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ぼくのそばにいる悪魔

掲載日:2026/03/18

 ピーンポーン。家のチャイムが鳴ってぼくは目を覚ます。

「御手洗成央、さあ起きるのだ。今日も吾輩が悪霊を召喚した。今日こそ自分の中にある怒りを吐き出すのだ」

 ベッドの傍らで悪魔がぼくを見下ろして言う。

「はいはい」

 ぼくは軽くあしらってベッドでまだ寝ている愛猫のパブロフをひと撫でして起き上がる。

 寝ぼけ眼におぼつかない足取りで寝室を出る。昨晩の残業の疲れがまだ残っている。最近体が重い。せっかくの土曜日、昼まで寝ていたいのに悪魔の奴め。リビングにあるインターホンの画面を見る。見慣れた制服、宅急便だ。何か頼んでたっけな?ネット注文の弊害だ。注文ボタンを押すとやることリストから除外され、記憶からも消されてしまう。玄関までを歩く道中、大体は何を注文したのか思い出すものだが今日は思い出せない。鍵を開けドアノブを下げる。二月の冷たい風が部屋の中へ入って来る。

「サイン下さい」

 配達の男はぼくに段ボールを差し出す。

 配達の男はぼくを見ているのに目は合わない。ぼくを突き抜けて遥か遠くを見つめているようだった。そういう目をぼくは知っている。極限まで疲れている時の目だ。ぼくももしかしたら同じ目をしているかもしれない。しかしぼくはついさっきまで寝ていた。この人は今日も働かなくてはならないのだ。ぼくは配達の男を少し哀れみながら受け取りのサインを書いた。配達の男が軽く会釈をしてぼくは段ボールを受け取り玄関のドアを閉めた。さて、中身は何かな、と送り状を見る。いつも使っている通販サイトからだ。

「えっ?」

 思わず声が出る。ぼく宛てじゃない。お届け先の欄には田町圭介、という名前が書かれている。隣の人だ。

「フハハハハ、どうだ、吾輩が召喚した悪霊は! 迷惑だろう!」

 悪魔が誇らしげに言う。

 ぼくは悪魔に一瞥をくれて段ボールを持ったまま部屋を出る。隣のチャイムを鳴らそうとして手が止まる。何かトラブルになったらどうする? どんな人なのか良く知らないじゃないか。ぼくはアパートの二階の塀に手を付いて下を見る。配達の男は車に乗ったところだ。ぼくは一瞬で慌てふためき階段をバタバタと下りる。サンダルで出て来たことを後悔した。

