第二節 「墜落(上)」 fall down from Kiyomizu's Stage
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――今日は今月一の暑さとなり、支丞市では観測史上最高の気温となっています。熱中症の患者も――
美波のお見舞いに行った日から約一週間経ったある日の、まだ暑さの残る午後五時。隆希はソファーに横になり、ぬるくなってしまった水の入ったペットボトルを片手にだらだらとニュースを見ていた。
地球温暖化とやらの影響なのか、ここ支丞市でも年々気温が上がっているという。今日はその中でも、ニュースが示すように異常な暑さをほこっていた。
クーラーをつければ、部屋の中の暑さは紛らわせることができるのだろうが、タイミングの悪いことにクーラーは故障していた。扇風機があるわけでもなく、隆希は団扇をむなしく扇ぎ続ける。
今日の隆希は珍しく家に一人だ。銀埜は学校の夏期学力強化合宿とかで不在――なぜ参加する気になったのか隆希には分からない――、玄恵はというと、彼女も彼女で友人宅へと泊まりがけで遊びに行っている。美波は言うまでもなく入院中だ。
久々に広い空間を満喫できるはずなのだが、なぜか落ち着かない。どうも周りが気になってしょうがない。静かすぎるのが悪いのかもしれないのだが。
いや、違う。
隆希にはその原因が分かっていた。
美波の意味深な言葉の所為だ。あのとき目にしたものが、見てはいけないものだったという、あの言葉。あの言葉のおかげで、隆希はなんでもないときに存在しないはずの視線を感じてたまらなかった。美波にそういう呪術でもかけられたのではないかと、本気で疑っていた。
「あーもう……」
うんざりとした感覚は最高潮。ソファーに横になったまま隆希は体を伸ばした。
――そこで不意にインターホンが鳴った。
突然の来客。この家に用のある誰かか、あるいは郵便の類か。隆希は後者であると決めつけた。この家に用事がある人間なんてそうはいないからだ。
「ちょっと待ってくださいー」
隆希は声を大きくして叫び、ソファーから飛び降りた。ペットボトルを適当に投げ捨て、急いで玄関へ向かう。
「はい、どちら様」
と、扉を開けると、そこにいた人物とちょうど目があった。瞬間、お互いにきょとんとした表情になる。
「美波の主治医の……」
「赤尾さんのご友人の……」
二人の声が重なった。
訪問者は仙人だった。
†
「クーラーが故障していて……、暑くてすみません」
隆希は麦茶の入ったグラスを小さなテーブルの上に置いた。
「いえ、気になさらず。どうもありがとう」
ソファーに座った仙人は、置かれたコップに一応手を伸ばしたが、口に運ぶことはしなかった。隆希はゆっくりと仙人の座るソファーの対面のソファーに座った。
「今日はどうかしたんですか? 美波のことじゃないんでしょう?」
仙人が隆希のことを認識したとき、明らかに予想外であるという顔をした。隆希たちがこの場所にいることを知っていれば、その反応はまずありえないだろう。
仙人は静かにうなずいた。
「はい。その通りです。今日は依頼で来ました。ある伝手であなたたちの話を聞いたものですから。なんでも、不思議な事件を解決してくれるとか」
「……ま、まあ」
隆希は曖昧に返事をする。
不思議な事件の解決。別段、隆希たちはここでそういうものを請け負うようなことをしているわけではなかった。ただし、どうやら一部の人間の間で、そのような話が流れているらしい。隆希もデマではないことは分かっていた。
――たしかに、不思議な事件を解決したことはある。おそらく、そのときに目撃していた誰かが、勝手に脚色しそのような話が広まっているのだろう。
迷惑きわまりない話だった。その”不思議な事件”のあと数件、依頼が舞い込んできたことがある。すべて何ともオカルトじみた話で、それでも何とか解決し続けてきた。ただし、隆希たちが迷惑に思いながらも依頼を断らない理由は、何も言わずにも向こうが勝手に持ってくる謝礼金あってこそのものだ。もちろん、それ目的で依頼解決しているわけではないのだが。ただ、お金はあるにこしたことはない。
「それで、どんな内容でしょうか」
話を切り出し、早速本題にはいることとする。
「実は、ですね」
…
「自殺、ですか」
隆希はつい聞き返していた。よく聞き慣れた単語。しかし、身近なようで身近でないはずの単語。
