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毒草しか使えない変人と婚約破棄され国外追放されましたが、隣国では聖女と崇められています ~前世は薬剤師、万能ポーションで無双します~  作者: 月代
第五章 ハッピーエンドの在処

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18話 アルシェアでの根付いた生活

冬が来た。


 アルシェアの冬は、ヴェルディアより厳しかった。北からの風が強く、国境の街は雪に閉じ込められる日もあった。街道が凍りつき、馬車が通れなくなる日は、遠方からの患者が来られなくなる。しかしそれでも、近隣の人々は施療院を訪れた。雪をかき分けて、防寒具に身を包んで。中には片道二時間かけて山を下りてきた老婆もいた。松葉杖をつきながら、息を切らして。その姿を見るたびに、リーゼは研究ノートを閉じて立ち上がった。まだここに来ていない人がいる。まだ治していない人がいる。そう思うと、手が自然に動いた。


 リーゼは冬を、意外なほど好きになっていた。


 外が静かになる分、作業場の時間が長く取れた。雪の日は往診もなく、山への採取にも行けない。だから一日中、薬草と向き合っていられる。前世の研究室を思い出させる、閉じた時間。しかし今は、一人ではなかった。


 作業台の向かいには、いつもガルト爺がいた。老薬師は冬になると関節が痛むと言いながら、それでも毎日薬棚を整理し、患者の話を聞き、リーゼの試作品を確認した。七十一年間この仕事を続けてきた人間の、静かな職人の時間がそこにあった。二人の間に会話がなくても、作業台の前に並んで座っていると、それだけで十分だという感覚があった。前世でも今世でも、誰かとそういう時間を持てたのは初めてだった。


「師匠、このブラッドモスの乾燥具合はどうですか」


「もう二日置け。まだ水分が多い。急いで使うと成分が薄まる。焦るな」


「わかりました。それとこれ、新しい配合の試作品です。確認してもらえますか」


「……お前さんは本当に、手を止めんな」


「冬だから外に出られないので、やることが増えます」


「言い訳が増えとる」


 ガルト爺はそう言いながら、試作品の小瓶を受け取った。老薬師の目が、液体の色と透明度を確かめる。鼻を近づけ、かすかな香りを嗅ぐ。長年この仕事をしてきた人間だけが持つ、感覚による鑑定だ。薬師組合の分析装置などなくても、この老人の目と鼻と舌は、機器に劣らぬ精度を持っていた。


「……これは、また改良したのか」


「万病散の第四版です。前回より浸透速度を上げました。急性の感染症に対してより早く効くはずです。先週の試作より溶解温度を五度下げて、成分の揮発を抑えています。理論上は投与後十五分で血中濃度が有効域に達します」


「飲み心地は」


「少し苦みが増しましたが、許容範囲かと。ただ——」


「子どもには飲ませにくいかもしれんな」


「そうなんです。そこが問題で。蜂蜜と混合すると成分が変性するか確認しているところです。甘味を加えつつ薬効を維持できる代替案を三種類試しているんですが、まだどれも一長一短で。カモミール抽出液は味が改善されましたが浸透速度が落ちる。リンゴ果汁は成分変性がなかったが苦みが逆に引き立つ。今夜また別の配合を試す予定です」


「……嬢ちゃんが来てから、わしの仕事は試作品の確認と患者の話し相手になった気がする」


「師匠が問診をしてくださるから、私は研究に集中できます。それはとても助かっています。師匠がいなければ、私一人では患者の数に追いつけなかった」


「うまいことを言う」


 老人は笑った。皺が深くなり、目が細くなる。その笑い方が好きだ、とリーゼは思った。前世でも今世でも、自分の周りにいた人間の笑い方で、一番温かいと感じるものだ。それを好きだと思えるようになったのも、この半年間の変化の一つだった。


 リーゼがアルシェアに来て、半年が経っていた。


 施療院は今、国境の街に本院、王都に近い街に分院が一つ、北部の港町に分院が一つある。本院の補助者は六人に増え、各分院にもリーゼが訓練した薬師助手が配置されていた。患者の数は最初の頃の十倍以上になっていたが、補助者が増えたことで一人あたりの対応は以前より丁寧にできるようになっていた。三ヶ月前には、朝から晩まで走り回っても追いつかない日があったが、今は落ち着いた対応ができている。