「待って! これ隣の人のです!」

 必死に手を伸ばす姿は魚を咥えた猫を追い掛けているようだ。

「おい!違うだろ!もっと強く言え!」

 ぼくを追い掛けて来た悪魔が言う。

 発車する車。ぼくはバックミラーかサイドミラーにどうにか映れとジャンプして手を振って、望みを込めて言葉にならない声で叫ぶ。車が止まり、配達の男が出て来る。

「なんですか?」

 男はまた、ぼくを突き抜けて遥か遠くを見ている。

 ぼくは手元を見ろ、と段ボールをずいっと前に出した。

「このバカタレが!貴様が配達先を間違えたのだろう!」

 ぼくの後ろで悪魔が呆れている。

「受け取らないってことですか?」

 配達の男はため息をつく。

 ため息をつきたいのはこっちだというのに。

「……これ、隣の人のです」

 ぼくはさっきと同じことを言った。

「はあ、そうですか」

 配達の男はちらりとアパートの二階を見る。また行くのは面倒だ。お隣なんだから届けてくれれば良かったのに、そう思っているのだ。

 ぼくはやや強引に配達の男に段ボールを押し付けて走ってその場を後にした。

 ぼくの中に水滴が一滴落ちる。時々この感覚を味わう。何なのかはわからない。そして最近になってひび割れる音も聞こえるようになった。 

「謝罪がないだろう!謝罪をしろと何故言わんのだ!」

 悪魔がぼくを指差して叫ぶ。

 毎度思うのだがこいつが悪霊を召喚するくせに何故にこちらの味方なのだろうか?しかしいくら悪魔に言われてもぼくは怒れない。もうずっと、子供の頃からそうなのだ。給食の余ったプリン争奪戦のじゃんけんで後出しをされて奪われても、鬼ごっこで何度も捕まえたのに鬼のままでも、授業参観で何度も手を上げてもぼくだけ一度も指してもらえなくても、誕生日プレゼントにゲームをお願いして図鑑を渡されても、母親におつかいを頼まれて急いで買って帰ったのに遅いと叱られても、怒れなかった。どうして怒れないのか考えたこともある。遺伝は絶対に違う。父親も母親も気分屋で機嫌が悪くなることは多々あった。感情がないかと言われるとそうではない。喜び、悲しみ、楽しむことはある。怒りだけがないのだ。怒ることにトラウマがある訳でもない。人に怒られたら素直に謝れるし、人が怒るところを見ても怒っているなと思うだけだ。そうしている内にぼくは考えることを止め、怒れないのはむしろ良いことなんだと納得するようになった。その頃からだ。ぼくのそばに悪魔が現れるようになった。ぼくにしか見えない悪魔が。そして毎度毎度、悪霊が取り憑いた人間を送り込んでくるのだ。

 アパートの階段を上がるぼくの息は切れていた。走ったからじゃない。いつもより自分の対応がきつかったように感じられて居心地が悪かったからだ。悪魔のせいに違いない。いつもに増して悪魔が怒るから、影響されてしまったのだ。悪魔の思い通りになるのは良くないだろう。ぼくは振り向いて悪魔に怒るな、と念を送った。悪魔はぼくの念を振り払うようにフンッと鼻を鳴らす。ぼくは自分のしたことが子供じみていて恥ずかしくなり前を向いた。その時だった。ウーカンカンカンカンという音がしてもう一度振り向くと消防車がアパートの前に止まっていた。

「もしや悪魔が……?」

 ぼくは青ざめて悪魔を見る。

「これは違う」

 悪魔は鼻くそを穿っている。

 アパート全体を見るがどこからも煙は出ていない。けれどぼくは急いで階段を駆け上がった。何かがあってからでは遅い。部屋にいるパブロフを連れ出すべきだろう。部屋のドアを開け、名前を呼ぶとパブロフはすぐに出て来た。パブロフを抱えて階段を下りるとアパートの住人が何人か出て来ていた。

 消防署の隊員がアパートの住人二人と話している。101号室の吉井さんと102号室の中山さんだ。ぼくは聞き耳を立てる。

「少しだけ窓を開けて七輪で肉を焼いていたんです」

 吉井さんは焦っている。

「いや、ねえ、黒い煙が出てたもんだから」

 中山さんは気まずそうだ。

 どうやら中山さんが火事と勘違いし消防署に通報したようだった。周りを見回すとぼくの隣の部屋の住人、田町さんも出て来ていた。手にはあの段ボールを抱えている。ぼくの視線に気付いた田町さんと目が合ったが、気まずさからすぐ外した。けれど田町さんはつかつかとこちらへ歩いて来るではないか。

