夕空 - A girl on "Möbius loop"
(修正済みページ)
烏の鳴く声が聞こえた気がした。
ふと立ち止まり、空を見上げてみる。しかし、そこにはなにもいない。ただ、夕方の赤い空が一面にあるだけだ。
じき、日は沈む。完全に暗くなってしまう前に、家に帰らなくては。
私は再び歩き始めた。今立ち止まっていた僅かな時間さえも無駄なものだ。
赤い空はだんだんと濃い群青色に塗りつぶされていく。私は歩調を速めた。
田圃に囲まれた畦道をひた進む。
私が急いでいるのには理由があった。別に、中学生である私が、家に帰るのが遅くなったから怒られるとか、用事があるとか、そういうことではない。それは他人からしてみれば、なんとも些細で馬鹿馬鹿しい理由。
そう、あの話を聞いてしまったから。
その怪談じみた噂話は、一つの事実とともに、隣町からこの町の私の元へと人から人を通じて伝わってきた。噂話というものは、どうも信憑性に関わらず、すぐ広まるらしい。重要なのは確かさではなく、暇を紛らわしてくれるかどうかなのだろう。それに、今回の怪談には、実際にその被害者がいる――一週間ほど前、下校中に失踪した一人の女子中学生。
体力のない私の息はもう切れ切れだが、気にせず走る。
私はとにかく恐がりだ。とはいえ、ちょっとした暗がり程度なら平気。しかし、そこになにか「怖い話」が加わるともうたまらない。
視界に何件かの家が見えた。もう少し。
その話――それはどこにでもあり、ありふれすぎて使い古されたようなネタ。それに地元限定の設定を加えたもの。馬鹿げた話だ。だからこそ誰も信じず、だからこそ正体不明の恐怖をはらんでいる。
『田に囲まれた路。夕が終わり、夜へと移り変わる時間。そのある刹那。辺りの景色が一変する。完全なる闇がそこに訪れる。漆黒の帳が下りる。しかし、そこに感情を抱いてはいけない。恐怖も。そして、疑問すらも。感情を抱いた瞬間、あなたは闇に取り込まれる。其処は異界。現世でも、あの世でもない世界――』
闇はすぐそこにまで迫っていた。
逃げなきゃ……。
――ナニから?
怖い……。
――ナニが?
ふと眼前に妙な光景が現れる。
それは烏。幾羽もの烏がそこにいて、しきりに嘴を動かしている。
あれは……ナニ?
――いやな想像が頭に浮かんだ。あぁ、これも昔からよくある怪談話。死屍を啄む黒い烏。
私はしきりに首を振ってその考えを振り払う。いくら何でも、そんな話はベタすぎる。最近の和製ホラーでも、そんなシチュエーションはあるまい。
私は目を凝らす。
烏の啄んでいたのは、誰が捨てていったのかゴミのはいったビニール袋だった。透明な袋はその鋭利な嘴によって突き破られ、中から赤色や緑色の野菜らしきものがのぞいていた。トマトでも入っていたのか、赤い液体が辺りに飛び散っている。
私はほっとして、前へ進んだ。冷静に考えてみれば、この付近で烏など珍しくもない。
――と、そこで烏たちがその光る眼で私を睨んだ。
「なん、なの……」
じっと。ただじっと睨んでくる。私はつい後じさってしまった。
ふと気づく。
違う。私じゃない。
烏たちは、私を睨んでいるわけではなかった。見ていたのは私の足元。見ていたのは、”私の影”だった。
私もつい視線を下ろし、自分の影を見ようとしてしまう。
影が――無い――――――? 違う。”闇に溶けている”――!
