせようと思っていた。それは途中までは上手くいっていたのに、結局やってしまった。
はぁ、と何回目か分からないため息が洩れる。ため息は幸せが逃げるというけど、私にはもう逃げていく幸せもない気がする。
私の力で気絶させた人が目覚めるのには、たいてい半日かかる。ちょっとした苛立ちでやってしまう割には、長い時間だと思う。他に副作用がないからいいものの、そうでなければ私は今頃山に籠らなければならなかっただろう。
ごめん、と心の中でもう一度。目の前で眠る少年に伝える練習をする。今まで、一度だって言えたことのない、謝罪だ。今回も言えないかもしれない。
「そろそろ休んだら? 目が覚めるのはまだまだ先でしょう?」
ぼうっと、私がいつも使うベッドに眠る少年を見つめている私に、姉が優しく声をかけてくれる。柔らかく、落ち着く声だ。
私は、うん、そうだね、と言って、でも、もう少しここにいる、と続ける。もう少し、練習しなければならない。
姉は困ったように、あなたも休みなさいよ、と言って静かに厨房に入っていった。夜の仕込みも手伝いたかったけれど、今は集中できそうになかった。
金髪の姉には、私のような特殊な能力はない。見た目は私と同じように珍しいが、それ以外はいたって普通なのだ。
だが、それで私を遠ざけるということもなく、十分に自分の事は理解してくれていると思う。実際、今日だって姉には頼りっぱなしだし、姉がいなければ、今の私はない。
姉が暖かい紅茶を持ってきてくれた。少し熱いのを我慢して飲むと、体中に熱が広がる。暖かい。
一度体が暖まると、今度は眠気に襲われる。昼下がりのゆったりとした空気とほどよい陽気にも誘われて、目が開けられなくなる。寝てはダメ、そう思うのも束の間、意識はいつのまにか飛んでいく。
☆ ☆ ☆ ☆
目が覚めた。一瞬見たことのない天井に焦るが、すぐにうどん屋で気絶したことを思い出す。この世界に来て、もう何回意識が飛んだのだろう。まだ来てから半年だというのに、恐ろしいペースだ。
今日のベッドはほどよく柔らかい。柔らかすぎないのも素晴らしい。それに、なんだかいい匂いがする気がする。太陽の匂いなのだろうか。
少しして、体がきちんと動くのかどうかを確かめることにする。
まずは手足を動かしてみる。手は指から、足は面倒なので全体を動かす。
……よし、いつも通りだ。
次に、ゆっくりと体を起こす。腹筋に力を入れて、状態を持ち上げる。寝ていたせいか、少しふらついたが、体は何も問題ない。
周りを見渡すと、椅子に座ったまま寝ている銀髪少女と、女の子らしい部屋が目に入る。
彼女は、俺を気絶させた少女と同一人物なのだろうか。あどけなく、穏やかな表情で寝ているこの子が、本当にあの鋭い視線を向けてきたのだろうか。
何か事情があるんだろう。勝手に踏み込むのも不粋だが、被害者なのだから少しぐらいは教えてもらってもいいような気もする。
少女を起こさないようにそっと、足をベッドから下ろして、ゆっくりと立ち上がる。今度も一瞬目眩のようなものを感じたが、問題はそれだけで、他はまったくいつも通りだ。さすがに半身不随なんてなったら洒落にならないし、とりあえず一安心だ。
そのまま静かに歩き出そうとすると、なんと床と絨毯の間の微妙な段差に躓いた。擦り足で進もうとしたのが良くなかったのかもしれない。手を出すぐらいはできたが、勢い良く絨毯に倒れ込む。バン、とくぐもった音とともに衝撃に襲われる。
痛い。少し手を捻ったらしい。ここで咄嗟に受け身が取れないあたり、まだまだ未熟なのだと再認識させられる。サラさんに見られていたら、何日かはぐちぐち言われたはずだ。
この衝撃で少女が起きてしまったかと心配したが、幸いにもスー、スー、という寝息は途切れていない。そろそろと立ち上がって確認しても、やはり起きていない。
このまま部屋にいてもどうしようもないので、一旦部屋を出る。少女の部屋は二階にあったらしく、すぐ側に階段があった。そのまま階段を下りて一階に向かう。
階段がギシギシと音を立てることはなく、自分の足音のみが響く。一段一段転ばないように降りると、今度は包丁で何かを切る音が聞こえてくる。トントントントン、とリズム良く包丁がまな板を叩く音。なんだか懐かしい。
一階をちらっと覗くと、さっきまでうどんを食べていた、うどん屋だった。厨房の裏手が階段に繋がっていたようで、さっきは二階の存在にまるで気付かなかった。