「吾輩が悪霊を召喚した。今度こそ怒りを吐き出せよ」

 悪魔がこそこそとぼくの耳元で囁く。

 今度はお隣さんか。ぼくは身構える。

「あの、このアパートってペット不可じゃないですか?」

 田町さんはぼくが抱いているパブロフを指差す。その顔は正義感に満ちている。

「ペット可ですよ。契約の時、ちゃんと大家さんに確認しました」

 ぼくは事実だけを告げた。

「そんなはずない。じゃあ大家さんに確認してみましょうよ」

 田町さんはぼくの返事も聞かずずかずかと歩いて行ってしまった。その先にはこのアパートの大家である背の低いおばあさんが見える。

 ぼくはため息をつきつつもその後を追った。

「なあ、嫌な奴だなあ。毛でも抜いてやれ」

 悪魔が悪態をつく。田町さんの後頭部は若干、薄かった。

「大家さん、見て下さいよ。この人、勝手に猫飼ってるんですよ」

 田町さんはこいつが犯人ですと言わんばかりにぼくに軽蔑の眼差しを向ける。

「勝手じゃありませんよ。ぼく、ちゃんと確認しましたよね?」

 ぼくは大家さんに救いを求める。

 大家さんは一瞬え?という顔をしたが、トラブルが起きていると理解したようだった。

「ああ、そうね。ここはペット可ですよ」

 大家さんの両頬がぴくりと動いた。笑っているように見えた。

 大家さんの言葉にぼくはほっと一安心した。

「で、でもねえ」

 大家さんの声が震える。

 何か悪いことを言い出しそうな予感がした。大家さんは田町さんをちらちらと見て怯えている。田町さんは真っ黒な目をして大家さんを見下ろしていた。

「ペットがうるさくしちゃ駄目ですよ。田町さん鳴き声で困ってるんじゃないですか?」

 大家さんは貼り付いたような笑顔を田町さんに向ける。

「そうなんですよ。俺はそれが言いたくて。ペット可でもうるさくして良いはずないですから」

 田町さんはニイッと笑う。他人をコントロールして、それが上手くいったから笑ったのだ。

「そうそう。ね、気を付けて下さいよ」

 大家さんは急に貼り付いていた顔を剥がす。お前が謝ればこの話は済む、とその顔に書いてある。

「カアーーーッ!此奴ら嘘ばかり言いおって!口を引っこ抜いてやるか?」

 悪魔が口をつまむように手でポーズを取る。

「…………すみませ」

「まあ、わかれば良いんですけどね」

「そういうことでね、よろしくお願いしますよ」

 田町さんと大家さんが足早に去って行く。

「……パブロフ、ごめんな」

 ぼくはパブロフに顔を擦り寄せた。

「成央、最後まで言わなかったな」

 隣で悪魔が腕を組んでいる。

「言うもんか。パブロフは鳴かない。鳴かねえんだよ」

 ぼくは奥歯を強く噛み締めた。パブロフは大人しい猫だ。吐息のような鳴き声しか聞いたことがない。それなのに、ぼくは、でも、だから、そんな言葉が頭の中をぐるぐると回っている。またぼくの中に水滴が一滴落ちた。ひび割れは広がっていく。

 部屋に戻ったぼくはリビングのソファーに腰を下ろした。ぼんやりとした意識の中にスマホの着信音が飛び込んでくる。母親からだ。またあのことだろう。

「ククク、吾輩が悪霊を召喚したのだ。成央、今度こそちゃんと怒れよ?」

 さっきのは不甲斐ないと悪魔がけしかける。

 ぼくは唾を飲み込んだ。

「もしもし?」

「パブロフにちゃんと餌をあげてる?」

 母親の声はいつも通り甲高く、電話の内容もいつもと変わらなかった。

「時間になったら自動で出るやつだから」

 ぼくはため息をつかないように堪えた。母親には何度も伝えているのに何度も同じことを聞いてくるのだ。もしかしたら何かの病気なんじゃないかと心配をする振りをしてそれとなく聞いてみたこともあったが母親は健康診断の結果を写真に撮って送ってきた。全てA判定だった。

「そうだぞ!だからあげなかったことなどない!」

 悪魔は全て知っている。パブロフを拾ってきた三年前にはもうぼくのそばにいたからだ。

「まあ、面倒くさがってそんなのに頼って」

 ぼくの母親はいつだって子供のやること全てが気に食わない。自分の意見と少しでもズレていれば全否定して良いと思っているのだ。

「便利な時代だよね」

 ぼくはどうにか話が平和な方向に向くように誘導する。しかしまだ僅かしか時間が経っていないというのにぼくは既にこの電話に疲れていた。

「あなたそんなんじゃ餌がなくなっても気付かないんじゃない? 不安だわ。すぐに買いに行って頂戴」

 母親はぼくの焦燥感を煽る。まるでとんでもないことが起きているかのようだ。

 ぼくの心臓の音は速く、大きくなる。

「まだ大丈夫だけど、わかったよ」

 一言言うだけでぼくの瞼はピクピクと痙攣し始めた。

「はあ、あなたって一言余計なのよねえ。やっぱり私が飼おうかしら。パブロフが心配だもの。大体ねえ、なんにも出来ないのに猫を飼うなんて無理なのよ。昔からあなたのことは私が全部してあげてたでしょ。ランドセルも私が選んであげたし、服も、パンツも、靴下もそうでしょ? 学校だって決めてあげたじゃない? どうせその部屋も私がいないから散らかってるんじゃない? 食事だって自分の好きなものしか食べずぶくぶく太ってるんだろうしねえ。もう、そんな人間に飼われるパブロフがかわいそうよ」