はっとなり辺りを見る。
いつの間にか、そこら中に闇が降臨りていた。どこまでも続く果てのない闇。どこを見ようと黒、いや、”無”だ。
たとえ陽が落ちたとしてもここまで暗くはならない。いつもなら、民家の明かりは遠いとはいえ、壊れかけの街灯がいくつかあり、弱々しかったとしても足下を照らしてくれているはずだ。
これは”おかしい”。
正直、頭が混乱していて、何がなんだか分からなかった。
ただ、”怖いと思って”しまった。
どうやら、人間の思考というものはあり得ない状況に遭遇すると、うまく働いてくれないらしい。何も考えられない。考え始めることができない。
私はただそこに立ち尽くして
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「おーい。響華、話聞いている?」
自分の名前を呼ばれてはっと気づいた。見ると、私の一番の親友である友香が私の顔をのぞき込んでいた。
――ナニか、違和感を覚えた。
友香に気づかれないようにして、視線を巡らす。
学校。自分の席。昼休み。なんともないただの日常。
いつのものように私たちは、一つの机を挟んで会話をしていた――らしい。
「……えっと。何を話していたんだっけ」
「えー、やっぱ聞いてなかったんだ。 もう、どうしちゃったの? さっきからぼーっとして。暑さにやられちゃった?」
「え……、いや、うん。そうかもね……」
私は適当にはぐらかし、作り笑いをする。
確かにぼうっとしていたことには間違いないだろう。どうも記憶が曖昧だ。
今年の夏は例年より暑いらしく、日に日に気温は高くなっている。しかし、いくら暑いからと言っても、意識が飛ぶようなことは初めてだ。
何だろう。ナニかは分からないが、おかしい。
その何かを探ろうとし、
「じゃあ、もう一回最初から話すね」
しかし、友香の言葉で違和感はすぐに意識の底へ落ちていった。
私はほぼ反射的にうなずいた。
「うん。お願い」
窓の外からはしきりに鳴く烏の声が聞こえてきていた。
「では。こほん」
友香は椅子に座り直すと、僅かに顔を俯けた。
「最近のことなんだけどね。隣町から、面白い噂話がここまで伝わってきたんだ。でも、面白い話といっても、響華には少しきついかもね」
友香は茶化すように笑う。私はそれに顔をしかめて返した。
「なにがきついの? 私、これでもたいていの話には乗れる自信あるんだから」
「そっか。じゃあ、話してもいいよね。”怪談”」
友香は意図的に声のトーンを下げたようだった。私はその怪談という単語に小さく身を震わせる。たいていの話には乗れるとは言ったものの、怖い話の類は大嫌いだ。
そんな私のことを知ってか知らずにか友香は話を続けた。
「ある日の夕方。オレンジ色の空の下、一人の女の子が家へ帰るために、田圃道を走っていました。彼女には……どうしても…………どうしても、急がなくてはならない事情があったのです」
息を呑む。
「それは……彼女がある噂話を聞いてしまったこと……」
友香が喋るだけで周りの気温が下がってしまったかのように、背筋が凍る。
あぁ、そうだ。前から知っていた。
友香の語りはプロ級だ。それがたとえありふれた文章であったとしても、人を惹きつけ、物語の中に取り込んでしまう話術。トーン、間、スピード。すべてが絶妙に噛み合った、魔法じみた話し方。
「その噂話というものは、何とも普通で……馬鹿げたもの……。そう、そんな噂話彼女自身も信じていなかったのです……。ですが、それは表向き。彼女は……どこかで恐怖を感じていました」
「……その、噂話って言うのは……?」
友香は小さく嗤う。それはどこか道化じみた顔で。すっと友香が息を吸う音さえも大きく感じた。
ナニか、来る、と私の直感が伝えていた。
かくしてそれは来た。
「田に囲まれた路。夕が終わり、夜へと移り変わる時間。そのある刹那。辺りの景色が一変する。完全なる闇がそこに訪れる。漆黒の帳が下りる。しかし、そこに感情を抱いてはいけない。恐怖も。疑問すらも。感情を抱いた瞬間、あなたは闇に取り込まれる。其処は異界。現世でも、あの世でもない世界――」
