第一節 「雨飛沫」 vestige of splash
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人口八万と少しの街であるこの支丞市は、東には立住川が流れ、北には黒武山がある自然の多い豊かな街だ。その上、古くからこの地は霊力が満ちているとされ、今でも神秘的な伝説が数多く残されている歴史の街でもある。
この街の中央、北西よりのところには小さな団地がある。同じようなアパートがまるでドミノのようにいくつも建ち並んでいる。そんな団地のとあるアパート、そのうち二つの部屋をぶち抜いて作った部屋に、彼、蒼河隆希は住んでいる。
隆希はまだ年齢的には高校一年生であったが、この部屋に親と住んでいるわけではなかった。といっても、一人暮らしというわけでもない。同居人が三人もいる。その同居人というのも、皆成人しておらず、一番年上でもやっと十八歳だ。
なぜ、子供である彼らだけで暮らしているのかというと……、なかなか込み入った事情があるのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時刻は午後一時を回っていた。
食事を終え、自分の部屋でパソコンの大きなディスプレイに向かっていた隆希は、もう何度目かの溜息を吐いた。
物が乱雑に置かれた狭苦しい机の上で、遠慮がちにマウスを動かす。そして、これまた乱雑に大量のアイコンで溢れかえったデスクトップから一つの画像ファイルを選択し、画面に表示させた。
それは写真ファイル。画面一杯に表示されている。
田圃に囲まれたある田舎の風景。
左右田圃に挟まれた畦道はずっと、写真の奥の方へ伸びていっている。畦道には小さなお地蔵さんも写っており、なんとも画に描いたような典型的な日本の田舎風景と言ったところだった。
写真だけ見れば、これといって何の変哲もないものである。ただし、あくまで写真だけのことを考えれば、の話であった。
この写真は数日前に隆希のパソコンのイーメールアドレスへと送られてきた。
それは一言で表せば、奇妙なメール。
送信者●不明
件名●たすけて
本文●なし
添付ファイル●名称なし写真ファイル
はじめ、隆希はこのメールのことを一切無視していた。いささか、件名の引っかかるメールだったが、悪戯メールの類であろうと隆希は判断したのだ。しかし、特に理由もなく興味本位で開いた添付ファイルの写真を見て、その判断を下すのは早いという結論に至った。
なぜなら、その写真に見覚えがあったから。
「やっぱり、あそこだよなぁ。これ」
写真を何度も拡大したり、補正をかけたりし見比べ、やはり自分の中で生まれた疑念は確かな物へと変わっていく。
写真を見るのに熱中していると、ふいにドアをたたく音が聞こえた。
「入っていいか?」
「……いいけど。何でこの時間にいるわけさ」
戸を開け、入ってきたのはこの家の住人の一人である西大路銀埜だ。すらりとした体格に、黒縁眼鏡。顔立ちも整っていて、彼を見た人なら必ず彼を秀才であると決めつけるだろう。まさにそんな印象を与える雰囲気をまとっている。
銀埜はすたすたと、迷わずに隆希のベッドへと歩み寄り、遠慮なしに腰掛けた。
隆希は顔をしかめる。
「なあ。だから、なんでお前がいるんだ、って訊いてんだけど」
「ん、ここに居ちゃおかしいか? 一応、ここ自宅なんだけど」
「いや、そうなんだけどさ。お前、今日学校だろう」
隆希は中学を卒業しそれから進学をしなかったが、銀埜はれっきとした学生――高校二年生である。今日は紛れもなく平日。平日の白昼に、学生が自宅にいるのは不自然きわまりない。
「……、学校ねぇ。飽きたから帰ってきたよ」
何でもないさわやかな表情の銀埜。
「……。飽きた、って。教師、怒るだろ」
「そんなわけはないさ。いつものことだろう。お前も、分かってることをいちいち訊くなよな」
面倒だ、という視線を向けられ、隆希はひときわ大きく溜息を吐いた。
隆希としても、それは認めたくないことであったが、何とも困ったことに銀埜はその印象通り秀才であるのだ。それも”超”がつくほどの。銀埜はこうして、たびたび中途半端な時間に帰ってくる。たいていの理由は、飽きたから、である。本人曰く、”東大なんか楽勝”らしく、学校側もその実力を認めてか、いわゆる進学率稼ぎとして、彼を特別待遇しているのだ。
