13話 聖女認定
王都への旅は、半日だった。
フェリクスが用意した馬車は、リーゼがヴェルディアを出るときに乗った粗末な荷馬車とは比べ物にならない、しっかりとした造りのものだった。内装も整っており、座り心地がいい。
しかしリーゼは道中ずっと、膝の上にノートを広げて次の実験の設計を考えていた。
「揺れるのに、書けるのか」
向かいに座ったフェリクスが、少し呆れたように言った。
「書き慣れています。揺れながらでも字は崩れない」
「何を考えているんだ」
「目の再生薬の改良です。先日、全盲の老婆に試したら八割程度の視力回復で止まった。配合の比率を変えれば完全回復も狙えると思うんですが」
「……八割でも十分すごいんじゃないか」
「十割になるはずのものが八割なら、改良の余地があります」
フェリクスはしばらく黙ってから、言った。
「お前は、満足というものを知らないのか」
「研究に満足したら終わりです」
「それは……確かに、そうかもしれないな」
男は窓の外を見た。街道沿いに、小さな村が見えた。戦争の爪痕が残る廃屋と、その隣に新しく建てられた家が並んでいた。
「この国は、立て直しの途中だ」フェリクスは静かに言った。「三年前に停戦したが、傷は深い。農地の復旧、人口の回復、経済の再建——どれも時間がかかる。その中で、お前のポーションは一つの光になっている」
「大げさです」
「大げさじゃない。腕が戻った兵士が再び働けるようになれば、その分だけ国が動く。病気が治った子どもが育てば、その分だけ未来が増える。薬一つが、何十年後かの国の形を変えることがある」
リーゼはノートから目を上げた。
「……そういう考え方はしたことがなかった」
「お前は目の前の患者しか見ていないだろう。それは悪いことじゃない。だが、俺は少し遠くを見る立場だ」
「役割分担、ということですか」
「そういうことだ」
リーゼはノートを閉じた。窓の外の景色を少し見た。荒れた土地と、再生しようとしている村。
「……わかりました。私は目の前の患者を治し続けます。遠くを見るのはお任せします」
「ああ。そういう役割分担だ」
王都は、国境の街より大きかった。
しかし、繁栄よりも再建という言葉が似合う街だった。石造りの建物が並んでいるが、あちこちに修繕の跡がある。市場は賑わいを取り戻しつつあるが、かつての活気にはまだ届かない印象だ。
王宮は街の中心に位置していた。
正門をくぐると、先触れを受けた衛兵が道を開けた。フェリクスと並んで中庭を歩くと、あちこちから視線を感じた。侍女、衛兵、廷臣——様々な人がリーゼを見た。地味な旅装の若い女が王子と並んで歩いているのが、珍しかったのだろう。
謁見の間に案内された。
広い部屋の奥に、玉座がある。そこに座っていたのは、六十がらみの男だった。髪は白く、顔に深い皺があるが、目だけは若い。鋭く、しかし慈悲を含んだ目だ。
アルシェア国王、アドルフ三世。
「近う寄れ」
低いが通る声だった。
リーゼは進み出て、膝をついた。フェリクスが隣に立っている。
「顔を上げよ」
リーゼは顔を上げた。国王はリーゼをじっと見た。
「余の息子の腕を治したと聞いた」
「はい」
「見せよ」
フェリクスが右腕を上げた。国王の目が、その腕を確認した。
「二年前、もう動かないと宣告された腕だ」フェリクスが静かに言った。「今は完全に回復している」
国王はしばらく沈黙していた。
「……お前の名は」
「リーゼと申します。ヴェルディア王国から参りました」
「ヴェルディアから来て、なぜアルシェアで薬を作っている」
「追放されました」
謁見の間に、小さなざわめきが起きた。廷臣たちが顔を見合わせた。
国王は表情を変えなかった。
「追放された者が、余の国の民を救っている。皮肉なものだな」
「薬の効果は、作った者の出自に関係ありません」
「その通りだ」
国王は玉座から立ち上がった。ゆっくりと、しかし背筋をまっすぐ伸ばして。
「リーゼよ。余はお前に感謝する。息子の腕だけでなく、この国の民を救ってくれていることに」
「滅相もない。ガルト師の指導と、街の方々の協力があってのことです」
「謙遜するな」国王は言った。「お前が来る前と来た後で、国境の街がどう変わったか、余は報告を受けている」
国王は廷臣たちを見回した。
「アルシェア王国は、このリーゼを聖女として迎える。薬師院の活動を国として全面支援し、王家の庇護を与える。異論のある者は今ここで申せ」
廷臣たちは誰も口を開かなかった。
リーゼは少し困った。
「……聖女というのは」
「称号だ。お前の活動を、国として正式に認めるという意味だ。嫌か?」
「嫌というより……私は聖女ではなく薬師です」
国王はわずかに目を細めた。それから、フェリクスと同じような笑みを浮かべた。親子だな、とリーゼは思った。
「薬師として聖女と呼ばれればいい。名前は何でもいい、中身が本物なら」
リーゼは少し考えた。
「……師匠への敬意として、聖女ではなく施療師という称号にしてもらえませんか。私は薬師の弟子です」
謁見の間に、また小さなざわめきが起きた。
国王はしばらく黙っていた。それから、低い声で笑った。
「面白い。施療師リーゼ。よかろう」
こうして、リーゼのアルシェアでの立場が、正式に定まった。
帰りの馬車の中で、フェリクスが言った。
「国王相手に称号の変更を申し出るとは、肝が据わっているな」
「おかしかったですか」
「おかしくはない。むしろ、父上が気に入ったようだった」
「……そうですか」
リーゼはノートを開こうとして、少し止まった。
施療師。
聖女より、ずっと自分らしい呼び名だ。
ヴェルディアでは変人と呼ばれ、冤罪をかけられ、追放された。アルシェアでは施療師と呼ばれ、国の庇護を受けることになった。
同じ自分が、同じことをしているのに。
場所が変わると、こんなに違うものか。
「リーゼ」
フェリクスが呼んだ。
「なんですか」
「今、何を考えていた」
「……場所によって、人の見られ方は変わるものだな、と」
「そうだな」フェリクスは静かに言った。「ヴェルディアはお前を追い出した。アルシェアはお前を迎えた。どちらが正しいかは、明らかだろう」
「どちらが正しいかは、まだわかりません」リーゼは答えた。「ヴェルディアでの話は、まだ終わっていないかもしれないので」
フェリクスはそれ以上聞かなかった。ただ窓の外を見た。
夕暮れの街道に、オレンジ色の光が伸びていた。
リーゼはノートを開いた。目の再生薬の改良案を、書き続けた。
馬車が揺れた。街道を、王都から離れるように走っていった。
国境の街へ。ガルト爺の待つ施療院へ。待っている患者たちの元へ。
リーゼの場所は、そこにあった。
——第三章 了