仙人は重々しくうなずく。
「はい、そうです。自殺です。ちょうど先週のことでした。時間はちょうど病院の夕食の時間。そのとき、ある患者が病室からいなくなったんです。その患者は病室から出ることもままならないような患者だったんです。特に、話したり文字を書いたり、立って歩き回るようなことはできるはずのない状況でした」
仙人はさすがに暑かったのか少しだけ麦茶を飲んだ。
「……しかし、彼女は確かにいなくなりました。手の空いていた看護師たちを総動員して必死に探し回りました。もし仮に、病室を抜け出していて、どこかで倒れいたりしたらたいへんですから。それで、ある看護師がようやく発見したんです。西病棟の屋上で」
彼女はそのときすでに、どうやって乗り越えたのか落下防止策の向こう側にいたという。空を眺めるように、虚ろな瞳で、彼女は内側を向いて、空を見つめていた。
――そして、墜ちた。
看護師の声を受けながら。空へふわりと飛び込んだ。
屋上からの飛び降り自殺。自殺の多い現代日本。聞き慣れた自殺方法のように思えるが、隆希としては最近はあまり聞かない自殺方法だった。
理由は何とも単純だ。
普通、屋上には容易に出ることができない。単純な事故による落下防止。そして、自殺による飛び降り防止。たいていの屋上への扉には鍵がかけられているものだ。
「鍵はかかっていなかったんですか?」
「いえ、そんなはずは。鍵はしっかりとかけられていたはずです。うちの病院ではどの棟にも屋上への扉がありますが、どこも二重ロックです。カードキーと数桁のパスコードによる電子錠ですので、そう簡単には開きません。でも、そのロックはいとも容易く解除されていたんです。強制解除の形跡はありませんでした」
状況から考えて、強制解除なんですけどね、と仙人は渋い表情をした。
電子錠。強制解除の形跡がないのであれば、普通に開けて入ったということになる。しかし、ただの入院患者がカードキーを持っているなどということはありえないはずだ。
隆希は首を傾げる。
「……それは、墜ちた子がやったんでしょうか」
隆希は、殺人の線も考えていた。または、協力者のいる自殺……。
仙人は首を横に振った。
「いいえ、それは分かりかねます。もし、そうであったとしても、今はその本人がいなくなってしまった。確かめようはどこにもありません」
隆希はその仙人の言葉にわずかな違和感を覚えた。
――本人がいなくなってしまった。
本人が死んでしまった、という表現なら分かる。しかし、いなくなってしまったという表現は微妙に齟齬があるように隆希には思えた。自殺であるのなら、死んだと表現するのが普通ではないだろうか。
とはいえ、そんな細かいことをいちいち気にしていては全く話が進まない。その違和感は頭の片隅に寄せ、隆希は思考を移した。
今までの話を聞いた限りではどううもただの自殺のように思える。いちいち自分たちのところへ来るわけが見えてこなかった。
隆希がそのことを訊ねると、仙人は表情を曇らせた。
「何か、あったんですか。その後に」
直感的に隆希は分かった。この話で肝心なのは自殺そのものではない、と。
「……ないんです」
仙人の声は小さい。かろうじて聞き取れるほどの大きさだった。
「ないって、何がですか」
「ないんですよ遺体が。完全に消えてしまったんです。墜ちた……いえ、飛び降りた瞬間を見た人は確かにいるんです。ですが、あわてて下へ下りてみると誰もいない。血すらこぼれていない。その代わりにこれが落ちていたんです」
仙人は懐から茶色の封筒を取り出し、隆希に手渡した。
表面には小さく「いしょ」という文字が見えた。何とか読みとれるほどの汚い文字だった。
「こう言ってはなんですが、内容としてはありふれたものなんです。ですが私にはどうしてもただの自殺には思えない。それに本人がいないから警察に言うわけにいかないんです」
聞くと、どううも仙人はその少女と少なからず関わり合いがあったらしい。
隆希は大きくうなずいた。
「分かりました。必ず解決してみせます」
「よろしく……おねがいします」
仙人は立ち上がり、深々と頭を下げ、自分の名刺を差し出すと帰っていった。
「さて……これは……」
隆希は仙人から手渡された「いしょ」に目を通すと、あることを調べるために自分の部屋へとこもった。
†
