5話 ガルト爺の店での日々
朝は早かった。
ガルト爺が店を開けるのは日の出と同時で、リーゼもそれに倣った。夜明け前に目を覚まし、顔を洗い、二階の小さな窓から街を眺める。まだ暗い路地に、ぽつぽつと人影が動き始める。荷車を引く男、井戸へ向かう女、物乞いのように路地の隅で丸まって眠っている子ども。
アルシェアの朝は、静かだった。
しかし静けさの種類が、ヴェルディアとは違う。ヴェルディアの朝は賑わいを待つ静けさで、アルシェアの朝は疲弊が積み重なった静けさだ。どこかくぐもっていて、重かった。
一階に降りると、ガルト爺はすでに薬棚の整理をしていた。
「早いな、嬢ちゃん」
「師匠の方が早い」
「年寄りは朝が早いんだ。老化というやつだよ」
ガルト爺はそう言ってふふ、と笑った。皺だらけの顔に浮かぶ笑みは、不思議と人を安心させた。
リーゼがここに来て、十日が経った。
最初の数日は、ガルト爺の仕事を観察することに徹した。どんな薬草を仕入れているか。どんな客が来て、何を求めているか。アルシェアの薬師がどういう水準で仕事をしているか。
わかったことがいくつかある。
まず、薬草の質が低い。ヴェルディアと比べて、アルシェアで手に入る薬草の品質は全体的に落ちる。戦争で農地が荒れ、薬草の栽培も滞った時期があったためだ。ガルト爺は努力して仕入れているが、それでも限界がある。
次に、市場に出回っているポーションが少ない。ヴェルディアでは薬師組合が管理する流通網があり、どの町でも最低限のポーションが手に入った。しかしアルシェアではその体制が戦争で崩壊しており、辺境の街では基本的な傷薬すら入手困難な地域がある。
そして最も深刻なのが——患者の多さだ。
ガルト爺の店には毎日、様々な人が訪れた。風邪の子どもを連れた母親。農作業中に怪我をした男。慢性的な腰痛を抱えた老人。それだけなら普通の薬師の店と変わらない。しかし、ここには他にもいた。
戦争で腕や足を失った人々が。
松葉杖で店に入ってくる元兵士。義手を使っているが使い勝手が悪いと訴える男。傷口がうまく塞がらず、いつまでも痛みが続くと言う女。彼女の夫も戦争で死んだという。
ガルト爺は彼らに対して、できる限りのことをした。痛み止め、消炎薬、傷口の感染を防ぐ塗り薬。しかしそれは対症療法に過ぎなかった。失った手足は戻らない。慢性化した炎症は消えない。ガルト爺の薬では、そこまではできなかった。
リーゼは毎日、それを見ていた。
十日目の夜、リーゼは研究ノートを広げながらガルト爺に話した。
「アルシェアで手に入る毒草の種類を教えてもらえますか」
「毒草?」
「はい。私のポーションの原料になります。ヴェルディアで使っていた種が手に入れば一番いいんですが、同じ魔力系統の別種でも代用できるかもしれない」
ガルト爺はしばらく考えてから、店の奥の棚を指した。
「あそこに、一般的には使わない薬草が何種類かある。危険だから置いているだけで、わし自身は使い方を知らん」
リーゼは棚に近づいた。
並んでいた植物の標本と乾燥サンプルを一つずつ確認する。ダークヘンベイン、ゴーストフェンネル、ブラッドモス——見慣れない名前のものもあるが、葉の形状や色から、ヴェルディアで使っていた種と近縁であることがわかった。
「……これは使えるかもしれない」
「本当かい?」
「試してみます。一週間ほど時間をください」
ガルト爺は目を細めた。
「嬢ちゃんのことを信じよう。ただ——毒草を使うのなら、実験は店の外でやってくれないかね。近所の人が気にするから」
「わかりました」
翌日から、リーゼは店の裏手の空き地に小さな作業台を設けた。朝の業務が終わった後、昼過ぎから夕方まで、毎日そこで実験を続けた。
ダークヘンベインは、ヴェルディアのドクムギと構造がよく似ていた。ただし毒性が若干強く、精製の工程を一段階増やす必要があった。ゴーストフェンネルはブラックフェンネルの代替にはならなかったが、別の用途に使えることがわかった。ブラッドモスは予想外の発見で、これをうまく使えば万病散の効果をさらに高められる可能性があった。
一週間後、リーゼはガルト爺に新しいポーションの試作品を見せた。
「これはヴェルディアで作っていたものと、ほぼ同等の効果があります。原料が変わったので少し色が違いますが、成分的には問題ない」
透き通った深琥珀色。ヴェルディアのものより少し赤みが強い。
「試すのかね」
「まず動物で確認します。それから判断してください」
リーゼは裏庭で拾ってきた、怪我をしたネコに再生薬を少量投与した。右前足に深い切り傷があり、三日前からガルト爺が手当てをしていたが治りが遅かった。
翌朝、傷はほぼ完全に塞がっていた。
ガルト爺は長い間、ネコの足を見ていた。それからゆっくりとリーゼを見た。
「……本当に、作れるんだな」
「はい」
「四肢の再生も?」
「はい。ただ、欠損の程度によって投与量と回数が変わります。手足丸ごとの場合は、複数回の投与が必要になる」
老薬師はしばらく沈黙していた。それから、深いため息をついた。
「……この街に、それを必要としている人間が何人いると思う?」
「数えていませんが、毎日店に来る方だけでも、十人以上は該当するかと」
「そうだ」ガルト爺は静かに言った。「三年待ったんだ、みんな。もう治らないと諦めている人もいる」
リーゼはノートを見た。書き込まれた数字と配合の記録。七年間の研究と、この一週間の実験。
「準備が整ったら、使いたいと思います」
「ああ」老人は頷いた。「わしが保証する。嬢ちゃんのことを」
それがどれだけ大きな言葉か、リーゼにはわかった。この街で長年暮らしてきた老薬師の言葉は、何よりの信用だ。
「ありがとうございます、師匠」
ガルト爺はまた照れくさそうに鼻を鳴らした。




