第四節「虚像(中)」 self/injury
隆希の部屋を出た玄恵たちは早速左隣の部屋である華雪家の扉の前へ立った。二人でいつ何が起きてもいいように思考の整理をし、うなずきあってから、玄恵がインターホンを押した。単調な呼出音のあとすぐい扉は開いた。
「どちら様?」
扉の向こうから現れたのは四十代くらいの主婦風の女性だった。玄恵は相手に不信に思われないように最大限に自然を装う。
「すみません、華雪友香さんはいますか?」
「あら、友香のお友達?」
不審には思われていないようだ。願ってもないその言葉に玄恵は乗じ、先を続ける。
「はい、そうです」
「友香なら今日は部活に行っているわ。あと二時間くらいしたら帰ってくるはずね」
「そうですか……」
玄恵はなかば大げさに残念がってみせた。
不在、と言われたものの玄恵は少し疑いを持っていた。玄恵はこの部屋にこの母親らしき助成以外の気配を感じていたのだ。いや、それは気配なんて不確かなものではなく、人間の魔力の塊だ。それも、とても微弱な。相当体力的に弱っているように思える。それでも誰かがいるのはほぼ確実だった。
もう一つ玄恵は気になることを見つけていた。それはこの母親らしき人物から魔術師としての魔力が感じられないということ。玄恵は、華雪家が女性に強く魔術師としての力が現れる血筋であると聞いていた。するとここにいる女性は華雪の直系ではないのかもしれない。いずれにせよ、魔術師でないことは好都合だった。
「私、友香さんとは最近会っていなくて……。実は私、この前まで同じ学校だったんですけど、転校したんで。今日は久々に会って驚かそうと思っていたんですけど残念です……」
そんな嘘だらけの適当なことを言いながら、玄恵は暇をもてあましている美波に遠隔精神共有術で話しかける。
『美波、この人は魔術師じゃないみたい。記憶に強制介入、よろしく』
『了解ー』
いままで玄恵の後ろにいた美波は、玄恵の横に立った。そして左目を手で隠し、右目だけで目の前の女性を視た。詠唱も他の動作もなしに能力を発動させる。黒の瞳が琥珀色に変化した。同時に、玄恵が脳内詠唱で相手の思考を静かに停止させる。
その間に美波は相手の記憶をのぞきみた。美波の眼には生まれつき特殊な能力が備わっている。今は手で隠している左目は、ほんの少しだけの先の未来を視る、「短先未来視。現在能力を行使している右目は、相手の思考や記憶に介入できる、「深心潜行」の眼。いずれもいわゆる魔眼と呼ばれる部類で、発動には詠唱は必要とならない。
「玄恵、何を知りたい?」
美波は視線を一ミリもずらさない。
「そうだね……。最近この家で何か変わったことがあればそれを。ついでに華雪友香の情報……とくに交友関係と学校、さらについでに部活までよろしく」
「オーケー」
美波は膨大で曖昧な記憶の海から、素早く必要な情報を選り抜き、自分の記憶へと取り込む。数分かかり、美波はようやく左目から手を離した。自然と右目の瞳の色も元に戻る。
「おかしなことは特にないみたい。あえて言うならば、その友香って子が最近やたらと元気なことだけだね。でもこれは異常ってほどじゃないよね。楽しいことがあれば元気になるのが人間だし」
美波はその他の情報も話そうとしたが、玄恵はそれを止め、しばし考え込んだ。今回、華雪友香の調査の任務を出したのは、華雪の本家筋である輝有家だ。直接の意図は玄恵たちは知らされていなかったが、どうも華雪友香の生体反応が弱まっているとのことだった。しかし、今美波の読み取った記憶によると、華雪友香は元気であるという。これはいったいどういうことか。
そこまで考えて玄恵ははたと思い出した。
「あ……」
「ん? どうしたの」
突然声を上げた玄恵を美波は不思議そうに眺める。
「部屋の中の弱い魔力の反応……もしかしたら――!」
玄恵は部屋の中を見据えた。
「美波、この人ちょっと適当に処理しておいて! 私、中を確認してくるから」
言って、玄恵は術により立ったまま思考停止で放心状態の母親の横を通りぬけ奥の部屋へ行こうとし――――
「んー、誰?」
そこでふいに目の前に現れた少女にただただ驚いた。
――いつからそこに……!?
