第十一節 「深海」 touch (your) my heart
設定ミスですが、これから、本物の華雪友香については漢字表記にして、敵サイド的な華雪友香についてはカタカナ表記にします。このページより前のものも、書き直しが必要な部分はそうしていきます。
セピア調の視界。開けた大地。遠くでは大地と空とが交錯していた。どこを向いてもひたすらに遠い。どこを見ても、セピア色の世界。そんな色のセロファンでも透かしてみているような不思議な感覚だった。
隆希はただ一人でそこに立っている。
目がおかしくなってしまったかと思って、隆希は目をこすってみた。しかし、どうやら違うらしい。ここはそういう場所なのだ、と自分で理由も分からないのに、確かに納得していた。
隆希は覚束ない足取りで無限の大地を歩き始めた。自分自身、なぜ進んでいるのか分からなかった。それでも進んだ。身体が動くので、それに従うしかなかった。
しばらくそのまま進んでいくと、目の前の視界に変化が現れた。
ただ一様に平面だった大地にぽっかりと真四角の穴が空いていたのである。穴は四方十メートルほどの大きなもので、暗い影を湛えていた。 隆希はその穴に近づき中をのぞき込んでみた。しかし、何一つ見えない。セピアの視界の中でも鮮明に映える黒い影は、すべての光を吸収しているかのようだった。
†
隆希のアパートの近くまで戻ってきた玄恵は、その異変にすぐ気づいた。
いや、気づかない方がおかしいといえる。
「なにこれ……?」
アパートの前にある住人のための駐車場に、そこへ覆いかぶさるようにして半球状の何かが展開されていた。
表面はガラスのようで、しかし不透明だ。さらに、一面に亀甲模様がある。
玄恵は近づき、一旦は触れようとしたが、直前で思いとどまった。どうもこの半球状の物体は結界らしかった。近寄らないと分からないくらい小さなものだったが、亀甲模様を作り出しているその線は細かな文字の羅列によるものだったのだ。
「でもおかしい……」
これだけ高出力の結界を発動しているのにも関わらず、周囲のマナはいたって安定している。普通、結界を展開するとその効果範囲の一番外側では、マナは結界を維持する魔力とせめぎ合うか、魔力の影響を受け歪む。だが、目の前に展開されている結界の周りのマナは穏やかだ。
「まさか、これ……ハナユキトモカが……? 美波たちは……?」
玄恵は結界を気にしながらも、まずは友香の部屋へと向かった。玄関の扉を開けようとした玄恵だったが、扉は鍵がかかっていないようなのに、びくともしない。
玄恵はどんどんと強く扉をたたき、中へ呼びかけた。
「美波! 蒼河くん! いるの!? 開けて」
「玄恵か。すまない、どうも何故か開けられないんだ」
「その声は銀埜? 開けられないってどういうこと?」
「分からない。魔術的なものであるのは確かなんだが、俺でも解除できない」
言われて玄恵は改めて扉を見た。銀埜は魔術的なもの、と言ったが、これといって魔術が施されているようには思えない。しかし、扉は動かない。
ならば、と玄恵は一歩後ろに下がった。
「銀埜、扉から離れて。魔術的アプローチが駄目なら、物理で。扉を蹴破るから」
「……オーケー。分かった」
扉の向こうからの銀埜の合図と同時に、玄恵は軽く足に魔力を込め、思いっきり扉を蹴った。すると、思ったよりもあっけなく扉は開いた。とはいえ反動がないわけではなく、戦闘で痛めた場所に反動が響いた。玄恵は痛みを必死に我慢し、中へ入った。
「さすがだな。戦闘になったと聞いてたが、おまえ大丈夫なのか?」
「……うん。まあね。敵さんはさっさと逃げてった……ってそんなことより、美波は? あと蒼河くんは……?」
「隆希なら、外でハナユキトモカと闘っていたはず……」
そこまで言い掛け、銀埜は外の様子を見、息を呑んだ。
「な……あれは……奏詩調和結界……現代にも使える奴がいたのか……」
「何? その結界」
その名前は玄恵の全く聞いたことのないものだった。
「奏詩調和結界。日本で生まれた、言霊魔術を用いた独自の複詠唱結界だ。韻律を含んだ詠唱文が特徴で、だいたいが五七調だな。ただ、問題なのは結界が世界との調和性が高いということだ。密度と術の耐久性は世界中のどの結界と比べても群を抜いている」
「言霊魔術ということは、やっぱりあの中にトモカが……、蒼河くんも……」
「ああ。多分な。奏詩調和結界はあくまで結界の型の名称だ。あれ自体がどんな用途で用いられているかは……残念ながらこの俺でも分からない」
銀埜はすまない、と繰り返した。彼はいつも自分に解けない結界はないと自負していた。解けない結界に出くわしたことがどうやら相当悔しいらしい。
「銀埜……、大丈夫。解く手だてはあるよ。本当の華雪友香はどこにいる?」
「ああ。彼女自身の部屋に。今、美波がダイヴしてる」
二人は友香の部屋へ移動した。まだ美波は術の発動中らしく、美波も友香も意識がないらしい。額をくっつけたまま、もともとそういうオブジェであるかのように静止していた。
「ダイヴを始めたのは?」
「そうだな……十分以上は経ったかな」
「十分……美波、ちょっと危険ラインぎりぎりじゃない」
玄恵は美波の様子を観察した。いつもと特に変化はない。
「危険ラインというと……?」
「うん。人間の心には人格を構成する海のようなものがあって、西洋魔術学では意識境界線って呼ばれてる」
