第八節 「幻想」 The.Beast
「洒落にならないな。これは」
隆希はスピカをしっかりと抱きかかえ、瓦礫の山の中にいた。建物の崩落に巻き込まれたのであれば、普通ならば死んでいたことだろう。死なないまでも大怪我を負っていたに違いない。
間に詠唱でなせる最大出力での反射結界。おかげで墜落死は免れた。ただし、結界はもうぼろぼろで、すっかり限界であった。幻視体に圧縮した空気の重さを与えた星弾という魔弾でも破られなかった結界は、圧倒的質量の前に破られてしまった。所詮、魔術といってもその程度のものなのだ。それでも、今、軽い怪我だけですんだのは奇跡的だった。
隆希は深呼吸をして息を整え、思考を整理し、テレポイントの術式を唱えた。とりあえず被害の少ない駐車場へ逃れ、ほっと息を吐く。
隆希は崩れた図書館を見た。見るも無残な図書館だったものの姿。大規模結界が強制終了された事による空間の歪みが、魔法陣の中心であった図書館辺りに集中したのだ。結果、図書館は崩落した。
隆希は辺りを見回した。まだ人影はない。大通りに面しているわけではなく、辺りは民家も少なめである。とはいえ、崩れる際には轟音が鳴り響いた。少なくとも、人が集まってくるに違いない。そのうち警察なども大勢押し寄せることだろう。なるべく早くここを去らなければならない。しかし、隆希はすぐに去るわけにも行かなかった。なにせ玄恵がいないのだ。先ほど屋上で姿が見えなくなって今まで、どこにも見ていない。どうするべきか悩み、ふと、クッキーのことを思い出した。
「そういえば、まだあったはず……」
ポケットを探り、クッキーの入った包みを取り出す。しかし、開いてみるとクッキーは粉々に砕けていた。当たり前といえば当たり前だった。
「くそっ……」
クッキーを適当に投げ捨て、再びあたりを見回してみる。すると、今まで自分とスピカ以外誰もいなかったはずの駐車場に人影があった。
「な……っ、お前は…………」
そこにいたのは紛れもなく、アルデバラン・シリウスだった。
「ちっ……」
隆希は気絶しているらしいスピカをそっと、アスファルトの地面に寝せると、腰を上げた。
スピカに被害が及ばないように、数歩前へ出る。隆希はシリウスを見据えた。彼は動く気配を見せない。ただこちらをじっと見ている。
――瞬きするような間、気づくとシリウスの姿は目の前にあった。
「――――ッハ」
隆希は後ろに引こうとしてしかし留まった。退けば、そこにはスピカがいる。
「reflexio!」
今日何度目かの防御結界。だが、今度は墜落するときほど壁を厚くすることはしなかった。敵は正面。それを防げればいい。シリウスの体は吹き飛ばされるはずだった。しかし、そうはならなかった。
「たわけ。ゼロの速度で迫ったのだ。反射などされぬ」
シリウスは一瞬のうちに隆希の反射結界を解除し、隆希の腹へ拳をたたき込む。
「――っかは」
鈍器で殴られたかのような重い一撃。体がよろけたところへ、さらに振りかざされるもう片腕。
「リュウくん!」
声が聞こえたかと思うと、隆希は正面から飛んでくる閃光を見た。燃えさかる火の槍。
「――むっ」
シリウスもそれに気づいたらしく、二人ともがそれぞれ逆に跳び、火の槍をかわす。
「文墨!」
いつの間にか、そこには玄恵が立っていた。今の火の槍は玄恵の魔術なのらしい。
「リュウくん、プランB! 存分に!」
プランB。隆希は図書館へ来る前に、玄恵と打ち合わせていた三つのプランを思い出していた。その中のプランB。隆希は決心し、懐から黒いカードのようなものを取り出した。
「suscitation」
自己に暗示をかけるように、ゆっくりと口の中で呟く。
「さあ、始めようか」
invocate-Ins-No.616……
「行け、ケルベロス」
「幻獣召還術か――――!」
シリウスはここに来てはじめて焦りの色を見せた。
召還術。契約という手順を経て、獣などを呼び出し力を借りる術。そのなかで幻獣召還術は単なる召還術とは区別されるものだ。実際には存在しない幻獣を召還する、創生術。
隆希は黒いカードを地面にたたきつけた。同時にカードに赤い光で魔法陣が現れる。魔法陣が発光したかと思うと、カードは燃え消え、後にアスファルトの上に魔法陣だけが残った。それから隆希の右隣に黒い影が現れた。その影は隆希の周りでぐるぐると渦を巻き、形が安定しない。
「それが貴様の本命か。なるほど。協会が拘束したがるわけだ」
シリウスはその場で手を前に出した。そして、その手を水平に振るう。
途端、隆希の体に正面からの見えない衝撃が襲いかかった。突き飛ばされそうになりながらも何とか耐え、素早く思考を働かせる。
「ぐ……。ケルベロス、狂わせろ」
ただの一語。日本語のそれが命令であり、詠唱文。隆希を中心にぐるぐると渦巻いていた影は、隆希の目の前へと移動し、一度分散したように見えた。見えない衝撃波は影によって無効化された。衝撃波がやむと、影はまた元のように隆希のまわりを回転し始める。
「ふむ。では、これではどうだ?」