気配はまったくもってなかった。今の今まで、声をかけられるまでその存在に気づくことが出来なかった。魔術の発動は感じられない。さらにおかしいことに、今目の前にいるのがわかっていても彼女の存在は希薄で少し集中を切らせば見失ってしまいそうですらあった。ただしその少女、華雪友香はたしかにここにいる。目の前の少女は間違いなく華雪友香だ。
「あなた、誰?」
突然のことに困惑する玄恵に、友香は語気の強い問いをかける。
「あ……」
口を開こうとした玄恵の声は、
「私、魔術師さんを呼んだ覚えはないの」
耳に染み込んでいくような友香の声にかき消された。
「さあ。――帰って――」
その台詞を聞いた瞬間、玄恵の意識は急速に闇に引きこまれていった。
†
なんだかさっきから部屋の外が騒がしい気がする。インターホンが鳴ったから、誰かが訪ねてきたのだろうけど、どさりと人の倒れるような音が聞こえた。
私は暗い部屋の中で一連の音を意味もなく傍聴していた。……ん。私? えっと……、私ってなんだっけ。だって、今部屋の外にいるのが多分友香だから、ここにいるのは私じゃない。外にいるのが私で、私は私じゃないなら、私は誰?
まあそんなのどうでもいっか。
どちらにしても友香はきちんと存在しているのだから問題はない。どちらでも私にあることに変わりはなくて、わたしもここにいるのだから違いはない。
なんとはなしに自分の身体に目を落とす。もともと細かったのが自慢だったけれども、今となっては骸骨みたい。腕も、足も、骨ばっていて顔も痩けてしまっていることだろう。
ここまでくるとただの幽霊のよう。真っ暗な部屋の中でずっとうずくまり続ける幽霊。さっきはなんとか外へと出たけれども、気づいたらまたここにいた。結局わたしはここから抜け出せない。地縛霊じみた存在。
ふいに扉が開いた。その隙間から差し込む光は鋭くわたしを照らす。そして光のなかには私がいた。
私は抑揚のない、でもどこか楽しげな瞳でわたしを見つめている。私は扉の隙間から、ぽいと、こちらへコンビニで買ってきたらしい何かの入った袋をなげやった、。
「ごめんね。あんまりお金ないからさ」
私はただそれだけを言って、力いっぱいに扉を閉めた。暗闇が舞い戻る。
わたしは袋の中を探ってみた。菓子パンが一つと一リットルのミネラルウォーター。食欲なんかすでになかった。とくに食べる気もなくそれらを袋から取り出すと、一緒に何かが袋の外へと出てきた。
鋭利なナイフ。
わたしはただただわらうことしかできなかった。
†
ようやく砂嵐から開放されたころ、隆希は何時まで経っても戻ってくる気配のない玄恵と美波の様子を見るべく、床にうつ伏せになっている銀埜を無視し、部屋を出た。
迷わず、隣の部屋の玄関を見る。玄恵たちの姿はない。華雪家の玄関はこれといって変わった様子もない。
「中にいる……? いや、それはないか」
一応、感知を行なってみた隆希だったが二人らしき反応は部屋の中にはなかった。一般人の反応が一つあるだけだ。では、彼女たちはどこへ行ってしまったのだろうか。
隆希は一旦、部屋へと戻った。部屋の中ではあいかわらず銀埜が寝転がっている。
「おーい、銀埜。あの二人いなくなっちゃったんだが、探しに行かないか?」
「……」
返事はない。屍のごとくピクリとも動かない。どうもノイズにやられたことにかこつけて、無視を押し通すつもりらしい。隆希はもう彼には何も言わないことにした。
「さて、どうしたものか」
なぜ二人はいなくなってしまったのだろうか。どこへ行ってしまったのだろうか。どうもそこがわからない。この二十分間になにがあったのか。あるいは何か重要な情報を得た……。