「ちぇっ。お前はいいよな。周りからの期待があってさ」
隆希は最大限の嫌味をその言葉に込めたつもりだったが、銀埜は気にする風もなく、隆希の操作するパソコンの画面に目をやった。
「何か調べてるのか?」
銀埜は、目を細めるようにして見る。眼鏡をかけているのだが、どうも度が合っていないらしい。よくは見えてないようだ。
「ん、ああ。少し調べ物な」
隆希は素早く操作し、開いていた全ウィンドウを閉じた。
「なんだ? そんなに慌てて消しちゃって。エロ画像かなんかか?」
銀埜は嫌な笑みを浮かべた。
「……んなんじゃねぇよ」
「じゃあなんだよ」
銀埜はベッドから勢いよく飛び降りると、隆希の側へと寄り、画面をのぞき込んだ。すでにウィンドウは閉じられていたが。
「まあ。仕事だよ」
――仕事。咄嗟に出た言葉だったが、あながち間違いでもなさそうだった。確信はなかった。ただ、可能性が僅かにあったのだ。
銀埜はそれを聞くと、そうか、と首を引っ込めた。
「仕事かぁ。久々だな。どんなのだ?」
「……メール。変なメールが最近連続してくるんだ。悪戯かな、とも思ったんだが、気になることがあってな」
「そうか。ま、ともかく頑張れや。何かあったら言ってくれれば六割の確率で手伝うよ。んじゃ、俺はやらなきゃいけないことがあるから」
そう言い残して、銀埜は部屋を出ていった。
隆希はそれを確認すると、メールブラウザを起動した。そして、そこに表示された大量の未読メールを一気に選択する。隆希はうんざりしながらも、一括削除のコマンドを実行した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
日が昇りきり、夏の強い日差しがいっぱいにリビングルームの窓から差し込んでいた。
暖かさを越え、単なる熱光線と化した日差しに、今までソファーで眠っていた文墨玄恵は目を覚ました。顔に当たる日光を手で遮りながら、窓のカーテンを閉めた。ふと壁に掛けてある時計に目をやると時刻はちょうど三時を過ぎたところだった。
結構寝てしまっていたらしい。彼女は、隆希と昼食をとった後、このソファーに座ってDVDを見ようとしていた。しかしテレビをつけ、ぼんやりしているうちに寝てしまったのだ。
玄恵はいまだはっきりとしない意識できょろきょろと辺りを見回す。ふと、何かを思い出しかけ、引き出しかけたその記憶は曖昧な感覚の中ですっと消えた。
「えーっと……。なんだっけ……」
何か大切な用事があった気がするのだが、どうしても思い出せない。
眠たさの残る目をこすりながら、何とか思い出そうとするが、やはり出てこない。
そうやって何かを思い出そうと努力していると、視界によく見知った顔が映った。
「あれ? 銀埜じゃん。また帰ってきてたんだ」
そこにいたのはほかの誰でもなく、西大路銀埜だった。
「うん。二時間ほど前にね。玄恵は何してたの? 妙に静かだったけど」
「――何それ。それじゃあ、私がいつもうるさいみたいな言い方じゃん。……さっきまで寝てたのよ。ところで、銀埜何か用?」
玄恵はソファーに座り直した。
「うん。今日、美波のお見舞いに行くって言ってただろう? 何時になったら行くのかなと」
玄恵はそれを聞いてようやく思い出した。さっきから思い出そうと奮闘していたのは、まさにそのことだった。この家の最後の住人、赤尾美波は現在諸事情から入院している。そのお見舞いだ。
「えーっと。面会時間は中度半端だけど五時からしか無理だそうだから、四時半くらいに出ようかな」
「そうか。分かった。でも、この空模様じゃ雨降るかもしれないぞ。大雨」
「え……? 快晴じゃない……」
玄恵は立ち上がり、窓に寄った。カーテンを開け外を見る。確かに日差しも強く今は晴れているが、空にはもくもくと大きく育った入道雲が見えた。
なるほど。確かに、これは一雨来そうだ。と、いっても夕立程度の短さだろうが。しかし、雨の中を歩いて移動するのは暑苦しいし、何より、濡れてしまうかもしれない。
「でもなぁ。美波の面会時間はそこだけで……。それ以外はなんだかいろいろと検査があって無理らしいんだよね……」
雲の動きからして、ちょうどここを出るくらいに降り出しそうだ。急に困った表情になった玄恵。それを見るに見かねた銀埜はポケットから携帯電話を取り出した。