二日ほどして、都合のいいことに、玄恵と銀埜は同じ日に帰ってきた。そこで、隆希は早速依頼についての話をした。
「……なるほど。それで、その女の子はいなくなっちゃったわけだ。どうなったんだろうねその子」
「確かに、不思議な話だな。人間が空を飛べるはずもないし、屋上から飛び降りたともなると、まず死ぬだろう。死なないにしても、全身骨折。動ける道理はないな」
玄恵も銀埜も二人して頭を抱えている。食いつきが良いようなので、しめたとばかりに隆希は自分の考えを述べることにした。
「可能性として考えられるのは、死体の持ち去り。現実的な可能性だったら」
「んー、なら、自殺以前に殺人の可能性も出てくるね。自殺死体を持ち去る理由なんか無いもの」
隆希はうなずいた。しかし、その考えも実際のところありえない。
「でも、それだと時間がないな」
銀埜がすかさず口を挟む。
実は、隆希は仙人から自殺現場の状況を聞いていた。
仙人の話によると、少女の最期を屋上で見た看護師は、その後すぐに一階まで駆け下りたそうだ。しかし、少女が墜落しているであろう場所には、当の少女も見あたらず、自殺現場に当然あると思われる痕跡――血痕などは皆無だったという。いくら手早く処理したとしても、全くの痕跡を消し去るなど、短時間では不可能だろう。
「とりあえずさ、仮定の話ばかりしていても話は進まないだろうから、リュウくん、何か情報調べていないの? 仙人が来たの昨日今日ってわけじゃないんでしょう」
「ああ、それだけど……」
調べたことには調べていた。インターネットを利用した調べ物ならーー正規ルートとはいえないかもしれないがーー隆希の得意とするところだ。少女の近辺情報を調べようと思い、様々なデータにアクセスした隆希だったが、これといった情報は得られなかった。
情報といえるものは、結局仙人から渡された例の物だけであった。
「遺書のコピーがある」
隆希は用意しておいた私物のノートパソコンを起動させた。デスクトップに並ぶアイコンのうち一つを選択し、開く。表示されたのは少女の遺書をスキャナーでデータ化したもの。拡大し、二人に示す。
「へぇ。これが」
玄恵と銀埜の二人は画面をのぞき込む。
わたしのいばしょはもうなくなった
こんなんじゃしんでいるのとおなじ
しんだようにいきててもいみはないです
さようなら つぎのせかいにいってきます
弱々しく、震えた文字。わずか数行が、書いた本人のすべて。
「…………よく分からないな」
そう声を上げたのは銀埜だった。どこか興味の無いようなつぶやきに、隆希はむっとした。
「その言い方、なんだよ」
口調を強める。
しかし、銀埜はやはりどうでもいいといった風に、
「だからさ。彼女の遺書だよ。――死んだように生きていても――と書いてあるが、これはおかしいと思わないか? この表現、死を感覚として捉えている。だいたい、『生きている』とか『死んでいる』とか、そういうものを人間はどう区別している? 心臓が鼓動しているから生きているとか、脳が機能していないから死んでいるとか、そんなもの見当違いだとは思わないか?」
銀埜の台詞を、隆希は肯定したくなかったが、否定することもできなかった。人の生き死になんて、曖昧なものでしかない。時と場所によって、それらは意味するものを変えていく。
「すなわち、『生きている』とか『死んでいる』とか、そんなものは人間の決めた架空の概念に過ぎないんだよ。だからどうだっていい。本当のところは『在る』か『亡い』か、だろ。もしくは、『在る』か『在れないか』。 生き死になんて考えるだけ無駄さ。だってそれは、後の世の、それも他人が決めることなのだから」
銀埜は目を閉じ、頬杖をついた。
銀埜の言うことにも一理あるのは、隆希自身分かっていた。しかし、そのことが今回の事件にどんな影響があるか、と聞かれると、無いとしか答えようがなかった。
「死んだ人のことを悪く言うのはよくないよ」
玄恵が銀埜をたしなめる。
確かに死んだ人のことをとやかく言ってもしょうがない。それがたとえ架空のもので、虚構に過ぎないとしても、感覚として捉えることができるのが人間だ。それに今はそんな曖昧なことを言っている暇はない。
「とりあえず、明日にでも実際に病院へ行こうと思うんだ。都合はつくか?」
病院を実際に訪れることは、あらかじめ決めていた。すでに仙人にも許可を取ってもらっている。
玄恵も銀埜もどうやら用事がないようで、明日の昼頃早速病院へ向かうことになった。