「あ――――」
つい、小さく声を漏らす。
そこでようやく気づいた。
これは”過去”だと。
――再び暗転。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――私は、目を覚ましたのだと思う。
この感覚はそう表現するのが一番であった。寝たという記憶もないし、周りの景色を鑑みれば、寝ることにしても、目を覚ますことにしても、おかしなことではあるのだが。
「やあ。おはよう」
不意に声が聞こえた。少年の声。しかし、声の出所がよく分からない。
いや、それ以前に
「ここは……?」
辺りを見回す。
そこは白昼の、いつもの田圃道。私はそのど真ん中に突っ立っていた。どこを見ても田圃。そして周りの山。声はしたが、人影はどこにもない。あえて人影というならば、田圃のそばにむなしく突き刺さっている案山子だろうか。それはともかく、人影がない代わりに、私の足下に烏がいた。まさか、と思いながら烏をじっと見つめる。
しかし、当然のごとく烏は喋らない。そうなると、さっきの声は幻聴だろうか。烏はただ鋭く光る眼でこちらを睨んでいるだけだ。
そこでようやく、自分が今までナニをしていたかという思考へ移ることができた。
思い出せたことは二つ。
一つは家に帰ろうと必死に走っている私の姿。
もう一つは、教室で友人と話す私の姿。
しかし、いずれもが曖昧で、時系列もぐちゃぐちゃだ。
烏がゆっくりと私の方に近づいた。といっても、烏はなにをするわけでもなく、そこに佇んでいる。
何で私はここに突っ立っているのだろう。
よく……分からない。とりあえず家に帰ることにしよう。
私は歩き出す。
「まだ、気づかないのか」
また、声が。先ほどと同じ声。確かに、私のそばにいるこの烏が喋った――ように見えた。
まったく。何なのだろうか、この謎展開は。
「あなたが喋ったの?」
私はしゃがみこみ、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、烏に話しかけてみた。
「そうだ。話しているのは僕だ」
期待のしていない反応に私はつい、溜息をついてしまう。どうやら私は、この夏の暑さに狂ってしまったようだ。烏が喋るだなんて、そんなファンタジックな幻聴……。
再び、溜息をついているところに、烏はとんとん、と跳ね、
「おいおい。何を考えてるんだ。お前はいたって正常だぞ。それと勘違いするなよ。喋っているのは僕であって、この烏じゃあない。この烏なんかスピーカーと同じ。それ自体に意味があるわけじゃない。意味のあるのは僕の言葉だ」
すらすらと話されても、私としては何を言っているのか少しも理解できない。それに、どこか人を馬鹿にしたような口調にいらいらする。
「あなたは、何なの?」
私は、”誰に訊くわけでもなく”、”目の前の烏に問う”。
「僕かい? 僕はね、”魔法使いさ”」
「魔法……使い…………」
全くの予想外で、また聞きたいとも思わない単語に、眉を顰める。
「そんなの、こんなところにいるわけがない」
断定。だってそうであるはずだから。そうでないといけないから。
「ま、そうなるよな。それがお前としての普通の反応。でもな」
烏は言葉を切る。そして、その黒い翼を目一杯に広げた。
「お前が今置かれている状況は、お前の知っている現実の外にある。それだけは理解しておけ。解答を教えることはできないが、ただそれが存在することさえ分かっていればいつかは抜け出すことができる。逆に言えば、それを知らなければ、永遠に抜け出すことはできない」
その言葉を残して、烏は飛び立った。後には僅かに黒い羽根だけが残った。
結局のところ、あの烏が何を言いたかったのか理解することはできなかった。
まあ、どうせ幻聴。暑さで頭が惚けていただけだろう。これはいよいよ早く家へ帰って休んだ方がよさそうだ。早いところ扇風機の風にでも当たりながら、アイスでも食べてのんびりしたい。
私は家に向かって歩き始める。