19話 無実の証明
春の気配が漂い始めた頃、ヴェルディアから一通の書状が届いた。
差出人はアルベルト・クロイツだった。
リーゼは封を開けた。丁寧な字で、簡潔に書かれていた。読み始めて、途中で手が止まった。一度読み終えて、もう一度最初から読み返した。三度読んでも、内容は変わらなかった。
マーカス・テイラー男爵子息が、事件の真相を告白した——という内容だった。
書状によれば、マーカス子息は事件当時、自ら別の薬師から怪しいポーションを入手して使用し、体調を崩していた。リーゼのポーションとはまったく無関係だった。しかし事件が大きくなるにつれ、自分の行いを隠すためにリーゼへの嫌疑を黙認し続けた。社交界での立場を守るために、一人の人間の人生を犠牲にした。追放された後もリーゼが困窮しているという報告がなければ問題が表面化しないと踏んで、そのまま黙り続けていた。
しかしアルシェアでのリーゼの活躍が王都にまで聞こえてくるようになると、事情が変わった。マーカス子息が黙認した「被害者」が施療師として国に認められ、王子の腕を治したという話は、さすがに無視できない規模になっていた。
アルベルトが地道に調査を進め、証拠を集め、マーカス子息を追い詰めた結果、告白を引き出したという。調査には三ヶ月かかったと、書状の端に小さく記されていた。一人でやったと。
手紙の末尾に、一行付け加えてあった。
「クローリアも、証言を撤回することに同意した。これをもって、リーゼ・ヴァルトハイムの冤罪が正式に認められる」
リーゼはしばらく、手紙を膝の上に置いたまま動かなかった。
作業場に、薬草を刻む音だけがあった。しかしその音も、しばらくして止まった。リーゼの手が動いていないことに気づいたガルト爺が、向かいから顔を上げた。
「嬢ちゃん? 顔色が悪い。どこか具合でも」
「いいえ。手紙が来ました」
リーゼは手紙を渡した。老人はゆっくりと読んだ。眉が少し動いた。口元が一度だけ動いたが、声は出さなかった。最後まで読んでから、顔を上げた。
「ヴェルディアに戻るかね」
「戻りません」
即答だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。冤罪が晴れたことで何かが変わるかと思っていたが、何も変わらなかった。ここにいたい。ここで仕事をしたい。それだけだった。
「……そうか」
「ここが私の場所です。先月そう言いました」
「言ったな」
「冤罪が晴れたからといって、戻る理由にはならない。ここには待っている患者がいる。栽培実験の続きがある。目の再生薬の第四改良版もある。それに——師匠がいます。師匠を置いてどこにも行きません」
ガルト爺は静かに笑った。今日はじめての笑みだった。
「それを最後に言うか」
「一番大事なことは最後に言うものです」
「……そうか。ありがとうな、嬢ちゃん」
リーゼは手紙を折り畳んだ。
怒りは、思ったより少なかった。もっと激しい感情が来るかと思っていたが、静かなものだった。七ヶ月かけて、少しずつ気持ちの整理がついていたのかもしれない。あるいは——今の生活が充実していて、過去を振り返る余裕が薄れていたのかもしれない。
ただ一つだけ、確かに感じたことがあった。
正しく評価してほしかった、という思いだ。七年間の研究を、毒草使いの変人と呼ばれたまま終わりたくなかった。自分のポーションが本物だということを、作った自分以外の誰かに認めてほしかった。その点だけは、冤罪が晴れてよかったと思った。それだけだ。ヴェルディアに戻りたいわけでも、復讐したいわけでもない。ただ、七年間の研究に、正当な評価を与えてほしかっただけだ。
リーゼは手紙を机の引き出しにしまった。
捨てるつもりはなかった。七年間の研究の終着点として、この手紙は残しておく価値がある。証拠として、記録として。それに——アルベルトが三ヶ月かけて調査したという事実は、あの男なりの誠実さだと受け取った。謝罪を行動で示した。言葉だけで終わらせなかった。それだけは、認める。