そこで話は終わった。
銀埜はそそくさと自室へと戻っていった。リビングにはただ隆希と玄恵だけ。
「ねえ、リュウくん」
一人遺書を眺めていた玄恵が顔を上げた。
「なに?」
「人って、何で自殺しちゃうんだろうね。せっかく、生きているのに」
そんな質問に、隆希はさあ、と答えた。
その質問に答えられるだけの知識は持ち合わせていなかった。それになによりも、実際、そんなことはどうでもよかった。
†
灼熱の釜の底のように、とにかく今日も暑かった。昨日記録した過去最高気温はゆうゆう更新され、遠くの風景は蜃気楼に揺らいでいる。
自殺の現場――朱雀病院へ向かう隆希たちは、炎天下を歩いていた。玄恵が車を運転できる――違法だが――ので、車で行けばいいことなのだが、玄恵の、面倒くさいの一言でその意見は封殺された。結果、このざまである。
やっとの思いで病院までたどり着いたときには、体力がないわけではないが普段あまり運動をしない隆希はすっかり疲れ果てていた。ふと隆希の視界にファストフード店が映った。
「な、なあ。ちょっとだけ休んでいかないか……?」
と、その店を指さし銀埜に問いかける。しかし、銀埜は首を横に振る。
「却下」
一単語で切って捨てられた。
「時間の無駄だ。砂漠のど真ん中にいるわけでもないんだから、この程度の暑さ、我慢しろよ」
などと、持参の扇子で扇ぎながら涼しそうな顔をする。
結局、玄恵も隆希の意見に賛成せず、休憩することはできそうにもなかった。そのまま調べにはいるしかないらしい。
大通りから見て一番正面、二つの塔の隙間を通り抜けて中央病棟の正面玄関からメインロビーに入る。
大病院らしく広いロビーは、冷房がよく効いていて、暑さに参っていた隆希にも肌寒く感じられた。
隆希はロビーを一通り見渡す。
いつも美波の見舞いに行くときと変わった様子はない。外来や入院している患者や看護師、医師たちが行き来している。
隆希たちはそのロビーを抜け、南西にある四号棟に向かった。少女が落ちたはずの場所は、四号棟と一号棟の間の中庭だ。
朱雀病院院長自慢の中庭で、かなりの広さがある。花や木はもちろん、小さな噴水などもあり、またベンチもたくさん設置してある。なかなか外出できない患者たちの憩いの場となっている。
中庭には、昼過ぎということもあり、人がたくさんいた。どうやら患者だけでなく、彼らのお見舞いの人々や昼休みなのか看護師も数人いた。
ここが少女の消えた場所とも知らず、楽しげな雰囲気の人々。
隆希たちは、人目を気にしながらではあるが、早速調査を開始した。
しかし、調査とはいえ、警察のように専門の知識があるわけでもない隆希たちは、無論自分たちの目であるかもわからない何かを探さなくてはならない。たとえ、わずかでも痕跡が残っていたとしても、それは数日前の物だ。その間、夕立が降ったりしているため、流されてしまっている可能性もある。いまさら何らかの痕跡が残っているとは思えなかった。ただ、探さなければ、見つかるものも見つからなくなってしまう。探さない手はない。
どんなに小さな痕跡でもいい。情報は情報、情報が無に等しい今、すべての情報は大小関係なく、価値は等しいのだ。
隆希たちはそれぞれ手分けをして中庭のあちこちを見て回った。隆希としては屋上も見ておきたかったのだが、仙人に危ないと言われ許可がでることはなかった。
二十分ほど探した隆希だったが、なんの情報も得られなかった。血痕は仙人の言うとおり皆無。花壇なども荒れた形跡はなく、花々が美しく咲いている。上を見ようが、ただ青い空と、そびえ立つ病棟が視界を埋めるだけ。
「手がかりなしかよ……ったく」
嘆いていると、銀埜が声を上げた。
「いや、そうでもないらしい。こっち来てみろよ」
手招きをする銀埜。隆希と玄恵は呼ばれるがままに、銀屋の方へ近寄った。銀埜は噴水のかたわらにしゃがんでいた。
「ほら、ここ」
そう言って、指をさす先。タイルとタイルの隙間に少量の白い粉がこびりついていた。隆希もしゃがみ込み、その粉を凝視する。どうやら、チョークの粉のようだった。
「よく気づいたな、お前。ところで、これがどうしたっていうんだ」
銀埜はうなずく。
「これは魔術陣に使われたものかもしれない。ほんの少しだが、周辺のマナの乱れを感じた――――」
この世界には魔術というものがある。
それは空想の産物でなければ、大昔の奇跡でもない。