「仕方ないから、車の手配するよ」
「え、本当!? いいの!?」
玄恵は目を輝かせて銀埜に詰め寄る。銀埜はその勢いに圧されながらも、うなずいた。
何度も何度も確認をしてくる玄恵を銀埜はかわし、どこかへ電話をかけながらリビングを出ていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
カタカタと打鍵する音だけが部屋に響いていた。いつも忙しなく鳴いていた蝉たちはどこへ行ってしまったのだろうか。いたらいたで八月蝉いだけなのだが、なかったらなかったでなぜか寂しく感じてしまう。
隆希は椅子の背もたれにもたれかかった。
「はぁ……ここの部分がどうもなぁ……」
隆希は並べられた三つのディスプレイをそれぞれ見比べる。真ん中のディスプレイには今し方隆希が入力していた大量の文字列。左のディスプレイには0と1が無数に羅列され、右のディスプレイには電子回路を思わせる幾何学模様が表示されていた。
隆希は汗をだらだらと流しながら続けてさらに入力をする。そのたびに右のディスプレイの幾何学模様が変化していく。
隆希はひらすらに入力を続けながら、なんでまたこんなに暑いのだろうと疑問に思った。クーラーは思いっきり効かせているはずだった。辺りを見回し、すぐにその暑さの原因を発見した。部屋の隅に置かれた隆希のパソコンの本体。それとネットサーバー。それが異常発熱している。いずれも特殊なクーリングボックスの中に据え置かれているのだが、どうも冷却限界らしい。まったく冷却が間に合っていなかった。
「はぁ。ったく。おかしいよなぁ」
愚痴を吐く。するとすぐ後ろから、
「なにがおかしいんだ?」
突然の声に驚き、隆希は勢いよく振り向く。
「銀埜か。驚かすなよ。ノックぐらいしてくれ」
「ノック? ノックならしたぞ。でも反応がなかった。それって入っていいってことだよな」
「いや、その考えは変だ」
大体、以前にノックして反応がなかったら入るなと言ってある。しかし銀埜はそんなことまったくすっかり忘れてしまっているようだ。
「で、何しに来たの」
「ほら、美波のお見舞い。あと三十分くらいで行くぞ」
「あぁそうだったな」
確かに昨日玄恵がそんなことを言っていた気がする。
隆希は何げなしに窓の外へと目をやった。すると、入道雲が黒々とした雲を引き連れてどんどんとこちらへ迫ってきていた。これは一雨来そうだ。
「雨のことなら心配はいらない。車を手配してある」
「タクシー?」
「いや、レンタカー」
即答。
「誰が運転すんだよ」
「そりゃあ決まってるだろ。玄恵だよ」
またもや即答。普遍の世界の真理でも語るように。
隆希は呆然とする。
というのも、玄恵の年齢が問題なのだ。彼女は今年で十七。もちろん運転免許を取ることはできない。
しかし彼女曰く、「取得したんだから持ってる。理由なんか無いよ」
隆希の数ある悩みの種の一つである。隆希にはどうもここにいる人間は一般感覚がおかしいとしか思えない。十七で運転免許を持っている玄恵しかり、それを当たり前とする銀埜しかりだ。
「ほら、早く準備しろよ」
「あ、あぁ……」
隆希は銀埜の部屋から出ていくのを見送ると素早く作業をキリの良いところまで終わらせ、お見舞いに行く準備を始めた。
案の定、雨は降ってきた。隆希が外に出るのとほぼ同時、バケツをひっくり返したような土砂降り。こんなに雨男だっただろうか、と嘆きつつ、隆希は視線を巡らす。
隆希たちの住むアパートには専用の駐車場がある。見ると、見慣れない車が停まっていた。見ただけで分かる、何とも高級そうな某有名海外メーカーのセダン。
まさかとは思いながらも、隆希は濡れるのを気にしながら小走りでその車の側へと駆け寄る。窓からそっと中を覗くと、やはりいた。運転席に座り意気揚々としている玄恵と助手席で眠たそうにしている銀埜。
隆希は車に傷を付けないように、と小市民的なことを気にしながら後部座席に乗り込んだ。
「んじゃ、行こっか」
玄恵は、隆希が座ったのを確認すると、アクセルを勢いよく踏みこんだ。
「――――ちょっ、まっ! 文墨――ーっ」
急発進、急加速。慣性の法則は当たり前のように働き、まだシートベルトもしていない隆希の体はシートに思い切り叩きつけられた。