 リーゼ自身は国境の街を動かなかった。


 分院の設立や行政的な調整はフェリクスが王家の名で進めてくれており、リーゼは複雑な症例への対応と製法の指導、そして研究に専念できていた。自分が得意なことだけをしていられる環境が整うまで、半年かかった。人を動かすこと、組織を作ること——それはリーゼの得意なことではない。しかしフェリクスにはそれができた。二人の役割分担は、馬車の中で話したあの日から変わっていなかった。


 毒草の栽培実験も、少しずつ成果が出ていた。


 街外れに借り受けた小さな農地で、リーゼはダークヘンベインの人工栽培を試みていた。山の土壌成分を岩石サンプルと泥水から分析し、それを再現した培養土を作り、発芽から育成まで細かく記録を取り続けた。最初の三回は失敗した。一回目は発芽すらしなかった。二回目は発芽したが二週間で枯れた。三回目は育ったが薬効成分の含有量が山のものの三分の一しかなかった。それでも諦めなかった。データを積み上げ、何が足りないかを考え、土の配合を変え、日照の調整をし、水やりの頻度と量を変えた。四回目でようやく安定して育つようになった。


「師匠」


「ん?」


「来年の春には、栽培で必要量の三割を賄えると思います。再来年には五割を目標にできる。そうすれば冬場の原料不足も解決できます」


「……本当か」


「はい。山での採取が減れば、ヴォルフさんの護衛の負担も減る。冬の間も安定した供給ができるようになります。何より——自分の手で育てた薬草は、品質の管理が山のものより確実にできます」


 ガルト爺は小瓶を棚に戻しながら、静かに言った。


「嬢ちゃんが来る前、わしはこの街であと何年働けるかと考えていた。体がいつまで持つか、後継者もいない。店を閉めることを、真剣に考えていた。長年この街で薬を売ってきたが、治せないものが多すぎた。腕を失った人間に、痛み止めしか出せない。難病の子どもに、症状を抑える薬しか渡せない。歳をとるたびに、その重さがどんどん増していた。もう十分やった、休んでもいいのかもしれない、と思い始めていた」


「……そうだったんですか」


「ああ。だがお前さんが来てから、先のことを考えるようになった。来年の春、再来年の秋、五年後の施療院——そんなことを考えるのは、久しぶりだ。本当に久しぶりだ。お前さんが来て、わしは初めて、自分の仕事が完成するかもしれないと思えた。治せないものを、いつか全部治せる日が来るかもしれないと」


 リーゼは何も言えなかった。


 ただ、胸の中に何か温かいものが灯った。前世でも今世でも、自分の研究が誰かの希望になるという感覚は、ここに来て初めて持てたものだった。研究室で黙々とデータを積み重ねていたあの頃、いつか誰かの役に立てばと思いながら、しかし実感は薄かった。今は違う。目の前の老人の顔が、その実感を証明していた。


「師匠」


「なんだ」


「私も、来年のことを考えています。五年後も、十年後も。どんな症例にも対応できるポーションを揃えること、栽培農地を広げて安定供給の体制を作ること、訓練した薬師助手をもっと増やして国中に届けること——やりたいことが山ほどあります」


 ガルト爺は少し目を細めた。


「そうか」


「ここが、私の場所になりました。半年前、国境を越えてきたとき、どこに根を張れるかわからなかった。前世でも今世でも、ずっとそうでした。どこかにいるけれど、根が張れていない。でも今は違います。ここです、師匠」


 老人はしばらく黙っていた。それから、鼻を鳴らして顔を逸らした。照れ隠しだとわかった。もう半年間、一緒にいたから、この人の照れ方はわかっていた。


「……わしも、そう思っとる」


 短い言葉だったが、十分だった。十分以上だった。


 冬の作業場に、薬草の香りが満ちていた。二人の間に沈黙があった。しかしそれは、最初に来た夜の沈黙とは全く違う種類のものだった。あの夜は互いをまだ知らない静けさだったが、今の沈黙には積み重ねたものがあった。半年分の朝と夜と、数えきれない試作品と、一緒に見送った患者の顔と——そういうものが全部、この沈黙に詰まっていた。


 外で雪が降り始めた音がした。


 リーゼは万病散の第四版の記録をノートに書き込みながら、窓の外を少し見た。白い雪が静かに降っていた。荒れた街並みを覆っていく。同じ白さで、傷も古い建物も、戦争の爪痕も全部包んでいく。


 この景色も、好きだ。


 そう思った。この街のこの冬が、この作業場の薬草の香りが、向かいで小瓶を眺めている老薬師の横顔が——全部、好きだ。


 ヴェルディアで変人と呼ばれ続けた七年間、こういう感覚を持てたことは一度もなかった。



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