4話 国境の街へ、ガルト爺との出会い
出発の朝、見送りに来た者はいなかった。
伯爵邸の正門前に、幌のない粗末な荷馬車が一台止まっていた。国境まで送ると言っていたが、これが精一杯ということなのだろう。御者は無口な中年の男で、リーゼに目を向けることなく手綱を握っていた。
トランクを荷台に積み上げ、乗り込もうとしたとき、小走りに近づいてくる足音がした。
振り返ると、老いた庭師が息を切らして走ってきた。七十に近い年齢の、腰の曲がった小柄な老人。幼い頃からこの邸にいる、リーゼが顔と名前を知っている数少ない使用人の一人だった。
「お嬢様、よかった。間に合った」
老人は荒い息のまま、リーゼの手に小袋を握らせた。
「大したものじゃありませんが。道中で少しでも……」
中身は干し肉と乾パン、それから銀貨が数枚。
リーゼは老人の顔を見た。皺だらけの、日焼けした顔。目が少し赤い。
「……ありがとう、ヴィルヘルム爺さん」
名前を呼んだら、老人は困ったような顔をして俯いた。
「お嬢様の研究が、いつか誰かの役に立てばいいと思っておりました。今でも思っています」
「……うん」
リーゼはそれだけ言って、馬車に乗り込んだ。
幌がないため、空がよく見えた。春の薄い青空に、白い雲が流れている。
馬車が動き出す。石畳の上を、ゆっくりと。振り返ると、老庭師がまだそこに立っていた。小さくなっていく姿が、角を曲がって見えなくなった。
リーゼは前を向いた。
揺れる荷台の上で、トランクを膝に引き寄せた。
王都の景色が流れていく。賑やかな市場、石造りの教会、貴族の館が立ち並ぶ通り。七年間暮らした街。でも、懐かしいとは思わなかった。この街に、リーゼの居場所はなかったのかもしれない。
ゆっくりと、考えた。
これからどうするか。
国境を越えた先はアルシェア王国だ。ヴェルディアと長年戦争を続けてきた国で、三年前に停戦したとはいえ、関係は決して良好ではない。ヴェルディア人というだけで冷遇される可能性もある。
しかし、選択肢はない。
リーゼはトランクの中の小瓶を確認した。琥珀色の液体が、馬車の揺れに合わせてゆらゆらと動いていた。
これだけあれば、生きていける。
馬車は北へと走り続けた。
国境の街は、思っていた以上に荒れていた。
戦争が終わって三年が経つというのに、街には物乞いや傷病者があふれていた。両腕のない男が壁にもたれて座っていた。片目を眼帯で覆った子どもが、地面を見つめてぼんやり立っていた。松葉杖をつく老婆が、よろめきながら路地を歩いていた。
御者が国境で止まった。ここまで、という意味だ。
リーゼはトランクを抱えて降りた。御者は一言も話さないまま、馬を返した。
一人になった。
空は夕方に近づいていた。橙色の光が、荒れた街並みを照らしている。どこかで犬が吠えていた。遠くから、子どもの泣き声が聞こえた。
リーゼは街を歩いた。宿を探さなければならない。食料も必要だ。持っている銀貨の枚数を頭の中で数えながら、細い路地を進んだ。
そのとき、前からのんびりとした足音が近づいてきた。
「お嬢さん、大丈夫かね」
顔を上げると、白髪交じりの老人が荷車を引きながら立っていた。日焼けした顔に深い皺。人の好さそうな目が、リーゼを見ていた。
「一人で来たのかい? 珍しいな。それに、そのトランク……」
老人は鼻を動かした。
「薬師かね。薬草の匂いがする」
リーゼのトランクの隙間から、かすかに薬草の香りが漏れていた。
「……まあ、そんなところです」
「そうか。わしはガルトという。この辺りで薬を売っとる。よければ今夜の宿を貸すが、どうかね」
リーゼはしばらく老人を見た。怪しい様子はない。荷車の中には、乾燥した薬草や小瓶が積まれていた。それに、腹が減っていた。
「……お言葉に甘えます」
ガルト爺の家は、街外れの小さな石造りの建物だった。一階が店舗、二階が住居になっている。店の中は雑然としていたが、薬草の選別と管理はきちんとしていた。この老人が真剣に仕事をしていることが、並んだ薬棚を見ればわかった。
「大したものは出せんが」
夕食は芋のスープと黒パンだった。素朴だったが、温かかった。
食べながら、ガルト爺は遠慮なく聞いてきた。
「どんな薬を作れるんだい」
「毒草を使ったポーションです」
老人の眉が上がった。
「毒草? それは……大丈夫なのかね」
「はい」
リーゼは迷わなかった。トランクから小瓶を一本取り出し、テーブルに置いた。深い琥珀色の液体が、ランプの光を受けてゆらゆらと揺れた。
「これは再生薬です。四肢の欠損を完全に再生できます」
沈黙が落ちた。
ガルト爺は小瓶をじっと見つめていた。老薬師の目が、液体の色と質感を観察している。長年この仕事をしてきた人間の目だ。
「……本当なら」
老人は静かに言った。
「この国には、それを必要としている人間が山ほどいる。戦争で手足を失った元兵士。もう歩けない子ども。三年経ったが、傷はまだ癒えていない」
「知っています」
リーゼは窓の外の夜の街を見た。暗闇の向こうで、今夜も誰かが痛みに耐えているはずだ。
「だから、ここで働かせてください」
老人はしばらく黙っていた。スープを一口飲んで、また黙った。
「ヴェルディアから来たんだろう」
「はい」
「追い出されたのかい」
リーゼは少し間を置いた。
「……まあ、そんなところです」
「そうか」
ガルト爺は湯飲みを両手で包んで、もう一口飲んだ。それから皺だらけの顔に、静かな笑みを浮かべた。
「ならちょうどいい。わしも年だ。長くはないかもしれんし、店を継いでくれる若いのを探しとったんだ」
リーゼは少し目を見張った。
この老人は、詳しい事情も聞かずに自分を信頼しようとしている。なぜか。
——薬師だから、だろうか。
この荒れた街で、薬を作れる人間は単純に必要とされている。それだけのことかもしれない。しかしそれでも、リーゼの胸に何か小さなものが灯った。
必要とされている。
たったそれだけのことが、今の自分にはずいぶん大きかった。
「……よろしくお願いします、師匠」
ガルト爺は照れくさそうに鼻を鳴らした。
「師匠とは大げさだ。……まあ、よろしく頼むよ、嬢ちゃん」
外では風が吹いていた。荒れ果てた街の、冷たい夜風。
でもリーゼは、この場所が嫌いじゃないと思った。
必要とされる場所が、ここにある。それだけで十分だった。
次章予告:ガルト爺の店で働き始めたリーゼ。ある日、重傷を負った元兵士が運び込まれてくる。両腕を失い、もう生きていたくないと呟く男に、リーゼは静かに小瓶を差し出した——




