9話 押し寄せる患者たち
ガルト爺の店が手狭になったのは、リーゼがアルシェアに来て二ヶ月が経った頃だった。
毎朝、開店前から人が並ぶようになった。最初は五人、十人だったのが、やがて二十人、三十人と膨れ上がった。国境の街だけではなく、近隣の村からも人がやってくるようになった。馬に乗って半日かけて来る者もいた。
店の中には常に誰かがいて、リーゼは朝から晩まで対応し続けた。
問題は原料だった。
再生薬に使うダークヘンベインは、精製に手間がかかる上に、一本のポーションを作るのに大量の原料が必要だった。山での採取だけでは追いつかない。ヴォルフが護衛を買って出て週に二度山へ行ったが、それでも需要に追いつかなかった。
「師匠、栽培できないでしょうか」
ある夜、夕食の後でリーゼはガルト爺に相談した。
「毒草の栽培か。難しいな。あれは山の特定の土壌でないと育ちにくい」
「土壌の成分を分析して、人工的に再現できないか試してみたいんですが」
「……やってみる価値はあるかもしれん。ただ、それより先に場所が必要だ」
ガルト爺は腕を組んだ。
「この店では限界だ。もっと広い作業場と、患者を診る部屋が要る。近所に空き家が一軒あるんだが……持ち主に話を通してみよう」
「費用はどこから?」
「心配するな」老人はにやりとした。「嬢ちゃんが来てから、売り上げは三倍になっとる。それに、ヴォルフが仲間の商隊に話を通してくれたおかげで、薬草の仕入れルートが広がった。多少の余裕はある」
リーゼは少し申し訳ない気持ちになった。
「師匠の稼ぎを使うのは……」
「何を言っとる。店の稼ぎはわし一人のものじゃない。お前さんも作っとる」
ガルト爺は笑った。
「それに——わしは長年この街にいる。腕を失った兵士、病気の子ども、治せないまま見送ってきた患者が何人いるか。お前さんのポーションで救えるなら、金を惜しむ理由がない」
リーゼは何も言えなかった。ただ、深く頭を下げた。
翌週、隣の空き家を借り受けた。
一階を作業場と待合に、二階を患者の処置室に改装した。改装を手伝ってくれたのはヴォルフをはじめ、ポーションで治癒した元患者たちだった。彼らは「恩返しだ」と言って道具を持って現れ、三日で作業を終えた。
新しい拠点が整うと、患者の対応も少し組織化できた。
まず問診。どんな症状か、いつからか、過去に治療を受けたことがあるか。それを元に、どのポーションがどの程度有効かを判断する。すぐに対応できるものと、時間がかかるものを分け、優先順位をつける。
子どもの急性感染症と、数年来の慢性疾患では、緊急度が違う。四肢欠損の再生は劇的だが時間がかかる。リーゼは一人一人の事情を丁寧に聞き、丁寧に説明した。
しかし、どうしても体が足りなかった。
昼食を取り忘れることが増えた。夜、作業台に向かったまま眠ってしまうことも。
「嬢ちゃん」
ある夜、作業場に降りてきたガルト爺が、リーゼの前に芋のスープを置いた。
「食事を忘れるな。体を壊したら元も子もない」
「……すみません。あと少しで今日の分の万病散ができるので」
「食べながらやれ。スープが冷める」
リーゼは素直にスープを受け取った。口に運びながら、薬草を刻む手を止めない。
「今日、面白い患者が来た」ガルト爺が椅子に腰を下ろしながら言った。「足の指が一本、幼い頃の凍傷で失っている男だ」
「見ました。治療の方針は伝えましたが」
「ああ。でも男が言ったんだ。『俺より先に診てほしい人がいる』と。子どもの頃からの知り合いで、全盲の老婆がいるらしい。自分の足の指より、その人の目を先に治してやってくれと」
リーゼは手を止めた。
「……その老婆は?」
「明日来ることになっとる」
「わかりました」
リーゼは再び手を動かしながら、静かに考えた。
失明の治療は、四肢再生より難しい。眼球の構造は複雑で、視神経の再生は特に繊細な制御が必要だ。まだ試したことがない。
でも——試してみる価値はある。
この街には、そういう人たちがいる。自分より他人を先に、と言える人たちが。
前世で研究を続けていたとき、「誰かのために」という気持ちは正直薄かった。研究が好きだから研究していた。でも今は——少し違う気がする。
この人たちのために、もっと良いポーションを作りたい。そう思う。
それが、以前とは違う自分だと、リーゼはぼんやりと気づいていた。
「師匠」
「ん?」
「目の再生薬、今から設計を始めます。失明の原因によって配合が変わるので、明日来る前に少し時間をもらえますか」
「……お前さんは本当に、休まんな」
「研究が一番休まります」
ガルト爺はため息をついた。それから、静かに笑った。
「わかった。明日の朝まで時間をやる。ただし、また眠り込んだら怒るぞ」
「気をつけます」
夜の作業場に、薬草を刻む音だけが響いた。