「何かあったのか……」
そう考えるのが妥当だった。おそらく二人はどこかへ行かなくてはならない重大な事態に遭遇したにちがいない。隆希たちにそのことを告げる暇さえなかったのだろう。
隆希は部屋の中を見回し、転がっていたペンをポケットに入れると、銀埜を放置して再び部屋を出た。
街に出て、隆希は通常の感知ではなく、簡単な術を用い、広範囲に向けての感知を行った。すると意外にも早く二人らしき反応が見つかった。場所は今いるアパート前から北東に一キロほどのところ。立住川沿いにある、この街の商店街のある方向だった。それらの反応はあくまで魔術師である、という反応だったので彼女たちという確信はできなかったが、それ以外の反応が見つからなかったのでそこに行く以外の選択肢はなかった。
軽く走って商店街の方へ行くと、隆希はどこかうつろな瞳で商店街の入り口付近をふらふらと歩く二人を発見した。
「いたいた」
隆希は近寄り、声をかける。
二人は隆希の声を聞くと、ハッとして隆希を見た。
「あれ……? 私たち、なんでここにいるんだっけ」
玄恵は美波に目で問いかけたが、美波も首を傾げ、お互いに状況がよくわかっていないようだった。見る限りではふざけているようではなかった。どうも記憶に欠落があるようだ。とりあえず、隆希は自分の知っている範囲で状況を伝えた。すると、ふたりはぽかん、と口を開き、お互いに顔を見あわあせると、あっと声を上げた。
「そう! 思い出した! 私、華雪友香に『忘却』のスペルをかけられたの」
「忘却?」
うん、と玄恵はうなずく。
「その名の通り、相手の記憶の一部を『忘却』させる魔術。まあ、私たちみたいに、ひょんなところで思い出したりするような不完全なものなんだけどね」
「なるほど。ところで、ターゲットの華雪友香にその魔術をかけられたんだよな。会って突然なのか?」
「うん、そうだよ?」
今度は美波がうなずく。
「私は直接じゃないけど。玄恵が部屋に入ったのとほぼ同時だった。それにしても、いきなり魔術を仕掛けてくるなんて……、おかしい」
たしかに、仮に相手が魔術師であると友香がわかっていたとしても、何の関わりもない相手に突然魔術を使うようなことはまずありえない。
「たしかにおかしいな。ところで、忘却の魔術って、そんなに即時発動できるものなのか? 精神関連のスペルは組み立てが厄介だって聞くけれど」
精神に干渉する魔術は隆希の専門外だったため、知識は簡単なものしか持ち合わせていなかった。しかし、実際のところ、どんな魔術でも基本的には一瞬で発動できるような容易なものは少ない。たいてい、魔法陣などの図形を書いたり、詠唱文を口に出して詠唱する必要がある。
「そうだね。たしかに精神干渉術は組み立てに相当な計算が必要になるけれど、華雪の術の組み立ては特殊なんだ。言霊魔術って言うんだけど、知ってる?」
隆希は首を横に振った。
「そう。じゃあ、言霊って言葉はどう?」
「ああ、それなら」
その単語には聞き覚えがあった。どこで聞いたかは覚えがないが、日本に古くからあるアニミズム的信仰であるということは記憶に残っていた。
「たしか、言葉の一つひとつには力が宿っている、っていうやつだよな」
「うん、それ。言霊魔術っていうのは日本最古の協会認定魔術なの。成立は奈良時代とか言われてる。日本古来の和歌がその原型なんだって。言霊魔術は複雑な術式を必要としない脳内詠唱を主とする、口語詠唱のみで発動できる特殊な簡易詠唱なの。例えば『我が手に炎を』なんて事を言っちゃえばそのとおりになるってわけ。予め術式で内容を決定させたものを発動するんじゃなくて、その言葉自体が世界そのものに働きかけて決定されるんだ。単語だけでも発動できる所が怖いんだけど、誰でも使えるものじゃないみたい」
