腕の重さ -ヴォルフ視点:腕が戻った朝 -
夜明け前に目が覚めた。
最初は夢だと思った。
右腕が、熱かった。痛みではない。何かが内側から押し広がるような、じわりとした熱だ。断端部——肘から先が失われていたはずの場所が、重かった。重みがあった。
ヴォルフは目を開けた。薄暗い部屋の中で、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
腕があった。肘から先が、ある。指が五本、ある。
しばらく、何も考えられなかった。
四年間。この腕がなくなってから四年間、ヴォルフは毎朝目を覚ますたびに、一瞬だけ夢を見た。腕がある夢だ。剣を握っている夢、仕事をしている夢、普通に飯を食っている夢。そして目が覚めると、現実に戻される。断端部に包帯が巻かれている。重みがない。
だから今も、夢だと思った。
しかし——指を動かした。動いた。全部、動いた。
ヴォルフはしばらく、自分の右手を眺め続けた。指を一本ずつ動かした。グー、パー、グー。力を入れた。拳を作った。シーツを掴んだ。確かな感触があった。布の繊維の感触が、指先に伝わってきた。四年間、感じていなかった感触だ。
ヴォルフは起き上がった。部屋の隅に立てかけてあった木材の端切れを手に取った。右手で、握った。しっかりと。握力が、ある。腕を振った。まだ完全ではない。動きが少しぎこちない。筋肉が四年間眠っていたから、すぐには戻らない。それはリーゼに言われていた。「筋肉のリハビリが必要です。最初は無理せず、少しずつ動かしてください」と。わかっていた。それでも——動く。
ヴォルフは外に出た。
朝の空気はまだ冷たかった。街はまだ眠っている。夜明け前の静かな路地を、ヴォルフは歩いた。右腕を前に出した。空気を感じた。冷たい朝の空気が、指先に触れた。
その感触に、目の奥が熱くなった。
ヴォルフは泣かない人間だった。戦場で仲間が死んでも、腕を失ったときも、泣かなかった。泣いても何も変わらないと知っていたから。しかし今朝は——何かが込み上げた。声にはならなかった。ただ目の奥に熱があった。
施療院の方向を見た。まだ開いていない時間だ。リーゼはおそらくもう起きて作業をしているだろうが、患者を受け入れる時間ではない。ヴォルフは少し迷ってから、施療院の裏手に回った。作業場の窓に灯りがついていた。やはり起きている。
窓を軽く叩いた。しばらくして、リーゼが窓を開けた。寝起きではなく、すでに薬草を持っていた。
「ヴォルフさん? こんな時間に——」
ヴォルフは右手を上げた。グー、パー、グーと、指を動かして見せた。
リーゼはしばらく動かなかった。それからノートを机に置いて、窓枠に両手をついて、じっと右腕を見た。データを確認するような目だ。臨床的な目だ。それがリーゼという人間だと、ヴォルフは知っていた。
「……全部動いていますか」
「ああ」
「握力は」
「木の端切れを握った。ちゃんと握れた」
「感覚は? 指先の感触は?」
「ある。冷たさも、触れた感触も、ちゃんとわかる」
リーゼはしばらく黙っていた。それからノートを手に取って、何かを書き始めた。「治療開始から二十八日目の朝に完全回復。予定より四日早い。体の基礎体力が高かったことと、リハビリを真面目に続けたことが要因と思われる——」と呟くのが聞こえた。
「リーゼ」
「はい?」
「ありがとう」
言葉は短かった。ヴォルフはそれ以上のことが言えない人間だった。言葉より先に体が動くし、言葉より行動で示す方が性に合っていた。しかしこれだけは言わなければいけないと思った。四年間、ずっと思っていたこと。
リーゼはノートから顔を上げた。
「……どういたしまして」
それだけ言った。余計なことは何も言わなかった。感動的な言葉も、激励の言葉も、涙もなかった。ただ、ヴォルフの目をまっすぐ見て、そう言った。それが、好きだった。この薬師は、治したことを特別扱いしない。当たり前のこととして、次の仕事に向かう。それが、治してもらった側には一番ありがたかった。
「また採取に行く。ゴーストフェンネルが不足しているなら、見かけたら採ってくる。左の山も試してみる」
「助かります。新しい種も見かけたら記録してもらえると」
「わかった」
ヴォルフは踵を返した。夜明け前の路地を歩きながら、また右手を前に出した。冷たい空気が、指先に触れた。まだ少しぎこちない。でも、ある。それだけで、十分だった。