 母親の口からはまだいくらでも罵詈雑言が吐き出されそうだ。母親はきっとこれを愛情だと言うのだろう。

「おい、お前に悪いところはひとつもないのにこの言われよう。さあ、怒れ!大声出して鼓膜破れ!」

 悪魔が髪を振り乱し、掻き毟る。

 ぼくは何か良い言葉を言おうとした。平和的な優しい言葉を。けれど頭の中にそんな言葉は一つも浮かばない。息が詰まる。水滴が一滴落ちて、表面が揺れる。大きなひびが入る。ぼくは慌てて電話を切った。

「あとほんの少しだっただろう」

 悪魔は惜しいではないかと拳を握る。

 ぼくはふらふらと歩いて窓のそばにしゃがみ込み、日光浴をしていたパブロフを震える手で撫でた。

 家にいたら気が狂いそうでぼくは靴を履いた。足は自然と行きつけのペットショップへ向かう。決して母親の言うことを聞いた訳ではないと思いたい。無意識だった。

「さあさあ、悪魔の召喚の時間だ。今度こそ、今度こそだぞ!」

 悪魔はその時がついに来そうだと興奮している。

 ぼくには今、自分をコントロールする自信がない。

「いらっしゃいませ」

 店に入ると見たことのないちょび髭の店員がぼくを見るなりすり寄って来た。

 他に客は誰もいない。嫌な時間に来てしまった。ぼくは店員にべったり張り付かれるのが好きではない。どうにかそれとなく伝えようと視線を合わせず足早に通路を進んだ。買うものを買ってさっさと店を出たい。ペットのおもちゃコーナーを抜け、猫のショーケースの前に出た時だった。ちょび髭店員はぼくの前にぐいっと体をねじ込んで来た。ぼくは足を止めるしかなかった。

「猫、どうです?」

 ちょび髭店員が自分のちょび髭を触りながら聞く。

「飼ってるんで」

 ぼくは手短に答える。

「どんな猫です?」

 ちょび髭店員は質問を止めない。

「茶トラです」

 ぼくは負けじと短く答える。

「雑種ですか。こちらご覧になって下さい。ペルシャ猫。血統書付きの猫は品があって良ろしいですよね」

 ちょび髭店員がショーケースの一つに手を向ける。ペルシャ猫がむくれた顔で手を舐めていた。

「うちの猫も品はあります」

 ぼくの全身がざわめき始める。

「そうかもしれませんけども、やっぱり勝てませんでしょ。この佇まい、品格」

 ちょび髭店員はうっとりとした視線をペルシャ猫に向ける。

「自分が飼っている猫が一番可愛いので」

 ぼくは水滴が落ちるのを止めたかった。だからもう何も言わないでくれ、と願った。

「まあ、そうかもしれませんけどね、雑種ってことは野良猫ってことでしょう? 種類もわからない、どこぞの猫かもわからない者同士の子ってことですからね。その点、血統書付きの猫はどの猫とどの猫の子なのかちゃんとわかってます。同じ種類の猫としか交配していないと保証されているんです。どうです? 素晴らしいでしょう? ちなみに私は血統書付きの猫しか飼ったことないんですよ」

