8話 噂が広まり始める
ヴォルフの腕が完全に戻ったのは、最初の投与から四週間後のことだった。
再生した右腕は、失われる前と変わらなかった。筋肉の付き方、皮膚の質感、指の一本一本まで。神経も完全に繋がっており、感覚があり、力が入った。
左腕も同じ工程で対応し、こちらは三週間で完了した。もともと右より欠損部分が少なかったためだ。
両腕が戻った朝、ヴォルフは店の前に立っていた。開店前の早い時間に。
リーゼが二階から降りると、男は何も言わずに両腕を上げた。
朝の光の中で、二本の腕が並んでいた。
「……どうですか」
「重い」
「リハビリが必要です。しばらくは思うように動かないかもしれませんが、少しずつ慣れます」
「そうか」
ヴォルフは両手を見た。それから、ゆっくりと指を曲げた。
「……感覚がある」
「はい」
「痒みもなくなった」
「再生が完了したので。幻肢痛も出なくなるはずです」
男はしばらく手を見ていた。それから顔を上げた。
「礼を言う」
「いいえ」
「いいや、礼を言う。お前さんが来なければ、俺はいつかガルト先生の気分を落ち着ける薬に頼り続けて、それでも足りなくなって——」
そこで男は言葉を切った。
リーゼは何も言わなかった。
「……お前さんの名前は何という」
「リーゼです」
「リーゼ。覚えた」
ヴォルフは踵を返して歩き始めた。しっかりとした、力のある歩き方で。
最初に噂が広まったのは、その翌日からだった。
ヴォルフが街の日雇い仲間に両腕を見せたのだ。
ガルト爺の店に、見慣れない顔が増え始めた。
「ヴォルフから聞いた。腕が戻るポーションがあると」
「本当に戻るのか。俺の足も……」
「娘さんが生まれつき右手の指がない。治せるか」
様々な人が来た。片足を失った元兵士、戦火で顔に大きな火傷を負った女性、幼い頃の病気で片目を失明した少年。
リーゼは一人一人と話した。症状を聞き、どのポーションがどの程度有効か判断し、原料の在庫と照らし合わせて優先順位を決めた。
全員に対応するには、原料が足りなかった。
「師匠、毒草の追加仕入れをしたいんですが」
「どこから?」
「北の山麓に自生地があります。先日、ヴォルフさんに教えてもらいました」
「一人で行くのかね?」
「ヴォルフさんが付き添ってくれると言っています」
ガルト爺は少し安堵した顔をした。
「そうか。気をつけてくれよ。山にはまだ、戦争の残滓がある。不発の魔法罠や、野盗も出る」
「わかりました」
翌朝、リーゼとヴォルフは北の山麓へ向かった。
道中、ヴォルフはほとんど無口だった。しかしリーゼが薬草を見つけるたびに足を止めると、黙って周囲の警戒をしてくれた。
「護衛、ありがとうございます」
「礼はいらない。俺にできることをしているだけだ」
男は少し間を置いてから、言った。
「……腕が戻ってから、仕事が変わった。日雇いから、商隊の護衛になった。体が動くと、できることが増える」
「よかった」
「ああ」
短い言葉だったが、その中に多くのものが込められているのがわかった。
山麓では予想以上の収穫があった。ダークヘンベインが群生しており、ゴーストフェンネルも状態の良いものが採れた。新種の魔草も数種類発見し、リーゼはノートに記録した。
「これは初めて見ます。持ち帰って調べていいですか」
「構わないが、毒があるんじゃないのか」
「おそらくあります。だから調べたいんです」
ヴォルフは少し呆れたような顔をした。が、何も言わなかった。
帰り道、山を下りながらヴォルフが言った。
「街の人間が、お前さんのことをいろいろ言っている」
「どんなことを?」
「聖女だとか、奇跡使いだとか。ヴェルディアから来た神の遣いだとか」
リーゼは少し眉をひそめた。
「大げさですね」
「大げさじゃない」ヴォルフは静かに言った。「失った手足が戻るなんて、三年前は誰も想像しなかった。魔法でもそんなことはできない。奇跡と呼ばれても不思議じゃない」
「薬の力です。魔法じゃない」
「お前さんにとっては薬でも、俺たちには奇跡だ」
リーゼは答えなかった。
奇跡、か。
前世でも今世でも、リーゼがやってきたことは地道な研究だ。試して、失敗して、記録して、また試す。奇跡とは程遠い、泥臭い繰り返し。
しかし——その結果が、誰かにとって奇跡に見えるなら。
悪くはない、とリーゼは思った。
街に戻ると、ガルト爺の店の前に人が集まっていた。七、八人が扉の前で待っている。
「……増えてますね」
「そうだな」ヴォルフが言った。「噂は広がるのが早い。特に、こういう街では」
「こういう街?」
「希望が少ない街には、希望の話が光の速さで走る」
リーゼはその言葉を聞いて、少し沈黙した。
希望。
自分がしていることが、誰かにとっての希望になっている。
それは——思いの外、重い言葉だった。
「急ぎましょう。皆さんを待たせている」
リーゼは採取した薬草の袋を抱えて、店に向かった。
待っている人々の顔が、こちらを見た。様々な顔。様々な事情。
リーゼは一人一人に頷いて、扉を開けた。
——第二章 了