玄恵は隆希のことなどお構いなしで、なんとも気持ちよさそうに運転をしている。雨の中なのにも関わらずワイパーさえ動かしていないところに、隆希は身を震わせる。公道に出ても運転が優しくなることはなく、荒々しい。ひどいの一言につきる物だった。まったく、事故を起こさないのが不思議なくらい。隆希は思う。なぜこれで免許が取れたのだ、と。まったくもって謎である。
出発して数分もしないうちに、隆希たちの乗る車はメインストリートで早速渋滞にはまってしまった。この通りは街で一番大きな県道であり、その道沿いには飲食店や大型の量販店などが並ぶ。街東側の畑や田圃だらけの田舎の雰囲気とはまるで大違いである。美波の入院している朱雀総合病院もこの通りに面している。とても大きな病院で、評判もよくなかなか繁盛しているとか。病院が繁盛するということは、それだけ病人が多いということで、それが良いことかと問われれば何とも言えないが。そんな朱雀病院は、隆希たちの住むアパートからそう遠くない場所にある。車だとおそらく十分もかからないであろう。しかしこの付近の道はよく渋滞する。そうスムーズにはいかない。
今も車は信号からはるか遠くの場所で立ち往生している。車内にはラジオの音が小さくあるだけで、会話は皆無だった。隆希はあまり静かすぎるのを好まない。一人で居るときなら別として、誰かと居るときに会話がないと息が詰まりそうになり堪らないのだ。雨がしきりに窓を打つ音が耳に響く。
隆希は仕方なく外を眺めた。土砂降りで視界は悪い。ぼんやりと、歩道を歩く人々の姿が見えた。ちょうど、下校時間なのだろうか。子供たちの姿が多く見られた。夏休みを前にして、こんなに雨に降られ、彼らの気も沈んでいることだろうと隆希は思ったが、案外そうでもないらしく、子供たちは元気で、走り回っている子すらいた。無邪気な心には雨すら玩具。次第にその使い方は忘れていくものだけれども。
傘を差して歩いていく大小様々の人影。
――――あれ?
隆希は、その人の波の中、一人の少女に目を奪われた。人混みの中で一際目立つその少女は、これだけの雨の中で傘を差さず、しかし傘がないというわけではなく開いた状態でビニール傘を手に持っていた。またレインコートを着ているわけでもない。白いワンピースを着た、長い黒髪の少女。ずぶ濡れになりながら立っている。――そして。
隆希には、なぜか彼女が自分のことを見ているように思えた。
「あ、」
少女の姿が、どっと押し寄せた人の波に紛れて見えなくなる。人々が通り過ぎたときには、もう少女の姿はどこにもなかった。その代わりに、なぜかビニール傘が開いた状態で一本落ちていた。
「なんだ、今の……」
車が少し前へ進む。
「どうしたんだ、隆希」
銀埜がシートの隙間から不思議そうにこちらを見つめていた。
「いや…………なんでもないよ」
やがて、車は進み始めた。
残された傘も、雨の飛沫の中へ消えていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
美波の入院している病室は朱雀病院の中央病棟、その六階にある。この朱雀病院はそれぞれ七階建ての五つの病棟を持つ。ほぼ真四角の中央病棟を取り囲むように、L字型の四つの棟が四方にあり、それぞれが連絡通路で繋がっている。真上から見れば、ちょうど、漢字の「回」のような形に見えることだろう。
C611病室。ネームプレートには紅尾美波の文字。
隆希たちは、軽くノックをし部屋へと入った。
広めの個室。入り口付近にクローゼットのようなものがあり、部屋の隅、窓際には美波の寝るベッド。その横には小さな机があった。
ベッドに横になっていた美波は、隆希たちが入ってきたことに気づくと、上体を起こした。
「久しぶり! 半月くらい会ってないかな?」
久々に聞く、明るい声が心地よく隆希の耳に響く。
紅尾美波。彼女は十八歳と隆希たちの中では一番年齢が上だ。しかし、その声も見た目も、実年齢よりだいぶ幼く感じさせる。
「美波、久しぶりだね!」
玄恵は真っ先に美波の元へ駆け寄り、おもむろに頭を撫で撫で。美波も気持ちよさそうにされるがままだ。
「よっ、美波。少し痩せたか? ほら、これ差し入れ」
銀埜は持ってきていた紙袋を美波に手渡した。中身は隆希も知っていた。
目を輝かせながら手を突っ込む美波。
取り出される、携帯ゲーム機。ざっと三種類。
