21話 リーゼの選択
春になった。
施療院の裏手の農地で、ダークヘンベインが芽吹いた。
小さな双葉が土から顔を出しているのを見たとき、リーゼは作業台を離れてしばらくしゃがみ込んでいた。半年かけた栽培実験の成果だ。芽が出たからといって、まだ収穫できるわけではない。育つまでさらに数ヶ月かかる。しかしそれでも——確かに根付いていた。土の中に、細い根が張っていた。
「出ましたよ、師匠」
「見た。小さいな」
「最初はそんなものです。大きくなります」
「お前みたいだな」
「私は最初から大きかったですが」
「そういう意味じゃない」
ガルト爺は苦笑しながら農地を見渡した。双葉が整然と並んでいる。リーゼが夜中まで計算して設計した間隔で。土の色が、周囲の痩せた土地とは微妙に違う。丁寧に配合した培養土だ。
「来年の春には、山の採取を減らせるか」
「今年の秋には小規模な収穫ができます。来年には安定供給できるはずです。並行して栽培農地を広げれば、再来年には山に頼らなくても済むかもしれない」
「そうか。……嬢ちゃんが来る前、この農地は放置されていた。誰も使い道を考えなかった。荒れた土地がただそこにあるだけだった」
「今は使い道があります」
「そうだな」
老人はしばらく農地を見ていた。春の光が、土の上に降り注いでいた。冬の間じっと眠っていた地面が、ようやく息を吹き返したような色をしていた。
「フェリクス殿下と、うまくいきそうかね」
唐突な質問だった。リーゼは少し間を置いた。
「……師匠に話しましたか、フェリクスが」
「いや。殿下が顔を出す頻度が増えたし、お前の顔が少し変わったから。わしは長年この仕事をしとる。人の顔を見るのは得意だ」
「顔が変わった?」
「穏やかになった。以前は研究のことしか考えていない顔をしていたが、最近は少し違う。どこか遠くを見るような顔をするときがある」
リーゼは農地を見たまま、少し間を置いてから答えた。
「……うまくいくかどうかは、まだわかりません。ただ、試してみようと思っています」
「それでいい」
「師匠は驚かないんですか。王子ですよ」
「驚かん。殿下は良い人間だ。お前のことをちゃんと見ている。最初に来たときから、わしにはわかっていた」
「……先に言ってくれればよかったのに」
「自分で気づくまで言うもんじゃない。そういうことは」
ガルト爺は笑った。リーゼも少し笑った。農地の双葉が、春風に揺れた。
その日の夕方、フェリクスが施療院に来た。今日は腕の確認でも、公務でもない。ただ来た。手に、少し大きめの籠を持って。
「散歩に付き合わないか」
「今日の処置は全部終わりましたか」
「終わった。ガルト師に確認した」
リーゼは上着を羽織った。
二人で街を歩いた。国境の街は、半年前より確かに変わっていた。荒れた建物の修繕が進み、市場に活気が戻り、子どもたちが路地で遊んでいた。物乞いがいないわけではないが、半年前ほどの絶望的な空気はない。人々の顔が、少し違う。
「街が変わりましたね」
「お前が来てから変わった」
「施療院だけでそこまでは」
「施療院だけじゃない」フェリクスは静かに言った。「腕が戻った兵士が再び働けるようになった。病気が治った子どもの親が、安心して仕事ができるようになった。難病だと思っていたものが治ったことで、諦めていた夢を再び持ち始めた人がいる。そういうことが積み重なって、街の空気が変わる」
リーゼは街を見渡した。石造りの家々、石畳の路地、遠くに見える荒れた土地。まだ再建の途中だ。しかし——確かに、半年前とは違う。
「フェリクスが言っていた通りでした。薬一つが、街を変える」
「俺が言ったのか?」
「馬車の中で。一人の患者が働けるようになれば、その分だけ国が動くと」
「覚えていたのか」
「大事なことは覚えます。役割分担の話も、ずっと覚えています」
フェリクスは少し黙った。それから、静かに笑った。
二人は街外れの小高い丘に来ていた。国境の街が見渡せる場所だ。夕暮れが近づき、空がオレンジと紫が混ざった色になっていた。遠くに山の稜線が見え、その向こうにヴェルディアがある。しかしリーゼは山の向こうを見なかった。この街を見ていた。
「リーゼ」
「なんですか」
「一つ、話がある」
「どうぞ」
「この国の施療体制を、本格的に整えたい。リーゼを中心に据えた、国家規模の医療制度を。分院をさらに増やして、訓練された薬師助手を全国に配置して、原料の安定供給の仕組みを作る」
「それは、以前から検討されていましたね。進んでいますか」
「ああ。ただ——それだけじゃない」
フェリクスはリーゼを見た。夕暮れの光の中で、男の目が真剣だった。
「俺と、隣にいてくれないか。正式に」
夕暮れの風が吹いた。
リーゼは少し目を細めた。
「正式に、というのは」
「お前が思っている通りのことだ」
「……王族との婚姻は、色々と面倒なことがあるのでは。手続きも、政治的な意味合いも」
「ある。だが、解決できる。父上も——実は、お前のことを謁見のときから気に入っている。称号の変更を申し出たあの日から。『あれは使える』と言っていた」
「使える、は褒め言葉ですか」
「父上の語彙では最大級の褒め言葉だ」
リーゼは少し考えた。
「条件があります」
「聞こう」
「研究を続ける。施療院の仕事を続ける。師匠の傍にいる。それは変えません」
「わかっている」
「政治的なことには関わりません。患者の選別も私がします。王族の婚姻だからといって、特定の患者を優先することはしません」
「それも変えなくていい。むしろそのままでいてほしい」
「……それから」
リーゼは少し間を置いた。
「食事を忘れたとき、用意してくれますか」
フェリクスは少し目を見張った。それから——今まで見た中で一番穏やかな顔で笑った。
「ああ。毎日でも」
「毎日は来られないでしょう。公務があるのでは」
「調整する。それが俺の仕事だ。お前が研究をしている間、俺は公務と調整をする。役割分担だ」
リーゼはフェリクスを見た。夕暮れの光の中で、男の顔が穏やかだった。腕が動かなかった二年間の疲弊も、諦めの色も、今はない。この人は今、本当に笑っている。
「……わかりました」
「また『わかりました』か」
「どう答えればいいんですか」
「もう少し、気持ちを込めた言葉を」
リーゼは少し考えた。
「……嬉しいです。それと、ありがとう」
「何に対しての礼だ」
「変わっていると言って、褒め言葉だと言ってくれたことに。本物だと言ってくれたことに。それから——諦めていたあなたが、また何かを始めた。それを近くで見られたことに」
フェリクスはしばらく黙っていた。夕暮れの風が吹いた。
それから、静かに手を伸ばした。リーゼの手の上に、そっと重ねた。
「……礼を言うのは俺の方だ」
夕暮れの丘に、風が吹いた。街の灯りが増えていた。遠くで子どもの声がした。誰かが笑っている声がした。
リーゼは手を重ねたまま、夕暮れの街を見ていた。
ここが、自分の場所だ。
前世でも今世でも、どこにも属せなかった自分が、ここに根を張っている。毒草のように。嫌われ、怖がられ、しかし誰よりも深く地面を掴む毒草のように。だから、倒れない。
それで十分だ、と思った。いや——十分以上だ。




