第九節 「自己」 open the door
「今、我が名を鍵に刻まん。闇に臨みて、我を失うべからず。闇に在りて、更に際立つ黒にあるべし。何ものにも侵されざる純の色を以て、何ものにも縛られぬ次なる地へ。扉は開かれた。迷うべからず――――闢扉昇華――――見よ、なにものにも限られぬ空の力を。限界突破」
玄恵は呪文を唱え、目を見開いた。すっと息を吐き、コンディションを整え直す。体の痛みはもうひいていた。
その術は文墨家に代々伝わる独自の身体活性術。人をさらなる高みへと昇華させる究極の身体強化術。
玄恵は体の底から溢れ出る何かよく分からない感覚に気づいた。玄恵自身、この術を使うのは初めてだった。使い方だけは学んでいたが、自分の身に危険が迫ったとき以外は使うなと教わっていた。今がその時だ、と思わざるを得なかったらから使ったのだ。そうであるから、この感覚も初めて味わう、未知の感覚であった。
しかし、同時に自信も沸き起こるのだ。その自身に身を委ねてもいいと思った。
――――これでなら、いける。
だが、玄恵はすぐに疑問に思った。それは恐怖にも近いものだった。
「いける」とはなにか。今、自分は何を以て勝利のヴィジョンとしているのか。何が自分を確信という思考に導いたのか。
それが何であるか理解する前に、玄恵自身も気づかず、彼女の身体は動いていた。
戸惑っていたのは、もちろん玄恵だけではなかった。
エテジアもまた、彼女の変化を感じ取り、得体の知れない何かを彼女の中に見ていた。彼の長年の、今まで培ってきた経験の上に成り立っている勘が告げている。危険信号を。
そうであるから、彼は先手を取って速やかに事を終わらせようと動いた。しかし、彼女はそれよりも早く、そして速く動いた。
気づくのとほぼ同時、彼女の姿は目の前にまで迫っていた。繰り出されるのは拳、そして足による打撃。次から次へと打ち出される攻撃の一つ一つが的確に人体としての急所を狙っている。あまりにも速い攻撃に、エテジアは新たに術を詠唱する思考に移ることができずただひたすらに防御に徹していた。しかし、それもようやく追いつく程度のものだ。
彼は魔術のプロであり、戦闘のプロであった。
だが、今目前で自分と戦闘をしている者は何だろう。ただの少女であるはずだった。可憐な少女でなければいけないはずだった。
華速の舞闘家。協会所属の魔術師たちはしばしば、才能ある魔術師に二つ名をつけて、仲間内で使う。エテジアもまた、あるときその名前を聞いた。話によるとそれは日本にいる魔術の少女だという話だった。辺境のしかも子供の魔術師に二つ名がつく理由。理解していたつもりで理解していなかった。
彼女をたしかにそれだけの実力のある者として認識していたはずなのに。
「ファック。畜生め。あいつ、障害はないだろうとか言っておいて。これじゃ割に合わねえぞ」
闢扉昇華術。それが彼女の術、限界突破の本当の名だった。
世界法則による存在回復。
情報改竄による根本からの身体改造。
その二つを用いたこの術はただの人間を超人へと変容させる。
ビデオゲームに例えるとするならば、それは不正な改造だ。一般常識という認識から見て、それらはあり得ないことであり、魔術の世界に住む人間からしても、あってはならない不正な改造行為のようなものだった。
幻想体や空間転移などを用いらなければ、到底不可能であろう動きを、今玄恵は己の身体だけで再現している。
ばかばかしいほどの光景だった。
視認できない速さで移動し、いかに鍛えられた人間の反射速度さえ超える速度で攻撃を繰り出し、すべての攻撃を避け、そもそも攻撃の暇さえ与えず、その一連の動作はほんの一瞬間の出来事にすぎない。
しかし玄恵自身、それは自分で考えての行動ではなかったのだ。自分の思考の何倍もの速さで体が動く。熱いものに触れば手がすぐに引っ込むように、脳が考えての行動では内容だった。ただ、それらの行動は外からの影響に対しての動きではない。一つの動作を起点に、前の動作に対する反射的行動。そして、それらをまとめているのは一つの強い衝動だった。
玄恵は気づいた。今、自分が、自分を衝き動かしているこの感覚がなんであるのか。闘争心――そして、そこから派生しているこの感じは、明らかに目の前の敵を殺そうとしている。
まるで操り人形のようだ。身体の自由がきかない。すべてがプログラミングでもされているように、身体が意志と乖離して、自動で動いている。止められない。肉を殴りつける反動が痺れを伴って玄恵の体中に響いていた。――――それが堪らない。
玄恵は依然攻撃を続けながら、止める術を探った。エテジアは防戦一方でまだ耐えてくれている。反動の力の具合からみるに、どうも微力ではあるが反射結界のようなものを使っているらしい。ただし、玄恵には分かっていた。そんな結界では到底耐えることはできないと。いくら自分の身体が自らの制御下にないとしても、それはほかならない自分のことだから。自分のこの力はまもなく、結界を破りさり、彼の身体を蹂躙することだろう。猶予はない。
止まって……。
声さえ出すことを許してくれない。
エテジアの表情が徐々に険しいものに変わっていくのが見て取れた。
止まって……!