リーゼは手紙を机の引き出しにしまった。
捨てるつもりはなかった。七年間の研究の終着点として、この手紙は残しておく価値がある。証拠として、記録として。それに——アルベルトが三ヶ月かけて調査したという事実は、あの男なりの誠実さだと受け取った。謝罪を行動で示した。言葉だけで終わらせなかった。それだけは、認める。
ガルト爺が夕食の準備をしながら、作業場の戸口から言った。
「嬢ちゃん、今夜は少しゆっくりしたらどうだ。特別な日なんだから」
「研究は毎日するものです。特別な日だからといって休む理由がない」
「……まあ、そうだな。お前はそういう人間だ」
老人は笑いながら奥へ引っ込んだ。リーゼはノートを開いた。しかし、しばらく何も書かなかった。
窓の外を見た。夕暮れが始まっていた。街の灯りがぽつぽつと灯り始めている。半年前、初めてこの街に来た夜もこういう色をしていた。あのときは何も持っていなかった。トランク一つと、使い道のないポーションと、行き先のない足と。今は違う。ここに根がある。
夕方、一通り今日の処置が終わってから、リーゼは一人で農地に行った。
春の初めの土は、まだ冷たかった。しかし先週より確かに柔らかくなっていた。冬の間じっと眠っていた地面が、ようやく動き始めている。リーゼはしゃがんで土を少し掘り、指先で質感を確かめた。水分量は適切だ。あと二週間もすれば、ダークヘンベインの双葉が出てくるはずだった。
土の匂いを嗅いだ。冬とは違う匂いがした。何かが始まる匂いだ。
その夜遅く、フェリクスが施療院を訪れた。
定期的な腕の状態確認の日ではなかった。珍しい時間に、珍しいことだ。松明の灯りで顔が照らされており、少し急いで来た様子だった。
「聞いた。ヴェルディアから書状が来たそうだな」
「噂が早い」
「ガルト師から連絡があった」
リーゼは少し呆れた。師匠め、と思った。しかし悪い気はしなかった。ガルト爺なりの気遣いだとわかったから。老薬師は口数が少ないが、大事なことはちゃんとわかっている。
「冤罪が晴れた。それだけです」
「それだけ、とは言えないだろう。七ヶ月越しだ」
フェリクスは椅子に座り、リーゼを見た。いつもの落ち着いた目だ。しかし今日は、少し違う何かがある。心配、とも取れる。気にかけている、という目だ。この男はいつも、言葉より先に目が語る。
「どんな気持ちだ」
「……複雑です。怒りと、安堵と、どうでもいいという気持ちが混在している。おかしいですか」
「おかしくない。全部、正直な気持ちだろう」
「正直と言えば、フェリクスに聞きたいことがあります」
「なんだ」
「ヴェルディアに戻らないか、と聞きましたね、以前。あれはどういう意味でしたか。本当は」
フェリクスは少し目を見張った。
「……それを今聞くか」
「冤罪が晴れた日だから、聞くべきかと思いました。もし私がヴェルディアに戻ることを望んでいるかどうかを確認していたなら、その答えは変わっていません。戻りません」
「戻ってほしくて聞いたわけではなかった」フェリクスは静かに言った。「お前が戻ることを選んだとしたら、引き止めることはできないと思っていた。だから確認したかった。お前の意志を」
「そうですか」
「ただ——戻らないと言ってくれた方が、俺には都合がいい」
「なぜですか」
男はしばらく黙った。それから、少し目を逸らした。
「……また今度、話す」
「遠回りが苦手だと言いましたが」
「わかっている。ただ、今夜はまずお前が落ち着いてからにしたい」
リーゼはフェリクスを見た。この男なりの配慮だということはわかった。今日は冤罪が晴れた日だ。感情が落ち着かないかもしれない。そこに別の話を重ねることを、避けようとしている。
「……わかりました。また今度」
「ああ」
フェリクスは少しの間、リーゼの隣に座っていた。何も言わなかった。ただそこにいた。それで十分だった。
外では春の夜風が吹いていた。まだ少し冷たいが、冬より柔らかい。春が来ている。