 ちょび髭店員はネズミ講の創始者よろしく持論を展開した。ここはまるでステージ。話すのはネズミ達に向けた華やかな虚構。けれど話す本人は実に誇らしげだ。

「此奴、猫を売るのが仕事であるのに喧嘩を売っているな。パブロフを馬鹿にしおって腹が立つ!排泄物はないか? 投げるぞ!」

 悪魔が猫達がいるショーケースにくっついて排泄物を探し始めた。

 水滴が一滴、落ちてしまった。くらくらして、わなわなと震える。ぼくの髪の毛は逆立っている。

「猫に勝ち負けなんてないだろ」

 静かに言う。ぼくの中の何かが崩壊し、水があちらこちらから溢れ出る。

「……ん?」

 悪魔が振り返る。何かを感じ取ったようだ。

 ちょび髭店員は訝しげにぼくを見ていた。

「猫ってのはな血統書付きだろうと雑種だろうとそんなの関係なく素晴らしいんだよ。あんた猫を飼ってたんだよな? その猫を頭に思い浮かべるだけで嬉しくなったことはないか? どのキャットフードが良いか長い時間悩んだことはないか? 猫のベッドは家にあるのにまた買ったりしたことはないか? 気付けば家が猫のものだらけだったことはないか? それに血統書とか関係あるか? ないよな? なに? あんたは血統書付きだからその猫が可愛いかったのか? その猫が死んだ時、血統書付きの猫だったから悲しかったのか? あんたみたいな全ての猫を愛せないやつがこの仕事してるなんて本当に素晴らしい世の中だよ!」

 ぼくの目から涙が流れた。悲しかったからじゃない。ずっと目を見開いていたからだ。

「もう怒るなよ」

 悪魔がぼくの足元で縮こまっていた。

「血統書付きでも、そうじゃなくても、猫には感謝しないと。人間と一緒にいてくれるんだから」

 なんだか体が軽い。ぼくの背中には羽でも生えているのだろうか?

「……あの、そうでございますね。猫は本当に素晴らしいですからね……」

 どうでも良いことだがちょび髭店員の顔色は悪かった。

 ぼくはちょび髭店員を置き去りにしてキャットフードのコーナーへ行くといつものドライフードを手に取りレジへ向かった。ちょうどバックヤードから店長であるおじいさんが出て来たところだった。ぼくとちょび髭店員の会話を聞いていたのかはわからない。特に会話はなかった。いつものぼくと店長の空気がそこにあるだけだった。

「あのな、成央の怒り方、怖いぞ。怒らないといけない時に怒らないからそうなるのだ。まあ、良いんだけどな」

 ペットショップからの帰り道、悪魔がちらりとぼくを見る。

 ぼくはさっきのことを思い返す。ぼくはあんなふうにネチネチと怒るのだ。正直、嫌だった。悪魔もそう思っているだろう。けれど、じゃあどうやって怒るべきなのか答えは出なかった。

「おい、今は呼んでない!呼んでないというのに」  

 悪魔が狼狽える。

「え?」

 悪霊が来たのか、どこだ。ぼくは周囲をキョロキョロと探す。

 ふと左足のふくらはぎに生暖かさを感じ、下を見る。犬がいた。チワワだ。片足を上げている。

「ああ……」

 悪魔が頭を抱えている。

「あらまあ、そんな所に立ってるもんだからうちの子あなたのこと電柱だと勘違いしちゃったのね」

 白髪にパーマをかけた高齢女性が悪びれもせずウフフと笑っていた。

 ぼくは電柱がありそうな場所に立っている訳じゃない。信号待ちで横断歩道の手前に立っているだけだ。チワワはまだぼくのふくらはぎに生暖かさを与えている。

「止めさせて下さい」

「あなたがどいてくれれば良いのよ」

「……そうですか」

 信号が青になり、ぼくは歩き始める。

 最初の一滴がぼくの中に落ちた。

 電柱が動くな、とチワワが後方でキャンキャン鳴いている。

「どうなるかとヒヤヒヤしたぞ」

 悪魔が慌てていた。

「ぼく、また暫く怒れそうにない」

 ぼくの中にはビーカーがあり、一滴、一滴と落ちていたのは怒りの素だった。限界に達したビーカーは壊れ、怒りの素は怒りとなり、溢れ、流れ出てしまった。そして今は新しいビーカーがぼくの中にある。また、一滴ずつ溜まっていくのだ。

「なに? それはいかんぞ!しかし成央が怒ると怖いのだが、いや、それが吾輩の仕事であるし……」

 悪魔は自分がどうしたら良いのか迷っているようだった。

「仕方ないよね、仕事なら」

 ぼくはまっすぐに悪魔を見つめる。

「……うむ、仕方なかろう」

 悪魔は腹を決めたようだった。

 キャットフードが重い。家でパブロフがぼく達を待っている。



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