第一節 「虚像(上)」 Doppelgänger
私がその異変に初めて気づいたのは、去年の秋頃のことだった。中学二年生である私の二学期中間考査の時期で、友人たちもテスト勉強に追われていた。もちろん、私も徹夜とまではいかないが、自分のペースで出来る限りの勉強をした。
でも、私には昔からの悪い癖がある。どうも、いつも張り切りどきを間違えるのだ。今回の中間考査も例外ではなかった。テスト初日、前日に徹夜して勉強した私はつい体調を崩してしまい、学校を休まざるをえなかった。いつものことながら、馬鹿だな、と自嘲する。もともと病気がちで、頑張ったらどうなるかなんて分かっているのに。
とはいえ、勉強面では自分で言うのもなんだけれども、そう頭は悪くないと思っている。学年成績ではいつもトップ5に入っているから、今回も一日休んでしまったところで特に危機感はなかった。テストを受けられなかった場合は後日、テストの結果返却後に追試がある。惜しくも欠点を取ってしまった人と一緒に。追試で失敗してしまえばもう後はないのだけれども、私は大丈夫だと思う。だからその日、私はゆっくりと体を休めることにした。
数日後、テスト返却日。一番最初の授業は英語だった。うちの学校の私のクラス担当の英語の教師は、外国人だ。日本暮らしが長いらしい。アメリカ出身らしく、見た目からしてその雰囲気をまとっている。体格がよく、筋肉質な体つき。英語教師なんかより体育教師が向いているのではないかとみんな本気で思っている。普段の話し口調も教師らしからぬ軽さで、英語交じりの奇妙な日本語だ(日本語が下手なわけではないのだけど)。
「それじゃあテストを返すぞ。ふぅん。今回は全体的に悪かったな。前回よりアベレージが下がってるぞ」
大げさな身振りで点が低いことを示し、先生はひとりひとりの名前を呼び始めた。答案用紙が返され、あちこちで起こる悲嘆や歓喜の声。私はそんなざわめきの中、こっそりと小説を読んでいた。どうせ、英語のテストなど休んでいた私が受けているはずもない。だから返されるはずもないのでこの時間中が暇であることは言うまでもない。
でも。
「華雪友香」
何故か私の名前が呼ばれた。首を傾げながら、そっと小説を引き出しの中へ入れ、教卓の方へ行く。
「華雪、ユーアーナンバーワン! 周りは点が低かったがさすがだな」
きょとんとする私に、先生は答案用紙を渡す。踊る98点の文字。きちんと書かれた私の名前。紛れも無い私の筆跡の、私の答案用紙が返された。……何がなんだかよく分からなかった。その時は驚きがほとんどで、何をどうこうしようということはしなかった。ただ、周りの反応も、さも私がテストを受けたかのような口振りで、私は戸惑いながらも曖昧に受け流した。
あとから出席簿をこっそりと覗いてみた。すると、おかしなことに私が休んはずのその日、私の出欠の欄には丸が書かれていた。確かに出席と記録されていたのだ。やはり意味が分からなかった。でも呑気で適当な性格の私は、追試を受ける必要もなくなり高得点だったので気にしなかった。
――考えれば、その出来ごとは奇怪すぎることなのに。このとき気づけばあるいは、なにか変わっていただろうか。
それからというもの、度々同じようなことが起きるようになった。多くても一ヶ月に一回くらい。でも、どれも私にとって都合のいい事ばかりだったので、やはり無視した。なかでも一番多かったのは、病気がちな私が学校を欠席した日に出席になっているということだった。
先週、こんなこともあった。
日曜日の昼近く。私はいつものようにベッドの中でぐだぐだとしていた。昨日、部活の練習試合があったせいですっかり疲れていた。うだうだと布団に抱きついていると携帯がなった。表示を見てみると、親友の番号。通話ボタンを押す。
「ふわあ。もしもし、キョウカ? どうかした?」
『ふわあじゃないよ、ユウカ! 今日十時集合って言ったじゃん! なんで来ないの?』
返ってきたのは親友の怒気をはらんだ声だった。ちなみにユウカというのは彼女から呼ばれている私のニックネームで、初めて会った時に友香という名前を呼び間違えられたのが定着したものだ。
「え……、集合って。なんか約束してたっけ?」
電話越しに私は首を傾げた。枕元の置き時計をみると、もう十時半を過ぎていた。少し思い返してみるが、何も約束した覚えはない。
『もうっ! 忘れたの? 昨日本屋でたまたま会った時に、明日一緒に買物いこうって話になったじゃん』
「本屋……?」
昨日は本屋など行っていない。一日中部活があったのだから。帰ってからは疲れから、家から出ることはしていない。じゃあ、昨日キョウカと約束したというのは誰だろう。
――ふとドッペルゲンガーという単語が頭に浮かんだ。いつかオカルトの事件を面白おかしく取り扱ったテレビ番組で見た単語。自分と同じ姿をした、自分とは違う幽霊のようなもの。自分のドッペルゲンガーに会うと死ぬとか不幸に遭うとか。
ようはもう一人の自分。
『ユウカー?』
でも、オカルトなんかには興味のない私はその場をやはり適当に繕うことにした。
「あー、ごめんごめん。すっかり忘れてた。今すぐ行くねー」
幸い、今日は何の用事もない。
『もう。急いでよね』
電話はぶつんと一方的に切られた。
私はそっと携帯を置いた。
――「自分」じゃない『誰か』がいる?
「自分」のしらないところに『私』がいて「私」を――華雪友香を演じている?
†
それはすぐ近くに。
†
最初の異変からだいぶ経った七月二十四日。少し遅めに起きた私は朝食を取ろうとダイニングへ向かった。ダイニングの奥にあるキッチンではお母さんが食器を洗っていた。
「おはよう」
「あら、友香。あなた二度寝でもしてたの?」
まただ。
「え、私今起きてきたんだけど」
「? 三十分くらい前に起きてきて朝ごはん食べたでしょう」
「いや……。だからいま起きたって……」
あとはお互いに顔を見合わせて首を傾げるばかり。
「もうっ、何なの!?」
私は部屋に戻り、誰に対してでもなく叫んだ。私の周りで起きているおかしなことは、日毎に身近なものとなっていく。何か訳の分からない影が私に迫ってきている。前からわかっていたことなのに、なぜ今まで目をそらしていたんだろう。
「私」の目のつかない場所にいる『私』。
「私」のいないところにいる『私』。
もうひとりの私が確かにどこかにいる。
それは……ナニ?
今更。
怖い。こんなにも怖いと思ったことは初めてだ。
私は大きな姿見の鏡の前へ立った。私の姿が鏡に映る。
「本当に、なんなの――――?」
私は鏡の中自分に問いかける。
――ふいに、鏡の中の私の口元が歪につり上がった。
「ひっ――――」
私は自分の口元をなぞる。しかし、鏡の中私と違い私の口元はつりあがってなどいない。鏡の中虚像がわらっている。
私は驚きのあまりその場にへたり込んでしまった。
しかし、鏡の中虚像は動かない――!
「ド、ウ――シ。タノ?」
『私』は歪な笑みを浮かべながら、そんな音を呟いた。