実は、美波は大のゲーム好き――もといゲーマーであったりする。しかし、主治医である医者――隆希たちの間での通称は仙人――から禁止令を出されていた。ゲームがないと生きていけません、と自称する美波は、禁止令が出された当初、隆希たちに頼み込んでゲームを持ってきてもらっていた。しかし、無駄に勘のいい仙人の手によりそれは阻止されたのだった。
そんなわけで、禁止令も解除され、ゲームの使用が許可された美波はゲーム機を手にして満悦の笑顔だ。
隆希はそんな美波を見て、つい溜息を吐きたくなった。
「よくゲームなしで生きてたな。とっくに禁断症状でも出て苦しんでるかと思ったよ」
隆希の嫌味に、美波はぶんぶんと首を横に振った。
「ううん、そんなことないよー。確かにゲームがなかったら死んじゃうかもだけど、脳内妄想できちんと補完してたから、この通りぴんぴんしてるよ」
そんなことを言いながら、美波はすでにゲームを起動していた。ふと隆希が見ると、玄恵も銀埜も同じようにゲーム機の電源をつけている。どうやら、何かのゲームで通信対戦をするようだ。
自分も、と、隆希は紙袋の中を探ってみるが、隆希のゲーム機はなかった。
「俺だけ、除け者かよ」
言っても誰も反応しない。
仕方なしに隆希は美波と――ゲームはしているが――話すことにした。
「なあ、美波。お前、体の方はもういいのか?」
「うーん。そうだね」
話しているときも画面から目を離さない美波。
「見た目はまあこのとおりだし、だいぶよくはなってきているけど、治ってはないみたい」
「そうか……」
美波が入院している理由はある病気のためだ。隆希はその病名を選任から直接聞いてたのだが長い名前だったせいで、病名までは覚えていなかった。
ゲーム禁止令が出ていたのは第一にゲームをするような暇がないのと、第二に疲れることの防止だとかなんとか。
「うわっ! また負けた……。美波強すぎ……。もうチートって言っていいレベルだよ、これ」
大きな声が聞こえ、隆希がそちらを見ると、玄恵が意気消沈といった風に俯いていた。どうやら美波にこてんぱんにやられたらしい。
ゲームで負けた程度で、と思うかもしれないが、美波を相手に負けたのなら事情は違う。対戦相手がいくら強いと自負していても、一気に、月とすっぽんの差まで突き放して勝つ。隆希には美波の指の動きがどうも人間業に思えない。美波は単にゲーマーというわけではなく、実はゲーム界ではそこそこ名の知れた神プレーヤーでもある。
玄恵も銀埜もすっかり項垂れてしまっていた。美波一人が満足そうに笑っている。
隆希はその光景に目を細めた。
これだけ笑顔でいられるのなら、そこまで悪くはないのだろう、と少しだけ安心した隆希であった。
その後もしばらく対戦をしていたらしかった美波たち。
ふと玄恵がゲームをテーブルに置き、椅子から立った。
「ちょっと喉が渇いたから、下の売店でジュースでも買ってくるね」
玄恵がそう言って部屋を出ていこうとすると、銀埜も同じくゲームを置いて立ち上がった。
「俺も行く。隆希、何か買ってこようか? お前も、喉渇いてるだろう」
珍しく気の利く銀埜に隆希は唖然としながらも、炭酸飲料を頼んだ。
玄恵と銀埜の二人は病室から出ていった。二人に占領されていた椅子が空き、隆希は待ってましたとばかりに椅子に座る。
「ねえ。隆希」
不意に美波が口を開く。
「ここに来る途中……それか、今日、誰かに会わなかった?」
美波は話しかけながらも、依然としてゲーム機の画面から目を逸らそうとはしない。
隆希としては少しだけ不愉快だったが、美波には言っても仕方ないことは得心していたのであきらめる。
それにしても、と隆希は今日一日を振り返る。朝遅く起きて、朝食を兼ねた昼食を食べ、それからはパソコンの前にいた。来客はなかったはずだ。
「多分、誰にも会ってないと思うけど、何で?」
「いや、ね。うーん。じゃあ、誰かの視線を感じた、とかは?」
「そんなことは…………」
思い当たる節は――――いや、あった。確かに、ここへ来る途中に。
「あったな。それがどうかした?」
「うん。あのね」
美波は下を向いたまま薄ら笑いを浮かべている。それが画面の中のことに対してのものなのか、それとも。
「それ、女の子だったよね。当たってる?」
隆希はドキリとした。確かにそうだった。雨の中の少女。しかし、あえて隆希は肯定も否定もしなかった。