シリウスは地を蹴り、前へ飛び出した。隆希は咄嗟に身構える。しかし、すぐにシリウスの姿が視界から消えた。だが、隆希は戸惑わない。素早く感知モードへ移行。反応はすぐにあった。
「後ろ!」
隆希は振り返らず、影だけが反応する。影はそこで初めて形らしい形をもった。黒い狼の顎。黒狼は大きく口を開き、まだ現れてもいない敵に大きくかみついた。
「無様な。囮にも気づけぬのか」
どこからともなくシリウスの声が響く。ふと見ると、シリウスは元の場所から一歩も動いてはいなかった。すべて幻像だったのだ。
隆希の感知したものもただのオドに擬態させたマナの固まりにすぎなかった。それに噛みついてしまった黒狼は、その濃さを薄めている。魔力供給が一瞬のうちに絶たれた。やがてケルベロスは完全に消え去った。
しかし、隆希は不適な笑みを浮かべた。
「誰が無様だって?」
「なに?」
シリウスは顔をしかめた。
「お前の敵は、俺だけじゃない」
刹那あたりの景色が一変した。駐車場いっぱいに、いくつもの陣が重なった巨大な魔法陣が浮かび上がった。
「これは……ありえん……!」
シリウスは予想もしていなかったことにうろたえながらも、いくつもの呪文を詠唱した。しかし、そのどれもが意味をなさなかった。重力増加の内結界。巨大なGがシリウスの行動を剥奪する。
「お前、文墨がなにをしてたかも知らなかったんだな」
隆希が召還術を使用したときから、すでに玄恵の魔術発動の準備は始まっていたのだ。簡易詠唱ではなく、正式な古式詠唱。長い詠唱が必要になるかわりに、術に細かい設定を付加することができ、さらに効果も増す。文章があまりにも長く、戦闘中には役に立たないが、シリウスが隆希の魔法じみた召還術に気を取られている間に、玄恵は難なく呪文を詠唱することができた。
「この結界、発動した時点で後手さ。おまえはもうなにもできない」
設定付与により、この重力結界の影響を受けていない隆希はシリウスの元へと歩み寄った。
「最後も自分の術じゃないってのもなんだかな」
隆希の周りにはいつのまにか、またケルベロスの影が姿を現していた。隆希は屋上でスピカの結界を破った小刀をとりだした。おもむろに、ケルベロスを切りつける。ケルベロスは刃に吸い込まれるようにして消滅した。すると刃が黒く染まった。
「ま、飾り程度に」
隆希は微として動けないシリウスの胸に、刃を一突きに刺した。
「こ、これは……」
シリウスは胸を貫かれたことで自分に起きた異変に気づいた。深々と突き刺さる刃。しかし、彼自身痛みを感じていなかったし、第一血すら出ていなかった。そのかわりに力が抜けていくのを感じていた。己の身体で循環させていた魔力が流れ出していくのを。
「こいつ、大食いらしいんだ」
隆希は、小刀をぐるりと回して引き抜いた。刃の刺さっていた場所には傷一つない。第一服すら破れていなかった。
「そうか。アストライアの結界を解除したのもその魔具か」
「そうだ。魔力を吸い上げる、特殊な代物さ」
隆希は小刀を空に掲げると、そのまま宙へ放り投げた。くるくると回転しながら舞い上がった小刀は、弧を描きながら、一番高いところで宙に消えた。
「さてと。いろいろ聞きたいことがあるんだ。かまわないよな」
隆希はシリウスへ詰め寄った。シリウスは重くうなずいた。
「うむ。発言を許そう」
「別に許可されてなくても勝手に聞くが……。おまえたちは、俺たちのところへ来た依頼……朱雀病院の少女の自殺とどうかかわっているんだ。なぜ依頼のことまで知っていた」
言うと、シリウスはふっと鼻で笑った。
「気づいていなかったのか。貴様らのとこへ依頼に来た主。ほかでもない私だ。幻想投影を用い容姿を偽装したのだ」
なるほど、と隆希はうなずいた。だいたいが合点が行った。いうならばすべてシリウスたちの自作自演。自分たちで事件を起こし、自分たちで依頼へきたのだ。これなら仙人が一医師の範疇を越えたことをしていたのもうなづける。しかし、まだ納得のいかないことはある。
「俺たちにあの依頼を持ってきた真意は何だ。おまえは俺らを拘束すると言った。まあそんないわれなんかないんだけどな。それならばなぜ、三人も殺す必要があった」
その問いにシリウスはしばし沈黙した。
空はもうだいぶ日が落ちている。シリウスはそんな西の空をちらと見てから口を開いた。
「我々にも都合というものがある。我々『裏』への任務は一つだけではなかった。ただそれだけのことだ」
「は……?」
一つだけではなかった。その意味。
「これ以上貴様らに話す義理はない。今回は一件失敗だったということだ」
言い終えると同時に、シリウスは何かものを噛むような動作をした。ガリッと何かが砕ける音が確かに聞こえた。
「ではさらばだ」
その声が聞こえた時には、もうシリウスの姿は消えていた。
「リュウくん、大丈夫?」
結界の発動を解除して、玄恵が駆け寄ってきた。
「あぁ。大丈夫だ」
そして空を見上げぼんやりと呟いた。
「いや……だめだな、これは」
夏の夕暮れ。涼しい風が今の争いを宥めるように吹いてきた。