「それが華雪の魔術ってことか」
「そう。普通の会話文に混ぜて使うこともできる、恐ろしい魔術」
玄恵がさらに付け加えた。
「現在日本で使われている日本語を回路の最小単位として用いた魔術はこれだけ。日本語に置換した回路は別だからね。蒼河くんも魔術を使うときは英語かラテン語を使うでしょう? プログラムとしてはそちらのほうが効率がいいから」
たしかにそうであった。隆希は今までに日本語だけで発動できる魔術を聞いたことがない。隆希自身も魔術は英語やラテン語を用いいていた。
美波や玄恵の話を聞き、隆希は危険を感じていた。会ってすぐの相手にすぐに魔術をかけてきた華雪友香。しかも、その魔術は危険度の高い魔術。何か嫌な予感がしてならなかった。
「これから、どうするんだ?」
隆希が玄恵に問うと、玄恵は表情を曇らせた。
「いや、ね。ちょっと事態はだいぶ面倒な事になってるの」
隆希は気重なその話し方に眉をひそめる。
「面倒って何が……」
「実はね。今の状況は今回の任務のプランで言うと、プランCに移行したの。ついさっき彼女からの攻撃があったからね。ターゲットからの攻撃があれば」
玄恵は哀しげな目をした。
「処分しろ、と言われてるんだ」
†
聞きたくないもの、見たくないもの――知りたくないものというものは意識しなくても、存外、簡単に接触してしまうものだ。
銀埜が目の当たりにした光景もつまりその部類であった。
隆希が部屋を出ていったのを確認すると、銀埜はすぐに起き上がった。彼は単に面倒そうだから、タヌキ寝入りをきめこんでいたのだ。
起き上がり周りをみると、その異変に気づいた。先ほど玄恵の使用したピーピングが未だ作動していたのだ。しかし、そこに映っているのはノイズではなく、きちんとした部屋の映像であった。すでに術式は崩れかかっている。映像はところどころ途切れているが、なんとかその様子をうかがい知ることはできた。
幻像はただ薄暗い。その雰囲気から完全に締め切られた部屋であると理解する。その部屋の隅には少女がうずくまっていた。視えるのはただそれだけ。映像は不鮮明であり、詳しくは分からなかった。しかし、銀埜はその部屋が、そこにいる少女が、明らかに普通でないことを感じ取っていた。
銀埜は玄恵の使用した魔術回路を媒介に、自らの意識を強制介入、玄恵の使用したルートを用いて間接的に高精度のピーピングを行う。女の子の部屋を覗くということに若干躊躇った銀埜だったが、意を決して術式を発動させた。
しかし、銀埜は視てから後悔した。見なければよかった、と。ただ、同時に視なければいけなかったとも思えた。
銀埜の視界は今、少女の部屋に立っているのとほぼ同じ感覚だった。
意識を移動させることで自由に部屋の中を見ることができる。
ものが散乱した部屋。床には様々なものが転がっている。そんな中で光るものがたくさん落ちている。それは鋭く尖ったガラスの破片だった。しかしそれらは元の色をしていない。紅い。それは明らかに固まった血。
銀埜は少女の方に目を移した。手首に幾本もの紅いライン。いや手首だけじゃない。腕全体、手の甲。色んな所にあるそれは、どうみても自傷の痕。
暗い部屋に閉じこもり、自らを傷つけている少女。短絡な考えで、且つ偏見混じりだったが、銀埜は彼女がうつ病の患者に見えた。
しかし、銀埜はすぐに自分の考えを半分否定する。どうも彼女はなにか異様なものに取り憑かれているように見えたのだ。
それは……。
銀埜が思考を始めたとほぼ同時に、部屋に光が差し込んだ。
銀埜は大体のことを理解した。




