2話 クローリアの証言
問題が起きたのは、それから三日後のことだった。
王都の中心部に住む貴族の子息、マーカス・テイラー男爵子息が突然倒れ、意識不明になったという報告が届いた。原因不明の毒物中毒。そして翌日には、王都の社交界にひとつの噂が広まっていた。
——ヴァルトハイム家の長女が、毒ポーションを実験していた。
リーゼが呼び出されたのは、その翌朝だった。
応接室の扉を開けると、重苦しい空気が漂っていた。
父のヴァルトハイム伯爵が、上座の椅子に腕を組んで座っている。六十に差し掛かった年齢の割に白髪が少なく、整った顔立ちはかつて「美男の伯爵」と呼ばれたことの名残を留めていた。しかし今日のその顔には、疲労と苦悩が色濃く刻まれていた。
その隣に、リーゼの婚約者であるアルベルト・クロイツ侯爵子息が立っていた。二十六歳、端整な顔に常に余裕を湛えた男だ。リーゼと婚約したのは三年前のことで、家同士の政略的な縁談だった。互いに情愛はなかったが、それはこの国では珍しくもない話だ。
そして——部屋の隅に、クローリアがいた。
いつもの華やかさが影を潜め、今日の妹は青白い顔で俯いていた。手を胸の前で重ね、薄い唇をかすかに震わせている。その様子が、はたから見れば「つらい真実を話さなければならない哀れな少女」そのものだと、リーゼは少し遅れて気づいた。
「リーゼ」
父の声は低かった。
「お前が作ったポーションがマーカス子息に使われ、彼が倒れた。心当たりはあるか」
リーゼは眉をひそめた。
「ありません。私のポーションを他人に渡したことは一度もない」
「しかし……クローリアが見たと言っている」
リーゼはゆっくりと妹に視線を向けた。クローリアは潤んだ瞳で、リーゼを見上げた。
「ごめんなさい、姉様。でも……本当のことを言わなければいけないと思って。先日、姉様が作ったポーションをマーカス様にお渡しするところを……見てしまったんです」
静かな室内に、クローリアの声が落ちた。震えを帯びた、今にも泣き出しそうな声。
リーゼは、しばらく黙っていた。
嘘だ、と思った。
そんなことをした記憶はない。そもそも、マーカス男爵子息とは面識すらほとんどない。社交の場で二度ほど挨拶を交わしただけだ。なぜ自分がそんな相手にポーションを渡す必要がある?
しかし——部屋の中の空気は、すでに決まっていた。
「……私はそんなことをしていない」
「リーゼ」
アルベルトが口を開いた。整った顔に、冷たい光が宿っていた。
「クローリアが嘘をつく理由はない。お前の研究室には毒草が山ほどある。疑われて当然だろう」
「当然?」
「お前は昔からそうだ。人との関わりより植物の方が大事で、常識というものがない。研究室に引き籠もって毒草を触り回って、こうなることは予想できた」
淡々とした口調が、むしろ痛かった。怒りや憎しみではなく、ただの事実として告げられているような冷たさ。
リーゼは静かに息を吸った。
「アルベルト様。私のポーションは、毒草を使ってはいるが人を傷つけるものではない。それは成分を分析すれば証明できる。薬師組合に依頼してもいい。手順を踏めば——」
「分析? 誰が信じる? 毒草使いの変人が作ったポーションを」
変人。
その言葉は、今に始まったことではなかった。ただ今日は、婚約者の口から出た。
「リーゼ。私はお前と婚約を続けることが難しいと判断した」
アルベルトの声は、相変わらず静かだった。怒鳴るでもなく、責めるでもなく、まるで天気の話でもするように。
「こうした疑惑が生じた以上、侯爵家としての体面を守る必要がある。それに……正直に言えば、お前とは価値観が合わない。ずいぶん前から感じていたことだ」
「……つまり、婚約解消ということですか」
「そうだ」
即答だった。
クローリアがそっと視線を上げた。潤んだ目が、一瞬だけアルベルトを見た。そこに何が宿っていたか——リーゼには、よく見えなかった。
「お父様」とリーゼは父の方を向いた。「父上は、私が本当にそんなことをしたと思っていますか」
父は答えなかった。
長い沈黙の後、重い息とともに目を閉じた。
「……お前の研究が危険だということは、前々から言っていた」
それは、答えではなかった。しかし、答えだった。
リーゼは静かに目を伏せた。
怒りはあった。悔しさもあった。でも不思議と、涙は出なかった。
——ああ、そうか。
誰も、信じてくれなかった。七年間、ずっとそうだったのだ。研究室の外で何が起きていても、リーゼが何をしていても、誰もまともに見ていなかった。見ようとしなかった。
変人と呼ばれ、気味悪がられ、そして今、冤罪をかけられた。
それでも——ポーションは本物だ。
誰が信じなくても、リーゼの手の中に七年間の結晶がある。それだけは、誰にも奪えない。
リーゼはゆっくりと立ち上がり、深く礼をした。
「……わかりました。処分はお任せします」
父が何かを言おうとした気配がしたが、リーゼはすでに扉に向かっていた。