美波は話を続ける。
「それ、あんまり見えていいものじゃなかったかもね」
その言葉に隆希は身を震わす。
他人からしてみれば、他愛のない冗談のように思えるその言葉。しかし、事情を知っている人間が美波からその言葉を聞けば、それは恐怖である。
なぜかというと、美波は少し特別な眼を持っているからだ。普通の人には見えないような物が視えてしまう。特別な眼なのだ。俗に言う、霊視能力者の類である。
「ゆ、幽霊か何かなのか?」
聞くと、美波は少しだけ首を傾げた。
「どうだろうね。近いものだとは思うけど、少し違うかも。隆希の体におかしな『力の残留体』が視えたからね。これは幽霊と言うよりもっと別な……。そう、幽体離脱とかそちらの類だね。まあ、大丈夫。心配はしないで。呪われるとか、そう言うものじゃないから。多分」
多分だけ余計だった。
――――雨の中であの少女は俺の方を見ていた。
十分ほどして、玄恵と銀埜は戻ってきた。隆希は玄恵の抱え持っているものに目を丸くした。
「文墨……、何それ」
「何って。見れば分かるじゃん。朝顔だよ」
「いや、そうじゃなくて」
清潔感のある白い植木鉢に埋まった朝顔は支柱に蔓を絡ませ、今その花は閉じ蕾となっている。
「なんだかよく分からないけど、売店で売ってたんだ。珍しいよね」
文墨は苦笑いをした。それから、朝顔の鉢をそっと窓際の棚の上に置いた。
「玄恵、ありがとう。やっぱり、お花っていいよね」
美波は文墨に微笑む。
確かに、花があると清々しい奇聞になれるものだ。小さな存在でも、花があるだけで空気が良くなったようにも感じられる。それが花の魔力といったものだろう。
「ほら、隆希。これ、頼まれてた品」
隆希が銀埜の方に振り向くと、ジュースの缶が勢い良く飛んできた。隆希は慌てながらも、咄嗟に受け止める。見ると、コーラの缶。隆希は銀埜に礼を言いながらも、缶を開けるのを躊躇った。銀埜が缶を投げる時といい、受け止める時といい、缶が振られていないはずはない。開けたらどうなるかは、分かりきったことだ。
銀埜の方を見ると、そんなことを気にする風もなく、自分用に買ってきたブラックのコーヒーを飲んでいた。そして、ポツリと呟く。
「朝顔っていうかさ。病室に鉢植えって、縁起悪いらしいな」
空気が凍る。
空気を読む気すら無い銀埜であった。
それからはようやく普通の雑談だった。美波だけは相変わらずゲームをしていたが、今度は視線は隆希たちの方へ向け、目隠しという神技を実演していた。隆希としてはもう突っ込むのはやめた。
雑談というものは、他愛ない内容であっても、むしろそれが故に時間が経つのを早く感じさせる。面会時間はあっという間に僅かとなった。
仙人こと美波の主治医は、癖なのかいつもどおりその長いあごひげを手で触りながら、面会時間が終わる五分前に女性の看護師を連れて部屋に現れた。仙人は、神技プレイをする美波を不思議そうに眺めながら、
「紅尾さん。いくら体調が良くなってきているからといって、長時間のゲームは控えてくださいよ。目にも悪いですし、短時間ならともかく、長時間のゲームは色々と体に悪いですよ」
「ふぁーい」
間延びした返事。空返事になることは間違いないだろう。
「さあ、皆さんも今日の面会時間は終了ですから、なるべく早く帰ってくださいね」
仙人はそう言うと、美波のそばのテーブルに薬が入ってるらしいケースとコップに入った水を看護師に置かせ、部屋を出ていこうとした。しかし、ふと立ち止まって振り返った。
「ん。その朝顔は? 朝はなかったね」
仙人は朝顔の鉢植えを指で指し示す。
「あ、それは私が買ってきたんです。なんだか、下の売店で売っていたんで」
「ほお。売店で、ねえ……。私はあまり売店を使わないものでね。そんなものまで売っているとは知らなかったよ」
そうして仙人は病室から出ていった。その背中を見送り、隆希たちも帰るための準備をした。
「それじゃあ、俺たちも帰るから」
「うん、また来てね」
笑みを返す美波。また、と言ってもいつ来られるかはわからない。なるべく都合をつけてもらうことにはしているのだが、お互いに都合が合うという日がなかなかないのだ。
隆希たちは部屋から出ていく。最後に隆希が部屋を出ようとした時、美波がポツリと呟いた。
「気をつけてね」
隆希は、何に……とは訊かず、そのまま部屋を出た。