現在、世界を支えている技術たる科学の根底に存在し、また別の道を作り上げながら受け継がれてきた、自然本来の力を借り様々な現象を引き起こす術を研究するれっきとした学問なのだ。しかし、それらは元はその上にあるだけのはずの科学の急速な発展によって、一部でしか認知されなくなり、残ったのは伝説ばかりとなった。
とはいえ、今でも魔術はヨーロッパを中心に昔ほどはないものの盛んに研究されている。
また、日本においてもいくつかの家が現代まで魔術師の血を受け継いでいるという。
「それ、本当か?」
隆希は銀埜を訝しんだ。銀埜の発言はにわかに信じがたいものだったのだ。
銀埜は、今度は自信を持って大きく頷いた。
「ああ、本当だ。俺も最初、気のせいかと思ったんだけどな。日本で、そう何度も何度も魔術師と遭遇することなんて無いからな」
――便利である科学というものに支配された世界。より発展していく世の中で、魔術というものは廃れていく存在にほかならない。現代の日本における魔術師の数は、最盛期の一割ほどだという。
「一瞬見逃しそうになったんだがな。ああ、それほどまでに小さい変化だったんだが、確かにここだけマナの流れが歪んでいたんだよ。人為的なものを感じるから魔術を使用した痕跡だろう」
「さっすが銀埜、すごーい」
玄恵が露骨に、銀埜を褒める。あまりにも露骨すぎて、毒があるようにしか聞こえない。しかし、当の銀埜はというとまんざらでもない様子だ。
「ところで、『回路』の種類は分からないの?」
回路、とはすなわち魔術を発動するために必要な様々な手段の総称だ。それは、呪文の詠唱であったり、魔術陣などの幾何学模様の描画であったりする。そして、回路を使う際には、魔術師本人の持つ魔力――オドか、超自然的魔力――マナのいずれか、または両方が必要になる。それらの魔力はその傾向からいくつかに分類される。魔力の流れを『視る』能力に優れた魔術師であれば、魔術が使われた後でも、その魔術の傾向を把握することができるのだ。
「さて。こんなに少ないとどうかな」
銀埜は白い粉を指でこすりとると、舌を出し、軽く舐めた。
「汚く、ないのか」
隆希は素直に不快感を示す。
「正直やりたくない」
にべもなく、率直な答えが返ってきた。
「『紫』、だな。紫系統の回路を使う魔術だと思う。時間も経っていて、だいぶ大気のマナに同化しているから、はっきりとは言えないけれど」
「紫っていうと、精神干渉関連の回路ね。私は専門外だからなぁ。美波ちゃんならそっちの方面得意なんだろうけど、病室、抜け出すわけにもいかないしね」
文墨も銀埜もこれ以上はお手上げのようだった。隆希はひときわ大きくため息をついた。今得られた情報が何らかの意味を持つことは明らかだし、それが大きな意味を持つであろうことも分かっていた。しかし、それよりももっと、隆希をも悩ませる大きな理由があった。
「どうでもいいけどさ。もうこれ、魔術側が関わってるってことだよな。また面倒なことになりそうだなあ」
魔術の痕跡があるということ、それは言うまでもなく、魔術を使った術者がいることを意味する。つまり、魔術師との衝突が起きる可能性があるのだ。
魔術師が飛び降りた少女に何かをしたのか、それともその少女本人が魔術師なのか。いずれにせよ、相手が魔術師であることには変わりがない。
銀埜の口からもため息が漏れた。
「なんだか、面倒になってきた雰囲気だな。ここから先は、俺はパスだ。どうせお前の受けた依頼だしな」
こうと決めたら梃子でも動かないのが銀埜だ。自由奔放な性格でやりたいことしかやらないことは、隆希の知るとおりだった。協力してもらえないのは惜しいが、こうなると仕方がなかった。
「それじゃあ、お前が感知したマナと回路の資料だけまとめてくれよ。それくらいはいいだろう」
銀埜は心底面倒くさそうに一言。
「まぁ、それくらいは」
隆希たちはその後、銀埜の見つけた痕跡以外、これといったものを見つけることができず、そこで調査は打ち切った。
それから隆希たちは、調査前に隆希が入店を提案し却下されたファストフード店に入った。隆希は、手伝ってもらったこともあったため、二人におごることにした。しかし、銀埜も玄恵も隆希の財布事情などお構いなしにどんどん高いものばかりを頼み、満足気な表情。
結果、隆希はそんなに情報は手に入らなかったのに、金ばかり手放す羽目になってしまった。