厨房を見ると、包丁を振るっているのは金髪の女の人である。まだ若いのに、素晴らしい包丁さばきだ。エプロン姿が似合っていないようで似合っていて、なんだか現実味がないように思える。
少しの間見とれていたが、決心して声をかけることにする。
「あの、おはようごさいます、というか、こんにちは」
金髪の女性は、俺の上ずった声に少し反応したが、手は止めずに、
「あら、あなたもう起きたのね。もう終わるから向こうのテーブルで待っていてもらえる?」
と言った。
この人からは敵意をまるで感じることはなく、むしろ優しそうな人だと思った。おとなしくその言葉に従って、厨房を通り抜けてカウンターのテーブルに座る。ここからだと作業しているところがよく見える。
時間は、もう夕方と言っても差し支えないぐらいになっており、店内にも長い影と赤い光が模様を作る。窓の外をちらっと見ると、束の間の静けさという感じで、出歩く人はまだ少ない。
店の中は相変わらず包丁の音が響く。今はうどんを切っているところで、トン、トン、というゆったりとした音に耳を澄ます。お互いに黙っているのだが、こうしていると言葉を交わしているように感じる。といっても、俺は何も音をだしていないのだから、聞いているだけになるのだろうが。
「ごめんなさい、お待たせしました。では、話しましょうか」
それから、少しして、もう少し店内が赤く染まった頃、金髪の女性がこの時間の終わりを告げた。厨房から出て来て、隣の椅子に座る。
少し椅子を引き、体を斜めに向かい合わせる。白い顔には夕焼けの茜色がよく映える。
「ええ。いきなりなんですが、二人は姉妹ですか?」
俺がそう言うと、ふふ、と笑う。
「そうよ。そんな風には見えないかしら。確かに髪の色は全く違うわね」
「はい。二人とも綺麗な髪です」
「ありがとう。リンも喜ぶと思うわ」
そう言うと、金髪の女性は、何かを思いついたように続ける。
「そういえば、まだ自己紹介をしていなかったわ。私の名前はルー・エリオット。妹はリンジー・エリオット。私は、ルー、妹はリン、でいいわよ」
「ルーさんに、リン……さん」
「ちなみに私は二十一歳で、妹は十五歳なの。私がこの街でうどん屋を始めたのが……もう三年前になるわ。ふふ、時が経つのは早いわね。次はあなたね」
「僕の名前はハルトと言います。そのまま呼んでください」
ルーさんは俺の名前を聞いて少し首を傾げた。
「ええ。ハルト君、ね。少し変わった名前、のようね。あまり聞かないわ」
「そうかもしれません。僕も同じ名前の人に会ったことはありませんから」
「ふふふ。そうかもしれないわね」
ルーさんは今度は柔らかく笑う。なんともよく笑う人だと思う。
「歳は十二で、この街には来たばかりです。一応冒険者になりました」
「へえ、まだ十二歳。それで冒険者だなんて、リンと同じね」
ルーさんの言葉に俺は思わず、えっ、と口を滑らせる。それを見てルーさんはまた楽しそうに、ふふ、と笑った。
「リンは十五歳なんだけど、三年前、つまりこの街に来てから冒険者ギルドに所属しているわ。私にはよく分からないのだけれど、そこそこ強いっていう話よ」
「へぇ……」
もう三年も戦っていると聞くと純粋に驚くと同時に少し納得がいく。あの視線の鋭さはそうやって培われたんだな、と。
「やっぱり、妹のこと気になる?」
「へ?」
「いえ、そんな顔してたから」
そう言って、ルーさんはまたニッコリと微笑む。
「……」
「隠さなくてもいいの。あなたは、リンのあれを体験してるし、こうやって話も聞いているんだから。私はあなたが知りたいと思って、リンがいいと言うなら話してもいいと思うわ。どう?」
「……はい。図々しいのは分かっていますが、体験したからには知りたいですよ」
「ふふ、まぁ、そうよね」
「もちろん駄目って言うならそれでいいですよ。あくまで、できればの話ですので」
ここまで言わせて教えてくれない、というのも随分だと思うが、嫌なら仕方ない。あくまでも決めるのはリンだ。
ルーさんは、少しの間目を閉じて考え事をしていたようだが、ぱっと目を開け、またまた楽しそうに
「リンを起こしてくるからそれまで待ってもらってもいいかしら?」
と提案した。
もちろん俺の答えは、はい、しかなかった。
ルーさんが二階に上がって行った後の部屋は静かだったが、、外では微かに夜の賑わいが始まったように感じた。




