エピローグ
それから一年が経った。
ガルト薬師院は、アルシェア王国に六つの分院を持つ施療機関になっていた。国家医療制度の中核として、王家から正式に認定を受け、訓練を受けた薬師助手が各地に配置されていた。南部の農業地帯では施療師の巡回制度が始まり、これまで遠すぎて来られなかった村々にもポーションが届くようになっていた。
ダークヘンベインの栽培は安定し、今年の夏からは山での採取なしに必要量を確保できるようになった。新種の魔草の研究も進み、これまで治せなかった症例にも対応できるポーションが生まれていた。研究ノートは十冊目に差し掛かっていた。
リーゼは相変わらず、国境の街を動かなかった。
朝は早く、夜は遅い。昼食を忘れることも多い。前世から変わらない、研究者の時間の使い方だ。しかし一つだけ変わったことがある——作業場に、いつも誰かがいた。
ガルト爺は今年七十二になった。足腰が以前より弱くなったが、往診をやめるつもりはないと言い張っていた。リーゼは密かに、ガルト爺の関節痛に効く特製薬の研究を続けていた。本人には内緒で。少しずつ効いているはずだが、ガルト爺は「わしの体は丈夫だから薬など要らない」と言い張るので、食事に混ぜることにした。
ヴォルフは商隊の護衛隊長になっていた。肩幅が更に広くなり、街での信頼も厚くなった。いつも無口だったが、時々施療院に顔を出し、採取した薬草を置いていった。一言も言わずに。ただ先月、珍しく「元気か」と聞いてきた。リーゼが「元気です」と答えると、「そうか」と言って帰った。
ある朝、フェリクスが施療院に来た。
手に、朝食の入った籠を持って。もう日課になっていた。
「食事の時間だ」
「あと少しで今日の分の再生薬が——」
「食べながらやれ」
「……師匠と同じことを言いますね」
「同じことを言わせるな」
フェリクスは作業台の端に籠を置いた。パンと、温かいスープと、季節の果物。今の時期は苺が入っていた。
「今日のスープは何ですか」
「根菜の煮込みだ。体が温まる。お前は体を冷やしやすいからな」
「……よく覚えていますね、そういうこと」
「一年間、毎朝見ていれば覚える」
リーゼはスープを一口飲んだ。温かかった。根菜の甘みと、かすかな薬草の香りがした。
「美味しいです」
「そうか」
フェリクスは少し照れたように目を逸らした。その仕草が好きだ、とリーゼは思った。感情の動かし方がわからないと言ったが——これが好きだ、という感覚は一年間でずいぶん増えた。
窓の外で、春の光が降り注いでいた。
施療院の前に、今日も人が並んでいた。様々な人が。様々な事情を持って。朝の早い時間から、もう十人以上いた。
「今日の患者さんは何人いましたか」
フェリクスが聞いた。
「朝の時点で十八人。ただ、急患が来るかもしれないので確定ではありません」
「全員診られるか」
「診ます。師匠と手分けすれば、夕方までには。難しい症例が二件あるので、そこに少し時間がかかるかもしれませんが」
「無理するな」
「無理ではありません。私の適量です」
フェリクスは静かに笑った。
「……一年経っても、変わらないな」
「変わる理由がないので」
「そうだな」
男は窓の外を見た。施療院の前に並ぶ人々を。それからリーゼを見た。
「この景色を見るたびに、思う」
「何を?」
「お前がヴェルディアを追放されてよかった、とは言えない。あれは理不尽だった。理不尽なことは、理不尽だと言うべきだ。しかし——お前がここに来てよかった、とは言える。お前がここにいてよかった、とも言える」
リーゼはスープを置いた。
「……私も、そう思います。ここに来てよかった」
「それだけか」
「あなたに会えてよかった、とも思います。師匠に拾ってもらえてよかった。ヴォルフさんが護衛してくれてよかった。この街の人たちが私のポーションを必要としてくれてよかった」
「欲張りだな」
「全部、本当のことです」
フェリクスは目を細めた。それから、静かに笑った。
「……そういうところが好きだ」
「どういうところですか」
「正直なところ。全部、本当のことだと言えるところ」
リーゼは少し考えた。
「私も、あなたのそういうところが好きです」
「どこだ」
「変わっていると言って、褒め言葉だと返すところ。一年経っても、毎朝来るところ。公務が忙しいときも、来るところ」
「来ない日もあった」
「それでも翌日必ず来ていました。食事と手紙を持って」
フェリクスは少し黙った。それから、また笑った。
作業場に朝の光が差し込んでいた。薬草の香りが漂い、外からは人の声がした。
リーゼは残りのスープを飲み干し、手を洗い、作業台に戻った。
再生薬の続きを作る。今日の患者を診る。夕方には新しい配合の試作品を確認する。来週には北部分院への訓練指導の予定がある。
やることは尽きない。それが、好きだ。
フェリクスが傍で椅子を引いて座った。公務の書類を広げて、ここで仕事をするつもりらしい。それもいつの間にかの習慣になっていた。二人で、それぞれの仕事をする。同じ空間で。
前世で白衣を着て、蛍光灯の下で、一人で実験を繰り返していた人間が——今世では毒草の匂いが染み付いた作業場で、傍に誰かがいて、窓の外には自分を待っている人がいる。
変人で結構。
毒草使いで結構。
ここに根を張って、誰かの役に立てるなら——それ以上のハッピーエンドを、リーゼは知らなかった。
——完——
最後まで読んでいただきありがとうございました。
リーゼは変人です。人付き合いが得意でなく、食事を忘れ、毒草を見ると薬になると考えてしまう。前世でも今世でも、どこか浮いた存在でした。でも、そういう人間が正しく評価される場所に辿り着く話を書きたいと思いました。
才能は、環境が整って初めて花開く。リーゼのポーションはヴェルディアでも本物でしたが、誰も必要としなかった。アルシェアには、必要としてくれる人がいた。同じ才能が、場所一つでこれほど変わる。それは薬の話だけではなく、人の話でもあると思っています。
毒草は嫌われます。危険で、近寄りがたくて、普通の薬草畑には生えていない。でも正しく扱えば、誰より強い薬になる。リーゼ自身が、少しそういう存在だったかもしれません。毒草しか使えない、と言われたけれど——毒草だからこそ、誰も治せなかったものを治せた。
フェリクスとの関係は、ゆっくり書きました。リーゼが感情に不器用な分、フェリクスが待ち続けてくれる。急かさず、焦らず、ただそこにいる。そういう関係が好きで、そう書きました。
ガルト爺とヴォルフも、大好きなキャラクターです。この二人がいなければ、リーゼはここまで来られなかった。ガルト爺の「わしも、そう思っとる」という一言が、個人的には一番好きな台詞です。
読んでくださった方の、少し温かい気持ちになれたなら嬉しいです。