力はさらに強まっている。
玄恵は焦る心を何とか押さえつけて、せめて内面だけでも冷静を保った。
すると不思議なことに身体の感覚がはっきりと分かるようになってきた。
鋭い回し蹴りが、ついにエテジアの結界を打ち破り、彼の身体を地面へ叩きつけた。彼は声一つ上げなかったが、顔は痛みに対してか歪んでいるように見えた。
玄恵はかがみ込み、右の拳を振り上げた。
エテジアは目を丸くした。
振り下ろされるはずの拳はいつまで経っても動かない。
玄恵の左腕が振り上げられた左腕をしっかりとつかんでいた。
玄恵は息をあらげながら、ゆっくりと腕をおろした。
「止まった……?」
それが分かるとなぜか力が抜けて、玄恵はそのまま地面にへたりこんだ。
大変なことにならなくて済んだという安堵感が玄恵を包んでいた。自分でも知らず、玄恵は泣いていた。ほんのわずかな時間の出来事だった。しかし、その間の時間に人を殺めてしまうかもしれないという恐怖がまとわりついていた。それから解放され気がゆるんだのだろうか。
エテジアはそんな玄恵を見て、ふっと笑った。それから大の字にアスファルトの上に仰向けになり、今度は豪快に笑った。
「ハハッ。ミーの負けだ。だから、泣くな。あまり泣かれても困るぜ。仮にも天下の往来だからな」
実際はあらかじめ人払いのルーンを周囲何箇所かに刻んでいたので、二人のやりとりに気づく一般人はいないはずだった。
玄恵は言われて初めて自分が涙を流していることに気づいた。急になんだか恥ずかしくなり、玄恵は涙を拭った。
「ユーは強いな。魔術の腕も。精神も」
「ハート?」
あぁ、とエテジアは自分の胸をたたいて示す。
「さっきのはたぶん、半分は自動稼働の術だろう。だが、心が強くないと、いつまでたっても自動稼働のままさ。雑念があってもいけない。そういう代物さ」
玄恵は昔、術を教えてもらったときのことを思い出していた。それは単に限界突破だけに限ったことではない。魔術、それはすなわち、認識する力。認識するものはその魔術によって違う。
ならば、限界突破――闢扉昇華術においては何だったのだろう。
まだ漠然として答えは出そうになかった。しかし、一つだけ分かったことがある。
「それは紛れもないユーの術だ。ユー自身のパワーだ。誇りに思え」
術を使うとき、とっておきだと思って使った。最後の手段だと。どこか術に頼っていた。魔術とは紛れもない自分の力であるはずなのに。
玄恵は一言、
「ありがとう」
と、エテジアに呟いた。
エテジアは首をかるく横に振りながら起きあがった。
「見つけたのはユー自身だからな。ミーは何もしてないし、それにミーは今の時点ではまだユーの敵だろう? 実質突然襲ってきたような奴だからな」
それを聞いて玄恵はそうね、と苦笑いをした。
「あなたの目的は結局何なの? 華雪友香に近づいて、あんな事をしたのは何故?」
「いくらミーが負けたからって、それは言えないな。ただ、今回の件、ミーは諦めるとするよ。だけどな」
言ってエテジアは立ち上がり、服に付いた砂を払った。
「だけど?」
「ミーが諦めたとしても、彼女が諦めるかは知らないぜい」
玄恵ははっとなり辺りを見回した。戦いに夢中になっていたせいで気づかなかった。どこにもあのハナユキトモカの姿がない。
エテジアは踵を返し、向こうへ去っていった。玄恵が制止すると、一度だけ立ち止まり、こんな事を呟いた。
「これはあくまでミーの独り言なんだが。人が何かを為そうとするとき、それを止められるのは他でもないその本人だと思うんだ」
次の瞬間には彼の姿はどこにも見ることができなかった。
玄恵は立ち上がり、わずかに痛む身体を庇いながらよろよろと隆希の家へと向かった。