意識を構成する海とは、様々な要素が混沌として混ざり合ったものであり、その大本は全人類、皆一つのものである。その大本たる概念と個人の意識を隔てる壁が意識境界線と呼ばれ、人格を構築する上で基盤となるものである。
「潜心系の術は、その海に潜るようなものなんだけど、一番そこ意識境界線近くまで行くと、なかなか戻って来れないの。仮に、意識境界線まで辿りついたとしたら、術者と被術者の意識が混濁して最悪、両方が……」
玄恵は、潜心は潜るか浮かぶかしかできないと付け加えた。すなわち、術を発動している限り、術者は被術者の意識に潜り続けるしかない。
銀埜は急に心配になり、玄恵に訊ねた。
「限界時間は?」
玄恵は厳しい表情になり、強い口調で答えた。
「十五分で危険ライン。二十分で……限界」
そのとき、すでに十三分が経過していた。
†
これ以上は危険だ、と分かっていながらも、美波はいまだ潜行を続けていた。目的地は紛れもなく意識境界線。
「あと……もう少し」
彼女を救える方法があるのならばそこに行くしかないと、潜心を始めるときからそう思っていたのだ。
彼女は昔、祖父から潜心術について話を聞いたことがあった。彼もまた潜心眼の持ち主だった。
日本における魔術心理学研究の第一人者でもあった彼は、美波に潜心の先生であった。
「人間というもんは、二つの意識を持っとる。身体を司り、自我として存在する表層意識たる主人格と、精神を司り、意識の奥深くに閉じこめられている深層意識たる副人格。副人格は主人格に影響を及ぼし、それを知覚できるが、逆はない。壁の外側は内側を関知できんからな」
自我境界線についても、その時に教わった。
「人の心の内側というのは海によく似ている。わしらは基本的にその表面しか見えん。凪で海面が穏やかなときもありゃあ、大時化のときもある。だが、その内側は潜ってみらなわかりゃあせん。自我境界線ちゅうもんは、いわば海底。その下の地殻やらマントルやらがどう動いとるかなんかだれも知れん。副人格いうんは、そんな海底近くにおる深海魚みたいなもんだ。奴らは基本的にそこ以外の場所では生きられない」
深海というのは一つの檻だ。とてつもない水圧に押しつぶされ、熱水と水とが渦巻く世界。副人格というものはそういう場所に抑圧され閉じこめられているという。ただ、深海魚がそれらと違う点をあげるなら、適応しようとしたか否か。副人格はいやでもそこにいるしかない。そして、水面の存在も知ってしまっている彼らは、ひたすらに捉えられない水面をどう思うか。
「副人格はしばしば主人格を恨むことがある。そのときは、副人格をどうにかせにゃならん。水面であり、海水そのものであったはずの主人格が深海にひきずりこまれるかもしれんからなあ」
友香の心にダイヴするときに水面近くから異様に暗かったのはそのせいなのだろうか。あの水面は普段光り当たる水面ではなく、海中から切り取られた断面だったのだ。では、真の水面はどこにいってしまったのだろう。
「あった……あれだ……」
目の前に水面が見えた。水から抜け、いったん何もない空間へ。またすぐ先には水面がある。きれいな色をした水面が。
「術式反転、フロート」
美波は次の水面にたどりつく前に、潜心術を解除した。術はすぐに切れるわけではなく、ゆっくりと浮かんでいく感覚だ。美波はその術式に続けて、もう一つ別の魔術を発動した。
美波が上昇していくのと一緒に、きれいな水面も一緒に上昇していく。その水は透明で、海底が透けて見えていた。真っ黒な影で覆われた虚の空間が。
†
十五分を過ぎても目を覚まさない美波を心配して、玄恵は彼女に思考連携を試みていた。過度の潜心術で戻れなくなった術者に対する応急処置は、精神的な術を用い、術者の主人格に働きかけることによって、術者の自我を明確にすることだ。しかし、何度思考連携を行っても、何故か拒絶反応が起き、ほんの一瞬接続できたとしても、すぐに切れてしまう。
玄恵もその原因は分かっていた。魔眼による能力の行使は、それが例え魔術のような能力でも、通常の魔術とは根本的に仕組みが違うのだ。
「駄目……なのか?」
心配そうに問いかける銀埜に玄恵は何とか冷静を保ち答える。
「たぶん、美波は魔眼の能力を行使してダイヴするときに、外部との連絡を完全に絶っているんだと思う。本人も自覚してはいないだろうけども……。魔眼っていうのは同じものでも微妙に個人差があるから、こればかりは……」
言いながら、無駄と分かっていながら、それでも何度も思考連携を試す。
十回以上試しただろうか。またもう一度試そうとしていると、ふいに美波の身体がびくっと震えた。
ベッドの上に座っていた彼女の身体が急に後ろに倒れそうになり、玄恵が慌てて彼女を支えた。
「み、美波?」
「玄恵……無事だったんだ! よかったぁぁ!」
美波は泣きそうな表情で思いっきり玄恵に抱きついた。
玄恵はそんな美波に苦笑いしながらも、彼女の頭を優しく撫でた。
「ただいま。お帰り、美波」
美波もその言葉に応える。
「お帰り、玄恵。そしてただいま」
二人はしばらくそのままでいたが、銀埜はどうも居心地が悪く、
「なあ、感動の再会っぽい感じの中、水を差して申し訳ないんだが、隆希はまだ戻ってきてないし、何の解決もしてないぞ」
そう言われ、美波ははっとして、銀埜に向き直った。
「大丈夫。玄恵、言われたことはきちんとこなしたよ」
美波は友香に目を向けた。
「彼女、連れ戻してきたから」




