6話 両腕を失った元兵士
ヴォルフ・ランゲという男が店に来たのは、リーゼがアルシェアに来て三週間が経った頃だった。
午後の遅い時間、店の戸が重い音を立てて開いた。入ってきたのは、四十がらみの大柄な男だった。かつては肩幅が広く、筋肉質だったことが今でもわかる体格。しかし両腕が、肩の近くから失われていた。
義手もなく、袖を折り畳んで体に固定している。歩き方は安定していたが、店に入ってきたときの顔には、深い疲労と諦めが刻まれていた。
「ガルト先生はいるか」
低い声。リーゼは店番をしていた。
「師匠は今、往診に出ています。もうすぐ戻ると思いますが」
「そうか」
男は店内を見回した。棚に並ぶ薬瓶を、特に感情もなさそうに眺めていた。
「……待たせてもらっていいか」
「どうぞ」
リーゼは椅子を示した。男はゆっくりと腰を下ろした。
沈黙が続いた。
リーゼは作業台に戻り、薬草の選別を続けた。男は何も言わずに座っている。しかし、落ち着かない様子だった。時折、失われた腕のあった場所に目を落とす。
しばらくして、男が口を開いた。
「お前さんが、ガルト先生の弟子か」
「はい。三週間前からお世話になっています」
「ヴェルディア人か」
リーゼは手を止めずに答えた。
「そうです」
男は少し黙った。
「……ヴェルディアか」
その声に、複雑なものが混じっていた。敵意ではない。ただ、何か重いものが。
「戦争で、やられたんですか」
リーゼが聞いた。直接的すぎる問いかもしれないと思いながら、しかし遠回りする理由もなかった。
「ああ」
男は短く答えた。
「四年前だ。最後の大きな戦いで。ヴェルディアの魔法兵にやられた。腕が吹き飛んだ。あっという間だった」
淡々とした口調だった。何度も人に話してきた話を、また繰り返しているような。
「……それからずっとここに?」
「行くところがない。故郷の村は戦火で焼けた。家族は——いない。だから、街で日雇いの仕事をしながら暮らしてる。両腕がなくても、できることはある。足運びとか、見張りとか」
男はそこで少し間を置いた。
「ガルト先生には、痛み止めをもらっている。幻肢痛というやつだ。失ったはずの腕が痛む。最初はわけがわからなかったが、先生に教えてもらって。脳が腕があると思い込んで、痛みの信号を出し続けるらしい」
「そうです。幻肢痛は難しい症状ですね」
「先生の薬で、多少はましになる。それだけで十分だと思っていた」
思っていた、という過去形。
リーゼは作業台から顔を上げた。
「今日来たのは、別の理由があるんですか」
男はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「……いや。ただの痛み止めを貰いにきただけだ。特別な理由はない」
嘘だ、とリーゼは思った。
男の目が、一瞬だけ棚の奥のある場所に向いた。毒物を保管している棚ではない。ガルト爺が時折、気分が塞いだ患者に飲ませる「気分を落ち着ける薬」が置いてある場所だ。
リーゼは視線を戻して、作業を続けた。
しばらくして、ガルト爺が戻ってきた。
「ヴォルフか、待たせたな」
「いや」
二人は慣れた様子で言葉を交わした。ガルト爺が奥から幻肢痛用の薬を持ってくる間、リーゼはその場で作業を続けていた。
男が帰り際、扉の前で一度だけ振り返った。
「……ガルト先生。また来てもいいか」
「いつでも来い」
「そうか」
男は頷いて、出て行った。
扉が閉まると、リーゼはガルト爺に聞いた。
「あの人は、前から来ているんですか」
「ヴォルフか。半年ほど前から来てる。幻肢痛がひどいんだ」
「痛み止め以外には?」
「……ときどき、気分が塞ぐらしい」
ガルト爺は少し声のトーンを落とした。
「生きることに、疲れているんだろうと思う。直接そういうことは言わないが。腕が戻ることはないとわかっていて、できることも限られていて、仲間はみんな死んで……正直、わしにもどうしてやることもできんと思っていた」
リーゼは黙っていた。
思っていた、とガルト爺も過去形で言った。
「……師匠」
「ん?」
「私のポーションを、あの人に使いたい」
ガルト爺は少し目を細めた。
「本人が望めばな。ただ——ヴォルフは頑固だ。人の親切を簡単には受け取らない」
「わかりました。次に来たとき、話してみます」
ガルト爺は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
ヴォルフが次に店に来たのは、四日後のことだった。
今度は朝の早い時間で、幻肢痛が夜中にひどくなったらしく、顔色が悪かった。リーゼはガルト爺が往診に出た後の留守番をしていた。
「先生は?」
「往診中です。午後には戻ります」
「そうか……」
男は疲れた顔でため息をついた。幻肢痛が続いているのだろう、こめかみを片方の肩で押さえるような仕草をした。
「少し待ちますか。お茶でもどうぞ」
「……貰おう」
リーゼは薬草茶を淹れた。鎮静作用のある、ガルト爺が幻肢痛の患者によく勧めるものだ。
男は一口飲んで、少し表情が和らいだ。
リーゼは作業台に戻りながら、静かに言った。
「ヴォルフさん。一つ、聞いてもいいですか」
「……何だ」
「腕が戻るとしたら、どうしますか」
沈黙が落ちた。
男はゆっくりとリーゼを見た。茶碗を持つ肩が、微妙に強ばった。
「……何の話だ」
「私のポーションの話です。試してみてほしいと思っています」
「腕が戻る?」
男の声に、何かが混じった。笑いとも怒りとも取れる、複雑な音。
「馬鹿にしているのか。失った腕が戻るわけがない。そんな薬があるなら、とっくに誰かが——」
「見てもらえますか」
リーゼは作業台から小瓶を一本持ってきた。深い琥珀色の液体。
「これは再生薬です。試作品ではなく、完成品です。動物での実験も済んでいる。まず小さな怪我で試してみましょう。腕の前に、例えばここに傷を作って——」
「待て」
男が低い声で遮った。
リーゼは手を止めた。
「……なぜ、俺にそんなことをする」
静かな、しかし重い声だった。
「見返りを求めているわけでも、名誉が欲しいわけでもないように見える。なのに、なぜ俺みたいな男に……」
男は途中で言葉を切った。
リーゼはしばらく考えてから、正直に答えた。
「七年間、誰にも必要とされなかったポーションが、ここには必要な人がいる。それだけです」
男は黙っていた。
長い沈黙の後、ゆっくりと顔を上げた。その目に、かすかな光があった。
「……先生が保証するか」
「はい。師匠に確認していただけます」
「わかった」
男は短く言った。
「試してみる」




